2019.08.31 (Sat)
『日本報道検証機構が解散 「寄付金集まらず運営困難に」』
8/30(金) 19:03配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190830-00000057-asahi-soci
たしか、ここの代表理事さんは、『ヤフー個人』にも参加しておられるんじゃなかったっけ、もと『産経』出身だと知って、へえ~(?w)と思ったのを憶えてるけどw
(『ヤフー個人』と言えば、ここにも在日朝鮮人なのか韓国人か、記事を書きまくってる人たちが何人か いらっしゃるようだけど、ランキング リストに並んでる、その見出しを見ただけで、何を意図し、企んでるのやらと、読む気も起きない、悪いけどw「ヤフゴミ溜め」「ヤフゴミん」と似たものを感じるのよww
ちなみに、あの『産経新聞』社にも、韓国か朝鮮系の在日と分かる名の記者さんたちが何人もいるよwww)
さて、
「報道検証」とか「ファクト チェック」、こういうのって、いわゆる「ビジネス モデル」にすることが困難なのじゃなかろうか。
特に、政権との適切な距離を保つことが できているという外国のメディアのようには いかない、
命を賭すことも恐れないようなジャーナリストも いない、
まるで「サラリーマン記者」ばかりと堕してしまった、もともと、政権や権力筋との癒着度合が高いという日本ではねえ。
いっそのこと、権力だのカネ儲けだの既得権益だの、あらゆるシガラミや食っていく心配に縛られないで済む学生たちの組織にさせるのって、どうかしら。ほれ、あの『シールズ』の子たちとかも やってみたら?
いや、学生に限らなくてもいい、それこそ、「ニート」でも「ヒキコモリ」でも、全国から志ある者を募って。
まあ、ボランティアになるだろうけど、
次代を担う世代にとって、とても良い勉強になると思う。おのずと、政治や社会問題や国際的な視点について培えるし、視野が広がるし。
ただし、ノウハウなどを参考程度にするのは いいとしても、特定の組織の介入や干渉は断固として退けること。
次世代も また、いわゆる「茹で蛙」とか「レミング」状態のままじゃ、辛うじての見せかけだけでも保つことできなくなると思う、この国は。
2019.08.31 (Sat)
『トランプ氏の巨像、スロベニアに登場 村人から怒りの声も』
8/30(金) 23:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190830-00000050-jij_afp-int
~その表情は「平日はとてもフレンドリー、週末はとても怖い」ものに変化。大衆に迎合する政治家らの偽善を表現したという。
「第2次世界大戦(World War II)以後、初めてポピュリズムがはびこっている」「(英首相のボリス・)ジョンソン(Boris Johnson)氏やトランプ氏らを見てほしい。世界はどこへ向かっているんだ?」と嘆き、「民主主義が何たるかについて、皆を目覚めさせたい」
~
この記事では、地元の住民たちが、どういう理由で立腹してるのか分からないけど、いっそ『ハロウィーン』で燃しちゃうというのも、グッド タイミングというか、なかなかシャレてるじゃないの?と思えるw
作品の仕掛けに、おもしろい動きが あるそうで、テーマやコンセプトも、よく考えられているし、その作者であるSchleglさんは、とても良いこと おっしゃってるね。
例の『表現の不自由展』に参加していただいたらステキじゃないかしら(笑)
トランプさん、ジョンソンさん、アベシ、その他、世界じゅうの偽善に満ちた政治屋や権力者の、「フレンドリーから、とても怖い」表情へと変化する、カラクリ人形を集団で登場させるとかね。
