2015.05.18 (Mon)
の続き。
私個人的には、最初のうち、断定は できないと思って、しばらく、ようすを見ていようとしたのだけれど、わりと早い段階で、橋下さんという人は、はたして、その人間性に安心して信用を置いていていいかを危ぶむようになった。
この人もね、何はなくとも要領の良さ、押しの強さばかりが目立った。
同時に、とーっても分かり易いイメージはあるから、けっこう、正義感が高い人かなあというイメージと期待も湧きかけるのだけれど、
どこか薄っぺらじゃなかろうかという不安も拭い切れない。
そう、高次の哲学がない、という感じが するのだ。
近ごろは、特に政治の分野でも、こういうのが目立って増えてきたのか、多いなあと嘆息する。安倍さんなんかも、その代表格。
たとえばね、
「在特会」たらいうところの何たらいう代表者(いまもそうなのかは知らないけど)、橋下さんに呼ばれてノコノコ出てきて、あっという間に、両者とも口汚いケンカに終わったという、低次元なパフォーマンスがあったけど、あのときの橋下さんの発言も、いたって表面的なものに過ぎず、その腹の内も、それほど糾弾とか追及する気ではなく、いたってイイカゲンなものでしかなさそうということが、なんとなく感じられた。
それから、
ナントカ言う、女性の議員で、橋下さんとこの党を除名になった者がいたでしょ。
あのときの釈明会見に並んで座って、なかなか厳しいセリフを ぶつけてはいたけれど、
考えてみれば、調子のいいことだとも思えた。
他の事例でも軒並みというほどの勢いで曝け出されてたが、
要するに、橋下さんって、人を見る眼が乏しいのかなと。
しょせん、相手のレベルが自分のレベル、
人間って、自分が理解可能な、自分のレベルに近い相手だからウマが合い、気に入るのだろうか。
こういう、人選力の低さは、まさに、安倍さんとの共通点が大きいが、
これだけじゃあない、
石原・元東京都知事とも大いに似ていて、
本気では腹にないのかあるのだかワカランような、いかにも顰蹙もののセリフを平気で吐きがちなところ、
潜在的ホモに意外と多いという「マッチョ」志向っていうの?w
かつ、酷薄にして公私混同の性向とがチラチラ窺える。
安倍さんから託されてNHKに君臨してる籾井さんも、その典型だわね。
いずれのジジウヨも、私の大っ嫌いなタイプなのw
どんなに結構そうな構想でもね、
それを提案する人の人間性に不安を感じさせられてしまうようでは、その構想に対してまでも、眉毛に唾したくなるもんだよ。
あっ、チンタロウお爺さんと言えば、
その蜜月時代の橋下さんは、「じじ殺し」とかって呼ばれてたそうなんだけどw
実際、チンタロウお爺さんは、隠れ「その道の」ひとなのだという話もあるようで(爆)
「ゲイの子だくさん」てwwさすがと言うのか何と言っていいのか、
そう思ってみればだな、
橋下さんの、少し聞かん気な幼さの残るような顔立ち、
一種「とっつあん坊や」的雰囲気は、あの「薔薇族」とかいうあたりに好まれるのかもなあwww
どうりでと言うべきか、圧倒的に、オッサンらの支持者が多かったってね(爆)
ま、たしかにね、この私でさえも、どこか憎めない、ちょっとだけカワイイ感じはするよ、橋下さんて(笑)
くだんの構想が実施されることは なくなったし、ご本人についての批判的意見は、このへんで切りあげとくけどw
記者会見によれば、
「僕みたいな政治家が長くやる世の中は危険」ですって?
