2023.03.06 (Mon)
最近ハマっている『山田五郎 オトナの教養講座』、
今回は、ウィリアム・ブレイクでした。
ブレイクは、てっきり、詩人が本職だと思っていたけれど、その詩作品にしても、かなり難解だし、絵はグロテスクでバッチイ感じのが多いようで、
ぶっちゃけ、私は、ブレイクの どこが、そんなにもイイんだ?と思っていた。
ピカソ大キライだった親父なんかは、ウィリアム・ブレイクだと、どのような反応を示しただろうか、それは、ルソーに対する反応を予測するよりも難しいw
ただ、どちらにせよ、少なくとも、好きでは なかっただろうなとは思う。
ブレイクなどに比べたら、よっぽど悪いやつを実行してたクチだったけどね、親父はw
ブレイクと同時代人で、共に『ロマン主義』の先駆者にして、実際に親しかったというフュースリ、
私個人的には、フュースリのほうが、だんぜん好みなのだが、
特に、妖精を題材にしたブレイクの作品は、一見してフュースリを連想した。
しかし、ブレイクの場合、実は、ばりばりアカデミックな絵画教育を受けたという経歴のわりに、それを感じさせないね。むしろ、ある種の軽妙さすら漂っている。
この前の先日、視聴したのは、ゲリシトルじゃなくて、、、ゲルストルさんだっけ、
この人の場合も、若死に(自殺だったか)で非常に短命だったそうで、
作品数も限られているせいか、私も初めて知った画家さんでしたが、
ブレイクにしてもフュースリにしても、あるいはゲルストルにしても、ある面、現代的な、イラストチックなセンスが共通してると思う。
つまり、ブレイクでさえ、いわゆるアカデミック臭が ないわけ。
ゲルストルの、わははと笑ってる顔の自画像、
あれなんかは、それこそ、Tシャツにプリントしたらウケるんじゃないかしら(笑)
で、ここから、少し真面目な考察に入るんだけど、
ブレイクの巻を視聴していて、あらためて、つくづく思うには、
一般的に宗教という、多かれ少なかれ体系的に築きあげられるヒエラルキー世界は、やはり、男性が好むところのものだなあと。
そうして、
宗教は、古今東西、これも特に男性の多くが好むところの戦争の、一大要因で あり続けている。
さて、
このテの話、うちのブログで、どこまで述べたことが あったか、自分でもハッキリとは憶えてないんだけど、
興味深いことに、うちの母親は、脳に異常性が あったこと、私の観察に おいても、おそらく『癲癇』などの潜在的遺伝が あったように思うこと、母方の叔母も、晩年に入る頃から、精神疾患を抱えるようになっていたこと、これらのことは、うちのブログの読者さんのなかには、すでに読んでいて、知ってる人も いらっしゃるかもしれない。
とりわけ、うちの母親が、幼少時から、ご近所でも有名な「霊感少女」として知られていたということ、本人自身も、そういう方面の経験・体験を重ねてきていて、
なかには、私自身も、長じてのち、身近でリアルタイムに見たり聞かされたりした出来事も あるので、私自身のことも含め、ふしぎな、奇々怪々な出来事の経験・体験を、そのうちには披露しようかなとは思っているのだけれど、
ただし、
うちの母親は、ここの自覚アリなのかナシなのか不明なままなのだが、時々、平気で嘘を言ったり、作話を述べたり、他からのパクりも やる人だったのよ。
それらも また、私自身がトシくってから、いろいろと、少しずつ気づいていったことなんだけどね。
もちろん、もともとマザコンで、単純な気質の私は、20歳代くらいのうちまでは、ほぼ盲目的に、母親の話を真に受けていたわけ。
とりあえず、
『山田五郎 オトナの教養講座』で言及された「見えちゃう人」っていうのが、いわゆるオカルトとか霊感とか、そういう方面の能力を備えているという話であれば、ブレイクの場合、そっちのほうでは ないように思う、たぶん。
もっとも、山田五郎さん御自身は、薄々にせよ、わかっておられるように思うんだけれど、コメント欄を眺めていると、やはり、わかってなさそうな一般人たちも多いようなのでね。そのくせ、わかったような尤もらしいことを言うw
むしろ、ブレイクは、私のほうと少し近いのでは なかろうかというのは、