ミニ サイズを、展示会の おみやげの玩具として売り出したら どう?w
あ、そうそう、「かかし」の夫人たちもセットにww
それぞれ片手を上げているという人形のトランプさん、かかしのメラニアさんのセットなんか、ちょうどイイじゃありませんかwww
2019.08.29 (Thu)
『【続】「弱者」は『超人』の夢を見るかw』の続き。
『パラリンピック』の世界にも、「能力主義」の問題が大きくなってしまっていることを取りあげている記事も あるが、
そもそも、スポーツの世界というものが、「競技」という別名もあるとおり、競う世界であり、
現代では、資金が かかる、殆どカネ持ちの「道楽」のような面を持つようになっている。
しかも、身体的ハンディを持つ者が、(高価な)装具の飛躍的発展に支えられて、どうかすると、「健常」の選手よりも上回る記録と迫力を具現してみせるので、
観るほうに対しても、いやが上にもな「感動ストーリー」を供給する。
そりゃあ、間違いなく、ここも「競争」と「能力主義」の新しいステージなんだね。
ところで、
ずいぶん前、かれこれ数十年近くにもなるだろうか、かなりのブームめいた現象が起きた、というのは、
とある先天的重度障碍を抱える お子さんで、ことばを発することも、自分で意思表示を行うことも困難なのだが、
母親の介助によって、驚くべきほどの警句や詩的表現を示してみせるというので、それを取材した『NHK』の番組を、私も見たことが あった。
NHKは、あの頃、こうした傾向の番組を時々打ち出していたように憶えているのだが、いまでも、そういう路線は あるんだろうか、私は、テレビを見なくなって久しいから分からないけど、
プロデューサーかディレクターか知らないが、問題ある見識だと思う。
最初のうちは、感動と言っていいほどの驚きを覚えたものの、
しばらく見ているうちに、なんとなく不審を もよおしてきて、
その番組を見終わる頃には、何か仕組まれているかのような胡散臭い宗教のような感じが拭えなくなっていた。いまどきで言う「スピリチュアル」臭い。
その子の親について、しばらく経った その後、「虐待に等しいことを している」という指摘が出ていたようだ。
どうやら、その子の母親自身の手による「ポエム」なんだろう。
要するに、
「障碍の代わりに、こんな「ギフト」(才能)が」
という、
ここでも、美談、感動という味付けの、一種の「能力主義」なのだね。
ただ障碍、それだけではダメなんだろうな。
それを補って余りある才能とかが備わってないと。
障碍者は、「ありのまま」では許されないのよね。
「超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」
(:竹内章郎氏 談)
そうね。
「現状の強烈な否定」。。。
ドストエフスキー『罪と罰』の主人公「ラスコーリニコフ」なんかも連想するところだ。
(ちなみに、二十歳前後の頃、『地下室の手記』を読んでゲラゲラ笑ったという話を、旧ブログで書いたことが ある。ドストエフスキーにも特有のユーモラスな面が あるもんで)
ニーチェだって、内心に深い劣等感が あったかもじゃないかな。
私に言わせれば、彼が言う「超人」なるものが「強者」であるとは思えんのだけどねw
私は、ニーチェも例の植松も、一点の共通性が あるとすれば、言わば「自己投影」にあると思っている。
「能力が劣る障害者に生きる価値はない」
これ、植松の発言だそうだが。
ならば、あんた自身は、どうなんだ?
面会に行った記者さんたち、植松本人に突きつけてみたらいいのよ。
私だったらズバリ言うよ。
自分自身は、能力が優れているか?
自分こそが、思考力は もひとつ、
それ以上に、精神面では明白な「障害者」と言えるんじゃないの?