自分で言ってりゃ世話ないwとも思ったが(笑)
よくぞ、そこまで客観的に おっしゃったものです。
なんといっても私はね、
安倍・自民党の改憲にはゼッタイ反対の所存ですので、
橋下さんが、くだんの構想を実際に推進していくにあたり、安倍さんらの改憲に協力する事態になっては大変だと、それが一番、心配だったの。
これが なければ、府民側としては、むしろ、少しはトクな話と受け止めたかもしれないがね。
それにしても、『大阪都』というのは、どうにも語感が良くなかった。
ネーミングの不思議な作用力ってのも、たしかにあるな。
権限が あまりにデカくなれば なるほどに、その地位を一身に任される者の人間性と思想性、先見性が重く問われることになる。
失敗は許されないのだから。
そういう賭けを恐れて、
ある程度、権限を狭めておくとすると今度は、思い切って大胆な施策を通しかねる、といったジレンマも生じてこようから難しいものだ。
それにしても、
さしもの自民党が、二方向に分かれたねー。
あの安倍官邸を怒らせたほどとはw
今後が楽しみだわぃww
さしあたって今後の問題は、
言うところの「二重行政」云々にせよ公務員数の問題にせよ、敢えて「『大阪都』構想」にしなくても、じゅうぶん改善できるはずのことだというのならば、さっさと実行に とりかかるしかあるまい。
『橋下・維新』が登場する以前から携わってきた各党・会派は、自分たちの無能ぶり、不甲斐なさが招いた騒動だったことを猛反省すべしですわな。
総投票の半数近くが、「『大阪都』構想」に賛成していた、
という重い事実。
このまま現状維持で許されるわけがないのは、ある意味、「風雲児」たる橋下さんの おかげで、いよいよ明白になったのだから。
2015.05.18 (Mon)
うーん、
反対票数やや優勢と出ていたのが、最終1時間ほどで、たちまち逆転したらしいというのは、ちとフシギの感。
やっぱり、ありがちみたいだなあ、「劣勢」と報じられると、あわてたごとくに盛り返す、ってな傾向は。
だからね、
いっそ、こういうニュースは、結果判明するまで、あえて報じないままにしておくほうがいいのではないかと、かねて思っていた。
…と、今さっき、結果が判明しました。
あろうことか、
自民党と共産党がタッグを組んだみたいなことも、前代未聞級の珍現象だったのじゃなかろうか。
誰かが言ったという「自由共産党」かっというコトバ、
聞いた瞬間、フき出したけどさw
でもね、
自民党と共産党と、それぞれの側で反対した理由も、全部が同じということでは決して、なかっただろう。
しかし、「自由共産党」、理念、概念としては悪くないかも(笑)
さて、今回の敗因の大きなところとしては、
自民党寄りの人たちからも、反自民党的スタンスの人たちからも、共通点と同時に、それぞれの考える理由によって、両方から警戒されてしまったという面はあると思う。
私自身、自民党には基本的に、くみしたくない立場だし、既得権益というものに胡坐を掻いている者らを許しておいていいとはサラサラ思えない。
だが、
それと同じくらいに、
もしかしたら、もっとマズい方向に行ってしまうのではなかろうか、という危惧も感じていた。
で、その「『大阪都』構想」だが。
私は、これについて、早々に調べてみても調べてみても、
なんだかイマイチ要領を得にくい話だなあという第一印象だけしかなく、その点、『TPP』と よく似た印象だった。
もっとも、『TPP』の場合、あまりにも水面下過ぎて、とうてい、分かりやすいはずもないのだが、
そこへいくと、「『大阪都』構想」のほうは、いっしょうけんめいに、提唱者を始め各方面から、内容について、ああだ こうだと説明してきているらしいのに、にも かかわらず、よく理解できなかったのだ。
やっと最近になって、
要は、市の持っている財布を、府と共有するというか召上げちゃって手を突っ込み、なかみを掴み出す権限というか、それ以上に、
つまりは、府のガマ口自体を でっかくしちゃおうぜ、ということが一番の目論見らしいので、それが良いか悪いかは ともかくとして、
まず、
当の大阪市民にとっては損になると感じるに違いない話だというのに、なんで大阪市長の椅子にある人が、それを やろうよと言うのか、なんかヘンな感じがしていた。
そりゃあ、府知事に就いているときに言うのは、まだ違和感ないんだけども。
とりわけ大阪市は、昔から、国内外の食い詰めた人たちを、鷹揚に受け入れてきた歴史と気風がある。
このことも、旧ブログで述べたことがあるが、