殊のほか「ビジュアル イメージ」が豊かで鮮明なのね。それも、確信的なまでに。
やはり、さすがに画家だけあって、この事物は、こうに違いない!こうでなければ ならない!というくらいの強さで。
どこか他の所で、たまたま目にしただけの、他者によるイメージでも、
それが、自己の内部でシックリきたものであれば、そのまんま、自分の吐き出すイメージとして用いてしまう。
ブレイクの、いわく「見えちゃう」というのも、そういうことなんだと思う。
小説とかを読んでも、つまらない、楽しめないというタイプの人が時には いるもんだけど、
そういう人は、文章を読んでも、ただ、文字の羅列でしかなく、そこからイメージが広がっていかないというのね。
私なんかは、そのシーンごとに、全体の情景は勿論、登場人物の風貌から身なりから声や しゃべりかたの感じまで、ありありと思い浮かべてしまうんだけど、だからこそ、小説のなかへ没頭できる楽しみ、醍醐味も あるわけよ。それがカラッキシないのなら、そりゃツマランわよね。
この人の存在も、私は知らないままでいたんだけど、なんと、日本でも、すでに明治時代から知られていたらしい。
そんな昔の感じの作風じゃないわよね、この画家も。こちらも、軽妙なイラストチックなセンスを感じさせる。
時間が なくて、ざっと流しつつの視聴なので、こまかいところは端折るけど、
この人の場合も、親の代から大変な お金持ちで、おとうさんが、思いがけず早く亡くなったゆえ、ロップス氏は、ごく若いうちの莫大な遺産相続によって、自分自身も大金持ちになれたそうなんだけど、その おかげで、女性関係も やりたいほうだい、という、典型的な男性の夢を叶える放蕩的、デカダン的な人生だったらしい。
たとえば、
本妻と、その子が ありながら、とある姉妹の両方とも性的関係を結び、そのあいだの子も儲けたりしていたそうなんだけど、
まあ、カネあればこそ、だわな。
私が、「露悪」を奨励してやまなかったというロップス氏を前にしたら、
このように言い放つだろう。
「ぺんぺん草とて1本だに生えない、赤貧洗うが如しの生活だったら、こうは できなかったのじゃない?」
「あなたは自分勝手に好きほうだいで大満足できたわけだけど、奥さんや愛人たちも、あなたに負けず劣らずな身勝手、放蕩、デカダンぶりで あったなら、太っ腹に受け入れられましたかねえ?」
と。
加えて、
彼の作品の一つを見て、もよおした不快感とともに、
「悪いタネ撒きちらかして悦ぶのは やめい!!」
と怒鳴っちゃうかもw
だって私はね、
幼い頃から、おとなたちのドロドロした汚いものを、いやというほど見せつけられて育ってるから、もう、おなかいっぱいなの。
ただね、
このロップス氏、正妻さんたちは本宅(←お城なんだって!)に ほったらかしだったとしても、唸るほどの大金持ちだから、愛人である姉妹たちも同じく、生活は しごく豊かに、最後まで、めんどうみてあげてたらしい。
画家として自分の仕事にも励み、熱心に取り組み、それが また、大いに稼ぎを呼んだという。
決して、根は不真面目というタイプじゃなかったんでは なかろうか。
だいたい、貧しい姉妹を両方とも引き取って、捨てることなく養ったというのは、さしづめ、『イスラム教』あたりでは、お手本とするところじゃないの?w
ただ、作品そのものについては、あくまでも私個人的に、好みの作風では ない。
私は、グロテスクとか陰気とかバッチイ系が苦手なので。
それでも、フランシス・ベーコンなどの作品を初めて見たときは、つい、まじまじと見つめてしまったし、いまでも、そういう傾向は あるんだけどね。
陰惨な作風でも、どこかしら美的なものを少しでも見受けられたなら、けっして心底からキライでは ない。
あるいは、
もしかしたら、
「自分にないものだからこそ、求めたり憧れたりするもの」
という説が妥当だとするならば、
根が真面目で、おとなしく平凡なタイプほど、いわゆる「危険な男」やら「悪女」タイプに魅かれるのとは真逆で、
それこそ、自分自身が不真面目でデカダンなタイプだからこそ嫌うのである、と言えるのかもしれないw
たしかに、私は不真面目かもしれないが
ww
はて??どうでしょうか?(苦笑)