と。
そして、
「(身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、)魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちは
これをみずから死刑に処する
だろう」(プラトン/藤沢令夫訳『国家』)
まさに、植松みずからが、このとおりのことになったじゃないか(嗤)
あらためて言うのだけど、
カン違いしちゃいけない。
凶悪犯罪者という者は、「強者」「超人」などでは ありません。
およそ、この世で最も「弱い者」なんです。
敢えて転倒させると、
このことを決定づけるためには、極刑に処することが必要になってくるとも言えそうだがw
ついでに言っとくけど、
従来の「手話」も、私の実感では、限界が大きいのではと思っている。
昔ながらの「ステレオ タイプ」な価値観が、そのまま残ってるところ(たとえば社長とか上司を表わすのに、男性であることが基本的前提になってたり)とか、
私が感じたのは、「手話」ばかりに頼ってる聴障者は、複雑で深い話が しにくく、全体に国語能力が低いという傾向を、そのままにしておいては よくないということ。
むしろ、健聴者と同等の国語能力を用いる筆談のほうが大事じゃないかなと思うけど。
あ、でも、健聴者をメンドクサがらせるし、鬱陶しがらせるわねえw
ま、生きとし生けるものは、「弱者」で始まって、「弱者」で終わるのだ。
われわれは誰しも、生を受けた時点は、「人権」も付与されない胎児から開始し、
捻られたら捻られっぱなし、噛まれたら噛まれっぱなしで いるほかない あかんぼう、
この社会において最も弱い存在、それゆえに庇護されねばならない存在として出発した。
そのことを忘れている人も多い、と言うか、ほぼ全員が そうなのだろう。
だから、さもエラソーに言い、自分えらいとカン違いしたあげく、
容易く勝てると踏んだ相手を、しかも凶器の力を借りてまで襲うんだろう。
劣等感が つよ過ぎることによって引き起こされる、多岐にわたる問題は大きく、深い。
つまるところ、
その、つよ過ぎる劣等感を助長するのが、「能力主義」の社会とも言えるだろう。
2019.08.29 (Thu)
『「弱者」は『超人』の夢を見るかw』の続き。
~「『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。」~
だって、どうしても生まれちゃうでしょw
ましてや、現代みたいに、出産前確認する方法もないとなると、防ぎようもなかった。
イチかバチか、産んでみるまで分からんかったじゃないの。
「平塚らいてう」と言えば、かの『原始、女性は太陽であった』というのを、中学か高校の時分に読んで、
『明治』生まれ特有のエネルギッシュ、敢えての「アバズレ」志向の女性かなという印象は残ってるけどw
そんなこと言ってたのは知らなかったなあ。
彼女は、そんなに昔の人、というほどでもないわよね。
できるだけ良いように解釈しようと思えば、産む性たる女性の無自覚な受け身を廃し、その主体性と、生まれてくる子の権利と幸福を考えるよう促す狙いもあったのだろうけれど、
まあ、古今東西の、お偉い かたがた、この程度の思想レベルでも、歴史上に燦然と名を残せるんだw
でも、やはり、その時代 時代のなかゆえの個人の到達限界は あったでしょう。
うちの親父は、長年、気づかれないうちに「アル中」となっていて、暴力は酷かったし、それ以外の面でも、たとえば、睡眠中の暴れかたが異様だったりしたが、おそらく、そもそもの脳の問題だろう。
こんなんでも、もとエリート青年将校から、戦後は経理マンへと転身し、その分野でベテランだった。
母親は、学校時分から成績優秀で、音楽方面の才能を認められていたし、家計のために奮起して、我流の商売経営も やった。
しかし、「癲癇」などの遺伝や、やっぱり脳の異常を持ってたみたいだ。
母親の姉妹には、そっちの傾向が、もっと重く出ていた。
たしかに、いろいろ知識を得て、蓄積してきた、いまの私が思い起こし、振り返ってみれば、
ああ、そうか、そう言えば、、、そうだったんだ、
と思い当たる異常性が少なくなかったのである。
でも、両方とも、世間では、「有能な人」で通ってたのよw
子である私にとっては、いろいろと、とても困った両親だったけどね。
えてして、表面だけ見てたって分からんのよ。