うちの母は、大阪ド真ん中育ちだけに、時々言っていたものだ。
「他県の人間は、よう知りもせんと、やれ大阪の人間はガメツイだのと、思い込みのイメージだけで言いたがるが、昔の大阪の旦那衆や商人というものは、稼がせてもらった分は、いずれ、糸目を付けずに社会還元ということを哲学として持っていたもんや」
と。
市内に残っている、あの瀟洒にして堂々たるクラシカルな公会堂などは、まさに、その大阪商人の哲学の象徴と言えるものの一つだろう。
いま、総じて日本の商売人というもの、はたして、どうだろうか。
例の構想では、橋下さんから垣間見える人間性と相俟って、
どんなに言い繕おうとも、恐らく、福祉面の後退は免れないものと覚悟せねばならないのではという懸念が拭えなかったし、
各界の識者や専門家の指摘にもあったように、「既得権益」のゆくえは、単に、当事者・対象間の入れ替わりに終わるのではないかということも危惧された。
(大きく、共産主義ほかの革命的思想においても、そうした現象は言える)
市の公務員人数がダントツ多過ぎとかいう問題点のことも、一概に叩けるかというと、そう単純な話じゃないようにも思える。
近ごろ、日本全体で、公務員も、激しいバッシング対象になっているようで、
叩かれた公務員が、今度は、自分の足元で管轄する社会弱者をイビるようになる、こういう図式になってきてるんじゃないかと、はなはだ危惧している。
日本全体を覆ってきている、薄黒い雲の広がり。。。
ところで、市役所の公務員と言うと、
私の知り合いが、地元の市役所でアルバイトした経験を話していたときの内容を憶えているのだけれど、もう、はや数十年も前の話だ。その人が言ってたには、
「市役所のバイトって、けっこうシンドイでぇ。公務員ってのは、とにかく、ほんとうに動かへんよ、自分たちが かったるいと思うような、めんどうな作業とか、動き回ったり、ちょっと力が要るような作業は全て、アルバイトに申し付けておいて、自分らは、机の前に座って、おやつ食べたり雑談しながら、ゆったりノンビリやってたでw」
てな話だったのだが。
ま、ある意味では、
正規職員を大勢雇用できていたということは、それだけ、大阪市の懐に余裕があったからだろうし、いまとなっては、むだを省き、安上がりを最優先!ということで、彼らをバッサリ解雇し、そのぶんを非正規等で雇用して穴埋めするということになってしまうのならば、これ はたして、俯瞰した社会経済的にもメリットになるかデメリットになるのか、一概には言い切れないことなのではと思える。
「ヤフコメ」の投稿でも、「『大阪都』構想」支持者たちは、
ここにおいても老人たちばかりの意向が通ってしまった、これからという若い世代が可哀そうだ、とか未練たらしく言い募ってたけど、
第一に、
中間層と若い世代の激減、そうした状況についても、一番の長きにわたり与党として、日本社会全体の舵取りを担ってきた自民党と、その支持者たちの罪は重い。
こうした状況になっていなければ、老人たちなどを殊更に敵視することもなかっただろう。
あげく、
いまじゃあ、ミリオタうよの星、安倍さんの再登場を許してしまい、
ますますもって、中間層の逼迫と若い世代の激減を加速しそうだ。
【続く】
2015.05.14 (Thu)
の続き。
わが国が敗戦直後のアメリカの目論見に、日本自身の防衛力を含めた戦力の類を完璧に削ぎ落としておき、その代わり、アメリカ自身が、その戦力でもって日本列島をカバーするという腹もあったかもしれないし、
しかし、
そんな全面的に労力を注ぎ込むよりは、
自分で できることは自分で やらせておき、それを超えるところのことは、アメリカが思うさまコントロールする、そのほうが、ずっと経済的で合理的だと判断したのかもしれない。
そこで、
仮に、日本国自身の防衛を含めた戦力一切を捨て去り、ドグマ的なまでに「憲法9条」を堅守するとなれば、それは、すなわち、日本の国防を100パーセント、アメリカの軍事力に頼ってしまうということにならなかったであろうか。
もしも、そうとなれば、米軍基地は、いま以上に多く、万遍なく日本列島を覆っていただろうか。
あるいは、
自前の防衛力として「自衛隊」という特別名称の存在を認めると同時に、(これも、だいぶ前から述べておいたことで)
言わば、
子豚が少しずつ肥え太ってきて、やがて美味しく食べ頃になるのを、今や遅しとアメリカは待っていた、
ということなのかもしれない。
