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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.03.08 (Sun)

こういう記事を見つけた。

中東戦略というステージにおける日本外交の過去からの流れが理解しやすい。

 

しかし、なんで、このサイトは、、、と言うか、他でも同様に、過去記事に年月日を明記しないでいるサイトを見かけたことがある気はするのだが、その理由が分からんということを、以前にも書いたことあったけど、いまだにワカラン。全部、きょうの日付にしてある。こういうのって、記録として良くないんじゃないの?と思うんだけどなあ。。。ちょっと検索してみたけど、わけワカンナイまま

とりあえず、2009年当時の特集記事らしいということだけ分かった。

 

http://globe.asahi.com/feature/090316/03_2.html

 

[Part2] 石油危機から「湾岸トラウマ」、アラブよりの路線を転換

日本政府が中東和平問題と向き合わざるをえなくなったのは、73年の第4次中東戦争とそれに伴う石油危機の時だった。

その年の11月に来日した米国務長官キッシンジャーは首相の田中角栄に「親イスラエル外交を」と詰め寄った。田中は返した。「日本は中東の石油に依存している。石油が来なくなったとき、米国が供給してくれるのか」。国務長官は答えられなかった。首相秘書官だった小長啓一(後に通産事務次官)は、田中からそう聞いたという。

こうして「アラブ寄り」に日本外交の重心が移ることになる。官房長官の二階堂進は、パレスチナ人の自決権を認め、すべての占領地からイスラエル軍の撤退を求める内容の談話を発表、副首相の三木武夫を政府特使として産油国に派遣した。いわゆる「油乞(ご)い外交」である。「日本はそのとき、石油問題が国際政治そのものの問題となりうると強烈に認識した」。外務省から随行した有馬龍夫(現・政府中東和平担当特使)は振り返る。

 

その路線を日本が変えたのは、イラクによるクウェート侵攻湾岸戦争を経た90年代初頭だ。国会での激しい論戦の末、周辺国支援を含め130億ドルという巨額の税を投じ、機雷を処理するためペルシャ湾に海上自衛隊の掃海艇まで派遣したにもかかわらず米国などが下した評価は「トゥ・リトル・トゥ・レイト(遅すぎるし、少なすぎる)。この「湾岸トラウマ」から、日本は同盟国米国に寄り添い、目に見える貢献を目指す外交へと「百八十度、姿勢を変えた」(池田明史・東洋英和女学院大教授)。

予兆は80年代後半からあった。85年、イスラエル外相としてシャミルが初めて訪日。88年には外相の宇野宗佑がイスラエルを訪れた。貿易摩擦が深まるなかで、米国内で「油にしか目がいかない」と日本の中東政策に対する批判が高まっていたころのことだ。

そして冷戦終結。米国はイラン、イラクを二重に封じ込め、中東での新たな秩序づくりを主導する戦略を描く。日本は対米協調を鮮明にし、中東和平への関与を強める

93年のオスロ合意を受け、首相の細川護熙は同年9月の国連総会演説で、パレスチナに対する「2年間で2億ドル」の援助を表明。95年には村山富市首相が初めてイスラエル、パレスチナ双方を訪問した。「日本は米国の世界戦略に組み込まれ、日本の中東外交は事実上、対米外交となった」(孫崎享・防衛大教授=元駐イラン大使)。日本独自の中東外交の表れだったイランとの良好な関係も、イランを「悪の枢軸」と呼び、敵意をむき出しにしたブッシュ米政権の下で色あせた



[Part3] 強まる米国の中東戦略 狭まる日本の独自外交

イスラエルによる昨年末のガザ空爆で、日本は1000万ドルの緊急人道支援を表明。32日のガザ復興を支援する国際会議では今後数年間で総額2億ドルの支援を打ち出したが、サルコジ仏大統領やクリントン米国務長官らが現地入りするなか、日本から首相や閣僚の出席はなかった。

日本は、米国、欧州連合(EU)、国連、ロシアでつくる「
中東和平4者協議(カルテット)」にも入っていない。第2次インティファーダ(民衆蜂起)を受け、中東和平のロードマップを提示した枠組みに、日本が正式に参加を申し出たところ、日本を「米国追随」とみなすEU側の反対もあり、はじかれた。「政治の関与を印象づける場として使う手はあった。参加を強く求めなかったのは判断ミスだった」と野上は言う。
和平の仲介に積極的なフランスなどは水面下でハマスと接触を始めたと伝えられる。

立山良司・防衛大教授は「ガザからハマスを排除できないのだから、日本もハマスの声に耳を傾ける方法を探るべきだ」と主張する。だが、政府は「イスラエルの存在を認めず、暴力を容認しているハマスと交渉することは、ハマスに一定の正当性を与えかねない接触は考えていない(有馬)との立場だ。

ガザ空爆が止まった1月下旬。首相特使の安倍晋三はサウジアラビアとイラクを訪れた。だが、35年前の『油乞い』外交のようなミッションはない
石油危機当時、日本のエネルギー供給のうち8割近くを占めた石油だが、エネルギー源の多角化が進んだ結果、いまは4割余に減少した。石油備蓄も半年分はある。昨夏までの油価高騰の「主因」は米国発の投機資金。中東への依存度はまだ高いものの、「エネルギー源の多様化がさらに進んで、いちばん困るのは産油国自身。石油を武器に使うことは、もはやありえない」(三井物産戦略研究所の榊原櫻・研究フェロー)との見方が定着している。


和平交渉に直接かかわることができない。石油の重要性もかつてより小さくなった。では、米国の中東戦略のもとで、日本は何ができるのだろう。小杉泰・京都大イスラーム地域研究センター長は言う。
中東から見ると日本は大国。だからこそ、平和主義路線を安易に捨ててはいけない。紛争時の人道支援、紛争後の民生支援にもっと力を入れるべきだ」

00年にパレスチナのインティファーダ(民衆蜂起)が始まると、イスラエル軍の攻撃は、ガザ空港など自治区の社会経済基盤も標的とした。059月にイスラエル軍がガザから撤退した後は、ガザは封鎖状態に置かれ、ガザの経済は死に絶えた。その上に、昨年12月末から3週間の大規模なガザ攻撃が続いた。
ガザの15年間は、いくら経済や社会基盤に支援をしても、和平を実現しないかぎり、あっという間に水泡に帰すという教訓だ。

 

(文字強調は、ブログ主による)

 

【続く】

 

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