2015.03.15 (Sun)
『★次回予告★』
ということで、毎度の気ままゆえ、だいぶ予定が遅れたけど、この間、「東日本大震災」の追悼日も過ぎたし、そろそろ、本文をば。
これから紹介する、ある女性の回顧談は、外国人と結婚して、国家公務員である夫の国、かつ、ご本人自身も、独身時代に留学していたことのある国へ定住、すでに短くはない年月が経ったという女性から打ち明けられた話だ。
ふだんの私は大概、何ごとにつけニブいほうのタチなもので、
利発でシッカリ者の彼女とは、性格が根本からして大きく異なっているであろうせいもあるのか、この話を聞かされた時点では、あまり、ピンと来なく、とにかく、まずは、そのことについて多かれ少なかれ引きずっているものがあるらしき彼女の気持ちを、少しでも やわらげるようにと、言葉を選びつつ、できるかぎり丁寧に返事を しておいた。
けれども、
あれから数年も過ぎてのち、
あのときの彼女の語り口とは裏腹に、くだんの回想の根底に横たわっていた、ある種の凄まじさのことを、ニブい私は、ふと気づいた。
それと同時に、
彼女が、さりげない静かな語り口の内に秘めながらも、それとなく、私に求めていたところの真意とを。
恐らく、そこだけは、大きくハズすことなく、彼女の心底の願いを満たせる程度には辛うじて、私にも応えることが できていた、のであろうと思っている。
たしかに、彼女も、私からの応答に、多少の安心感を得られたようだったし、その後は、いつもの彼女のように、
「OK!自分の生き方や人生悔いなしだわ。これからも、わが人生を謳歌よ!」といった確信を、より強く取り戻していたようだったから。
そうして、月日が経つにつれ、彼女の あの話は、どうしようもない重たさを含んでいたのだった、ということに気づいていった私。
でも、いま振り返ってみて、
彼女の気持ちを少しでもラクにしようと思って、私が用いた慰めのコトバは、やはり、あれは あれで良かったのであり、けっして間違いというわけではなかったことだろうと、あらためて思うものである。
子を持った経験のない私には、子としての立場からでしか、確実なところは言えないし、また、もしも自分自身が、子の親という身であったなら、という想像を はたらかせて言うしかないのだけれど、
おそらくは、彼女の おかあさんに、その お気持ちを、もしも、伺うことができたとしたら、
「ええ、娘の気の済むように、本人の生活第一優先にしてもらって、それで私は良かったんですよ」
と、おっしゃるのであろうと思うからだ。
ところで、
つい先ごろ、「東日本大震災」追悼式典にて、陛下ご夫妻が耳を傾けられる前で、自身の母親を失ったおりの、なまなましい苦痛の記憶とともに、これからの、かくあるべしという生きかたの希望とを
(それは、まさに、ほとんどの日本人たちからも、「かくあるべし!」と称賛される価値のある、と同時に、そういう前向きさ溢れる決意を示せなければ、昨今の日本においては、かえって、陰湿に咎められかねぬやも、という一抹の不安さえ覚えるほどの風潮のなかで)
じつに健気そのもの、逞しくも痛々しいほどの意志の強さを語りきっていた、若い女性のスピーチを目にしたあとでは、
苦手な文を綴る意欲も萎えた私は、ますます、当エントリーをアップするのが、大幅に遅れてしまったほどなのだが、
さて、まあ、肝心の話を。
ごく掻い摘んで紹介しよう。とても、気が重くなってしまったので。。。
要するに、私が聞かされた話というのは、
知人の女性の母親が、たしか、癌だったと記憶するが、その末期の段階となり、たった一人の兄弟も、あいにくと、国外での生活という状況、高齢になっている父親だけでは大変になったため、長女である彼女が、日本に帰国して、実母の看病を つとめる中心を担うことになった。
その頃、入院していた病院から自宅へと、余命短い母親を運び戻して、言わば、最後の病床を看取る覚悟での看病であったので、そのなかで、毎日投与するべき点滴内容の成分割合について等、あらかじめ、看護師からの詳細な指導を受けていたらしい。
おかあさんは、いよいよ衰えていったものの、最後の時は、案外、それほど すぐには訪れなかった。
たぶん、彼女のことだから、日々の看病ぶりが細やかにして適切なものだったゆえの延命効果もあったかと、私は思っている。
日本の実家での看病生活は、思いのほか長引き、彼女にとって、かなり予想外の期間を費やすこととなった。
若い頃から彼女は、睡眠から覚めた時、非常に苦しい頭痛を引き起こすという独特の症状に悩まされていたそうだが、そのことも、末期が近づいた母親の看病生活を、より暗い気分にさせがちだったかもしれないし、
何よりも、彼女にとって、遠い国に一人残してある夫のことも気がかりでならなかったようだ。
やがて、彼女は、決心を固めた。
すなわち、看護師が、それとなく仄めかすように教えてくれていた、点滴の成分割合の調合を、自分の期するところに合致するべく、少しづつ、少しづつ調節していった。
そうして、
彼女の思うがまま支配と君臨を受け入れてくれる、優しい穏やかな夫の待つ、広い庭の美しいマイホーム、彼女の人生最大の誇りとする異国での張り合いに満ちた日常生活へと、やっと、戻って行った。
要するに、そういう話だったのだ。
まあ、私はニブいもんだから、あの当時は、全然違う角度から、その話を受け止めていただけなんだけど。そうして、だいぶ経ってから、ふと、「あっ、そうなんだ、、、」と思い当たった、ってわけ。
それから、つくづくと思った。
私には、到底できないことだわなあ、と。
どうしても、突っ撥ね切れず、どこかで引きずられてしまっていた、それが、私のトータルした甘さであり、
クールで賢明な彼女と、そういう彼女を育て上げた、これも またシッカリ者でいらしたであろう、おかあさんとの、聡明さに貫かれた親子関係とは全く異なり、
複雑怪奇極まる家族関係のなかで、深い恨みつらみや怒りが数世代にもわたって幾重にも交差し、言い知れぬ感情の縺れ重なりを抱えている、そんな家庭で育っていても、この私には、やっぱり、母に対してだけは、できないことだったろうと思う。
……
親の立場にせよ、子の立場にせよ、はたして最後の最後に、どのような状況のなか、どのような行動を取るか。
それは、自分自身ですらも、予測しきれない部分を孕んでいて、
まったく、その人しだい、その人によるものなのだと、つくづく思ったことだ。
『碓井真史先生へ』