いつごろ、そういう段取りを画策していたやら知りようもないことではあるが、
もしか、ことによると、そもそも、そういうことをも承知のうえだったのか。
アメリカの干渉のせいなのか、「平和外交」徹底も足りず、これを間接的防衛の柱に据えられる徳を得ずば、結局、真の無防備になってしまう、
はたまた、
日本国民に根強い反感と嫌悪感が残り、第一に、戦勝国側が許可しない核兵器装備、
それ以外の軍備なら、すでに世界有数のレベルに達しているとも言い、ここへ来て、アメリカの使い勝手が良くなった自衛隊、
同時に、
特権的エリアを国内に幾つも献上し、「思いやり予算」を筆頭に、金銭的献上も続けていくつもり、らしい。
何度も言ったけれど、
米軍基地というものが変わらず厳然として、わが国内に存在する以上、このことについて根底から問い直し、明確な意味と位置づけを示せないうちから、日本の「普通で」「対等な」軍備を目指すなど、あり得ないことだ。
ヘタすると、そうした軍備を手中にしても なお、
自国の法治が及ばない土地と莫大な金銭を献上し続けるという、滑稽も極まる屈辱の姿を平気で維持しかねない。
それが、「親米」派たちの異様な鈍感さと矛盾性であり、もはや、この国の習い性と化しているかのようだ。
「中国に侵略される」という前に、とっくの昔に、アメリカに乗っ取られているというほうが実態だろうに。
沖縄の基地問題が話題に上がるや否や、ワッと湧いて出て異口同音に、
「黙れ、基地は絶対に必要だ、中国の脅威がー」
と叫び倒す。
どうやら「中国の手先」(?)なんかより何倍もの
アメリカの手先は、日本国内に大量に居るらしいと思えてきた。
そのくらい、凄まじい勢いだ。
安倍さん、日本も戦争できるように お膳立てしておきたいからといって、外交の基本である近隣国の友好を台無しにしてもと、自国民を むやみに煽って、要らぬ危険性を高めるのは やめてくださいね。
あなたの「お祖父ちゃま教」と、それを媒介したマザーコンプレックスは、はた迷惑です。
いずれにせよ、
長年のあいだに、慢心に陥り、せっかく得た幾多のチャンスを結局ムダにし、こんなになるまでの失政のツケを生み、積み重ねてきた自民党、とりわけ安倍政権の潰える日が来るまで、
とにかく、彼らに、憲法を弄わせてはならない。決して。
ろくなことになりやしないのは、火を見るよりも明らかというもの。
2015.05.14 (Thu)
『たそがれる護憲=社民弱体化で失速【戦後70年】』
時事通信 5月13日(水)11時33分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150513-00000048-jij-soci
上記の記事に付いた「ヤフコメ」にも、毎度のごとくでカン違いしてる投稿者がいるけど、、、
憲法ってのは、単なる法律とか規則・ルールの次元のものではないよね。
なので、そのときの目先の状況・情況しだいに、つごう良くコロコロ変えるものじゃないね。
だって、「理念」なのですからね。
理念を骨格・背骨として、現実に対処し、用いるための規則、ルールの肉付けをしていくわけで。
たとえば、戦争は しない、少なくとも、やむを得ぬ専守防衛のため以外には断じてやらないのだという誓いを崩してはならぬと決心し続けていく以上、その誓いを背骨として、あらゆる法律、ルールを とり決めていく。
だが、いまや、「ナチスに学べ」現政府の やりくちによって、
あえなく、その「背骨」に、穴を あけられつつある。
現憲法の優秀さというもの、これ すなわち、ギチギチでなく、柔軟に伸び縮みもするがゆえ、こんにちまでを持ち堪えたし、
反面で、
詭弁・歪な解釈による「実質改憲」という卑怯な手口を使って、つけ入る隙にもなるという脆弱性と言うべきか、
まさに、いま、安倍政権が体現してみせている危険性のことが、いよいよ明らかになってきた。
日本の場合も、あくまで平和的・友好的外交による間接的な防衛を基本に据えつつ、万が一にも攻撃されたときには自分自身で、できるだけの防御が可能なように、撥ねかえせるように整えておく、それで なお不足の恐れが残る部分は、アメリカとの契約によって埋める、概ね、こういうことで やって来たはずなのだが、どうも近ごろ、雲行きが甚だ怪しい。
喩えてみれば、
自分で身を守る術を持ち得ていない乳幼児の場合、まるっきりの無防備だからこそ、知恵と力量ある保護者や周囲の者たちが、あらゆる危険から守るべく配慮するわけで。