「カクレ障碍者」って、身体方面よりも、精神のほうでは、もっと多いんじゃないかな。。。
当時は、親子とも知識が乏しく、勿論、本人たちは、自分だけはマトモだと自信マンマンで、私自身、親らの「異常性」に気づいてなかった(無意識のように、直視を避けてたかも?)ので、なおさら、やり場のない苦しみの原因になっていた。
ハッキリ言って、
そんな両親を持ったことを、私自身は、肯定的に受けとめることは できないままだ。
やっぱり、厭だ。
もう一回と命じられても、ゴメンこうむりたい。
「今生」で終わりにしてもらいたいw
軽度ならぬ障碍者、ことに精神や知能方面の障碍者を親に持って生まれた子の苦労は、自と他と共に、私にとっても身近のことなので、それを積極的肯定できるようにまでなるには、そうとうの高い位置に立ち、個人としての本音は捨て去らねば ならないと思う。
なかなか、そうは なれないのも現実である。
お子さん側が、軽くは ない、知能面や精神の障碍を抱えている立場の親御さんだって、そんな我が子が出産し、親になることを、すんなり肯定できるのだろうか。
ほとんどの人は、やはり、生まれてくる孫の不憫とか、祖父母となる自分たちの苦労を予想し、ためらいを感じるだろうし、実際、そのような機会自体が乏しいだろうけれども。したがって、それが現実の悩みになるところまでは進まないで済んでいるのが多々なのだろうけれど。
特に精神方面の場合は、発病したのが成人年齢の近くや成人後という場合も多かろうし、そういう持病を持っていても、のべつ、異常な状態のままであるとも限らないから、すでに結婚していたり出産していたりということも多くなってくるだろうか。
もう何年前になるのか、
精神の持病で、いきなり激しい発作を起こした父親が、息子である幼児を、衝動的に惨殺した事件も あった。少なくとも子どもは どえらい迷惑を こうむったことは たしかだろう。
誰だって、こんな親を持って生まれてきたくは なかろう。
一般の小児が、しばしば、同様の被害を受けることが あることと共通して、知能障碍の場合、むしろ中・軽度であれば、判断力、拒絶力の脆弱や迎合性の特徴などゆえ、かえって、性的被害に遭うことも まま あるのは、昨今の事件ニュースでも報じられるところだし、昔から、多々あったことだろう。
例の「ルソーの捨て子」話にも出てくるね。
私の知人も、事故により、母親が車椅子を使用する身となって、
学校時分から ずっと、朝、起床して すぐに やるべきことは、母親を寝床から抱き起こし、車椅子に乗せてあげることからだった、という話を していたが、なんとも暗い顔つきで話していたものだ。
その知人の姉は、母親のことが動機で、看護師になった、とも言っていた。
私自身が、インターネット上で遭遇した「カルト連」が そうだったように、それこそヒットラーや『ナチス』を信奉するような手合い、
また、「優生思想」についても、いわゆるネトウヨらが特に好むところらしいが、
ところが、あのテの連中は、何かと言うと、
「先人の思いを」「先人の苦労を無にしては ならぬ!」
と主張するでは ないか。
だったら、
「自然淘汰」という時代へと「先祖返り」するのなら、それは、まさに「先人の苦労を無にする」ことになるでは ないか。矛盾も いいところじゃないか。
あの「カルト連」ときたら、「ニヒリズム」を標榜したがる連中でね(嗤)
そのわりには俗悪なレベルの勝ち負け競争ゲームを やりたがって しょうがないみたいで、こっちはトコトンうんざりさせられたもんだけど、
むしろ、私のほうが、基礎には よっぽど「虚無」的考えを持っているかもしれないよ。
だって、
「人生の意味」だとか「この世の意味」だとか、
ほんとうのところ、そんなもん、ハナから終いまで、ないんじゃないかと思ってるから。
「宇宙全体の向上が目的なのだ」ですって?w
そもそも、「この世」とか宇宙とかいうもの自体が、いらんやろと思ってるw
最初から、なくて いいww
あすの日にも、地球、いや、宇宙まるごと消滅しないという保証は ないでしょ。
何の因果やら、こんなものが生じたのは、
余計なことだった、
の一言である。
それこそ、仏教で言い、その始祖が言ったという「輪廻転生」、「生まれぬが幸せ」、というとおりで、
まったくもってゲンナリだ。
こんな えげつない世界から脱出不可能なまま延々繰り返すしかないのだとなるとね。ゾッとするわいな。
たしかに、私自身、自分の身に障碍や家庭環境の問題などを負っていなかったら、ここまで、ものごとを深く考えることもなかったろうし、