もちろん、よりによって乳幼児を襲うような言語道断の輩は、誰しも許せないだろうから、咎めも諌めも罰しもするはずだが。
さて、私は、よくは知らない社民党の方針はドグマ的に、自衛のための戦力ですらも、現憲法の基本的テクストに反する、という潔癖なスタンスらしい(?)のだが、それじゃあ、「おたくの家では、鍵を掛けずに就寝するのか?」とか「もし犯罪行為に遭っても、防御もせず、やられっぱなしで居りなさいと言うのか?」という、ありがちな疑問の声が多々起きてくるのも無理はないように思える。
阪神大震災時の記憶は、私自身も関西人の端くれとして、多かれ少なかれ身近に影響を経験し、いまだ忘れ難い思いはある。
あのとき、首相たる村山氏の指揮の出遅れぶり等を指して、普段は穏やかで優しい同僚男性でさえも、いつになく厳しく批判し、冷笑していたことも憶えている。
もっとも、村山氏に対し、なぜか、情報を速やかに伝えることを阻む周囲の不可解な動きがあったとかいう後日談も、チラッと聞こえてきた記憶もあるのだが。真相のことは分からないが。
自衛隊の存在を肯じ難いからといって、では、社会党また社民党は、
ああいった大災害のとき、どの組織に、どう動いてもらえばいいと考えていたのだろうか。
これらに、どう答えてきたのか、
私は見たことも調べたこともないままだったが、
自衛隊に代わる組織のビジョンを、政党として当然、従来から持っていたか、しかるべき提案は行ってきたのかどうか、
これらについても、私は寡聞にして知らない。
だが、まあ、
海外では、ほぼ、国家の軍隊扱いとなっているらしい「自衛隊」ではなく、彼ら社民党としては、もう少し穏健な感じの組織体をと考えているのだそうな。
要するに、社民党の論理的アピールの声が小さいのだろうか。説得力の弱さだろうか。
これは「歌って踊って楽しく」どころでない。
もっと大きな声を出して、と言っても、ヒステリックな金切り声ではなく、
力強い説得力のある論理性を打ち出して、真剣にやるべきことがあるのではないですかと思わざるを得ない。
そりゃあ、安倍さんらは、それこそ、情緒に訴えんとて、頻りに煽るような調子ではあるが、
また、そういうのが、めっぽう好物で、迎合する連中、いかがわしい組織もあるようだが、
安倍さんらの言う内容に、まともな根拠は おろか、論理らしい論理さえも希薄で、胡散臭さに満ちていることは、すでに多くの人々が指摘してきており、
いまは、ただただ経済の方面のみに、まだ、もう少し、と儚い未練を引きずっているかのような国民が少なからず居るとしても、ぼちぼち分かってきていると思う。
それと、
私が目にした識者、専門筋からの解説によると、戦争ではなく、あらゆる大規模災害等の場合も、極限状況においては、やはり、軍隊組織の合理性というものは、他では得難いものがあるというのだが。
【続く】
2015.05.11 (Mon)
このかたも時々読ませていただいて、参考にしているコラムの書き手の お一人。
『何が不足しているので、貧困な子どもに普通の大人が「おせっかい」できないのか?』
みわよしこ 2015年5月9日
http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20150509-00045555/
~
「生活保護は全然恥ずかしいことじゃないと思いますよ」と話すだけでも、力になるかもしれません。~
いやぁ、でもさ、、、
この筆者みわさんのところに毎度のごとくドドドっと押し寄せてくるヘイト コメントの凄まじさ見てたらねえw
まさに当事者たちにとっては、「力になる」どころの騒ぎじゃないでしょうね(苦笑)
ヘタすると、
かえって、それらのコメント読んじゃった当事者たちのうちの誰かしらを、自殺へと誘導し、追い込みかねないかもよぉ;恐ろしや~
それに、
「朝日新聞」あたりの(朝日新聞に限らないだろうけど)社説を書けるような御仁ともなれば、かなりのエリート意識の持ち主なんじゃない?w
そら、無理ムリww
しょせん、本当には、巷の現実の底のあたりなんて、経験も体験も したことないだろうし、何ごとも通りすがりの通行人程度でしかなく、ほとんど見えてないと思う。まあ、一般的にも そうだろう。
それから。
「格差はあってもいいんです」というよりも、恐らく、なくせませんでしょうね。このことも、私は何年も前から何度も言ってる。
例の「カルト連」のオッサンの一人
(「ブラげろんぬ」の分身腰巾着の一人で、なんつったかな?
たしか、「非どっち」とかタケナカ某とか言ったっけ?)