それは、
わざわざ好んでのことでは なく、「幸」も「不幸」も なく、否応も なかったこと。
なので、
そういった負荷が かかっていない人生であったなら、本来の性格からして、のほほんと、軽薄そのものな思考レベルで、世俗の価値観に全面的に従って疑問も持たず、ホイホイ世渡りしていたことだろう、
と思うわけ。
【続く】
2019.08.29 (Thu)
競争できる能力が あるのであれば、そうすれば いいだけのことさね。
たしかに、それによって、向上、発展してきたのだし、ひいては、いわゆる「弱者」とされる存在、特に障碍者や病者にとっても、救いとなり得るのだから。
だが、競争の舞台に上がれない、あらゆる理由を持つ人々も いるという現実は ある。
それは、見て分かるとは限らないし、ケース・バイ・ケースでもある。
私の場合も典型的だけど、わりと中途半端なハンディキャップを持ちながら、いわゆる「健常」者たちと互角に競わねばならない人生だった。
もちろん、そこに目を つけられ、いち早く排除の対象にせんものと積極的に足を引っ張られ、攻撃もされてきた。
そのつど、いったんは、せっかく上がった所から降りることも繰り返した。若い頃ほど。「迷惑」というコトバで「刺される」のを怖れていたので。
その余地さえも最初から奪われていたわけだが、「上るステージを慎重に考慮し、選択」しないと、不利に過ぎるのは当然。
だから、自分一人で考えに考え、
できるだけ不利でない方法を見つけないとならなかった。
だって、しょせん、親にさえ理解は望めない。同じ分野の障碍者どうしですらも。皆、自分のことでアタマいっぱい。
けれど、
競争や勝ち負けだけが全てではないし、そういう次元を超越した世界もあるのは、人間ならではの精神・文化では ないのだろうか。
『【インタビュー】超人への志向と弱者の否定、表裏一体の善悪』
8/26(月) 14:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190826-00010001-kanag-soci
「身分や家柄によらない自由な競い合い」
この国では、世襲の頂点たる問答無用の制度、『天皇』『皇室』を戴いておりますがねえw
去年か一昨年だったか、
私は、『昭和天皇・沖縄メッセージ』のことを、たまたま知って、例の『日本会議』の暗躍と跋扈のことを知ったときと同様に驚愕し、当ブログで取りあげ、
地元である沖縄の新聞ですら、このことを殆ど取りあげていないのか?と大いに疑問を呈しておいた。
すると、今年の夏は、『拝謁記』というのが出てきましたねえww
案の定、国民の大多数は、いつもどおりの無知・無関心なようすで、
いわゆるネトウヨ連中は、「『昭和天皇』の御英断だー!!」と擁護これ努め、
各新聞記事も、早々と引っ込めたようだが。
ま、そういう国です(嗤)
さすがに、「現人神」は返上しても、今度は、「完璧なる無謬の人間」たるイメージ演出に励む天皇家、
そんな自分たちのなかに障碍者が いようものなら、ソッコーで押し隠すし、
慈悲深い天皇と皇室を演じるために、せっせと出向いていた障碍者施設で、前代未聞の惨劇が起きても、ダ~ンマリですな(嗤)
基本的に、やはり、他人事感覚を受け継いで、
もともと、「哲学」という概念も名称も持たなかった、相変わらず上っ面な国で言うのも むなしい話だわ。
「どうも、気の毒とは思うが~」
(↑『昭和天皇』、広島における被爆者について問われ)
どこが「朕の赤子」「大御心」なのよ?ww
まあ、「国体」即、自分自身、自分自身が「国体」そのもの、という感覚を叩き込まれるような特殊な、偏りきった教育が全身に染みついていただろうから、敗戦を思い知らされ、憲法も新しくなっても、内心の切り替えは困難だったろう。
さて、まずは、ルソーから。
「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう」
だ・か・ら、
「看護人の職務」を「教師の職務」にしなければ いいの。
だいいち、ひよわで病気がちだから無益って、なんだ、その短絡ぶりはw
ホッブズの言うこともね、
本人に備わっていない能力は、周囲の各人それぞれの立場で協力して、その代わりを補えば いいの。
「児童教育のバイブルとされる『エミール』」云々なんだけど、
私は、ルソーは読んだことが なくて、いずれ そのうち、『孤独な散歩者の夢想』でも読んでみようかなと思ってたら、たしか、この人は、自分の子を一人ならず捨てたという実話が あるというのを知って、その著作を読もうという気すらも たちまち消え失せたw
まあ、人類社会全体が発展途上の大昔の人なんだから、現代のように、特に医療面での解決策や発展が得られていなかった時代は、こんにちの社会や人間から見れば、ゆゆしき思想、あさはか極まる思考と思えるようなことも、いたしかたなかった面も大きいのだろう。
自分自身や大切な存在の身に ふりかかってきたとき、それまでの研究や療法、介助の くふう、様々な改善に結びつく成果、そんなものの せわになる日は来ないと、根拠なく思いこんでいた自分たちが、その恩恵に あずかる番となる。
これまで、当ブログ主は、もう何度も言ってきたことなのだが、
どの側に立つ識者も誰も言わない、言おうともしないので、
こうして、ことばを重ねるのもダルい。
ここでは、なるべく手短に済ませたいと思う。
「(重度)障碍者は生産性が ない」
という、さんざん言い散らされた主張自体への疑問、
すなわち、
(重度)障碍者、また病者という存在を めぐっての努力、要請、それらが、研究や医療機関、福祉の発展に伴い、関連産業や従事する人々などの存在も産んできた。これをして、『経済学』用語であるらしい、「生産性が ない」という単純な一言で かたづけられるものか?ということ。
また、
ことばを発することが できない障碍を抱える児童が、そんじょそこらの「健常」児童よりも豊かな表現力を全身で発揮した場面も、職場の経験で見てきた。
「コミュニケーション」というものが、人間の言語によるばかりでないことを、当ブログでは、すでに指摘してある。
だいいち、人間以外の動物たちと親しんできている人々も、そんなことは、とうに、実感とともに知ってるはずだ。
ところで、
近頃の私が、かなり夢中になっていた動画での「猿の社会」観察。
さすがに本来は野生が支配する動物の世界だけあって、親子間ですら、生存競争が垣間見え、凄まじいものが ある。
産み落として いくらも たたないうちに、母乳をストップさせ、餓えている自分の子にさえ、基本的には食物を頑として譲らない猿の母親にも、
しかしながら、そこには、ある種のリクツが あり、
物見高く徘徊する観光客や動画商売のために利用している、気まぐれな人間から与えられたオヤツを大喜びで食べようとした子猿の口を、無理やりにコジあけてまで、その口中の食物を奪い、自分の口に放り込んで食べてしまうという徹底ぶりは、
もちろん、人間社会と共通した、厳しい上下関係の序列を叩き込む、
と同時に、
幼い子猿を守るためには、結局のところ、母猿自身が真っ先に、自分の体力を温存しておかなければ、話にならない、という理由が あるようにも察せられた。
こうして、集団のルールや社会の秩序が積み上げられていく。
もちろん、小さなルール違反も起きるし、特別扱いの情味も生じる。
そして、これも興味深いことに、
猿たちのなかにも、生まれつきの場合もあれば、頭を打つ大ケガや事故は つきものゆえ、おそらくは少なからぬ割合で、通常レベルよりも知能が低いと思しい者は いるのだが、
そういう子猿の場合、親猿は、健常レベルの子猿よりも、少し、あるいは、その親猿によっては、かなり甘いというか大らかな態度でもって気長に育てている場面をも見ることが できるのだ。
そして、そんな子猿でも、最初のうち、健常レベルの子猿たちがスムーズに身につけていくルールや社交技術を覚えるのが、そうとう遅くなっても、いつしか、ある程度には追いついていたりするのである。
そうできるなら、まだ軽いほうで、もっと重い状態であれば、ほどなくして死んでしまうだろう。
もちろん、早々に育児放棄したり、もとが野性に近い猿だけあって、その子育て上の しつけは、子猿にもハッキリ、だめなものはダメと分からせる効果を伴わせており、とても激しいのだが、なかには、あきらかに虐待する母猿もいる。
そのへんも、われわれ人間と同様で、以前も言ったように、やはり、人類社会の根源を目撃する思いだ。
本来「自然淘汰」の野生世界で、たとえば、生命力ひ弱な子、自己主張の弱い子は、親も、積極的に育てようとせず、さっさと見離してしまうのは、よくある現象だろう。
しかし、
そんな状態に とどまっておりたくは なかったのが、人類の切なる歴史では なかったか?
このように、私は問い続けてきたのである。
【続く】