が付きまとって来たときにも、何かの話の流れのなかで言って聞かせてやったこともあるんだが、哀しいかな、あまり理解できないでいるようすだった(嗤)
で、まあ、
摂理的にも、「格差」ゼロは不可能でしょう。
ただ、
それが行き過ぎると、
と言うことは、すなわち、不自然な域に入ってしまってること、
つまり、人為的であることに他ならないわけだが、
つくりあげられた格差の上辺にいる者たち自身までにも、「自分の首が締まるときが来るよ」と言ってきた。
ここで筆者みわさんも おっしゃってるように、「多様性」「健全性」が問われる問題だろう。
そういえば、
私の親の古い友人で、うちの実家の事情も、私のことも よく知っていて、とても可愛がってくれていた人が、もう すっかり、年を取っているのだけれど、
夫に2度、死に別れ、育てた養女とも疎遠、
やっぱり、九州の片田舎出身で、高い学歴もないからなのか、
若い頃から苦労して働いて働いてだったのに、高齢となったいま、もはや返せない借金を抱えているうえ、あまりに乏しい年金で、むかし、癌を患ったこともあって、医療費が酷く苦しいと言って嘆いてる。
そんな生活でも、ご近所の人が、週に何度も食事に呼んでくれるから、それだけでも、すごく助かってるよと言ってたのに、その人は数ヵ月前に引っ越していかれたそうで、私も、それ聞いて、心細く、残念に思った。
ただでさえ落ちた食欲を、ますます なくしているようで、
この前に訪ねて行ったとき、持参した手土産の食べ物を入れておこうと、冷蔵庫を開けたら、ほとんどカラッポだった。
もっと会いに行ってあげたいのだが、けっこう遠距離、こちらも、お世辞にも余裕があるわけでないゆえ、次に行けるまで、もう少し待っててね、と言いつつ、できるだけ電話してあげることくらいしか できないのが哀しい。
この次に行ったら、もしものときの段取りは どうするつもりなのか、連絡先とか、確認しておかないとと考えている。
~生活保護基準は、過去「健康で文化的な最低限度の生活」を実現していた時期が一度もありません。~
だから、
「健康で文化的な最低限度の生活」とやらいうのを、
「餓死しない程度の生活」に書き替えて変更するしかないんじゃないの?w
そのうちには、病人、障碍者、高齢者適用「安楽死」制度も設けられるのだろうww
なんせ、これが「普通の日本国民」全体からの、政治に対する、社会的要望なのだそうだからww
「普通の日本国民」とは、自民党ネトサポ、ネトウヨ、「日本会議」あたりのメンバーも含まれてるのかな?www
あーあナサケナイ「先進国」があったもんだ(嗤)
ところが どっこい、まだまだ上(下?)が。
そう、日本の宗主国にして筆頭「先進国」にして、
しかも低福祉wなのらしいケッタイな「大国」wアメリカの場合ですが、
もともと「プロテスタンティズムの倫理」だとか資本主義の源流はキリスト教というのだから、根底に、そういう精神の存続があるわけであれば、「共助」「互助」のほうを重く見るのは、むしろ当然なことかとも思える。
さて、うちの実家の兄はですねえ、一応、国立だが駅弁大学の教育学部卒で、教職に就いたのだけども。
理由は、当時の家計が苦しかったから。
私の母親は、父とのあいだに、結局、私しか産まれなかったから、父の先妻の産んだ息子である兄は、わが家唯一の男の子、すなわち、跡取り息子だということで、
兄とは、年齢が大きく離れていて、まだ幼かった末娘の私の目から見ていても、かなり熱心に教育ママを やっていたなあと思う。
授業参観や保護者懇談会のときは、幼児だった私の手を引いて、遠い自宅から、いつも一番乗りしてくるというので、のちに私も通った学校の先生たちのあいだで有名だったそうな。
(ちなみに、
そうしたおり、兄のクラスの教室にトコトコ入って行った私を取り囲み、
「きゃー可愛いー、この子、○○クンとこの妹だってぇ?」
と、女子どもが大騒ぎしてたもんだと、兄が思い出話を したこともあった(笑))
なにしろ、
たまたま二人で外出した あるとき、帰宅途中の道で、何の話からだったか、兄がボソッと、
「おばちゃん(私の母親のこと)に、完全にレールを敷かれたって感じ」
と言ったことがあった。
そう、
ガッコのセンセイ、教職は、弁護士の次に、母自身が なりたかった職業の夢だったのだ。
【続く】