2016.05.05 (Thu)
日本人と、たとえば中国人の違いで言うのなら、あちらの人たちは概ね、感情をハッキリおもてに出すことを躊躇しない傾向性は あるように思う。しかも、どういうわけだか、女性の場合のほうに顕著なようだ。
私自身は、日常で、中国人と親しく接した経験にも乏しいので、あくまでも、いままでに
あと、近ごろでは、訪日客として、じかに見かけた印象から。
『機内で暴れる乗客、ファーストクラスの存在が原因?』
CNN.co.jp 5月3日(火)21時10分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160503-35082121-cnn-int
たとえば、客室乗務員に対する態度を とりあげるなら、
中国人女性が感情を爆発させたすえ、キャビン アテンダント、むかしで言う「スチュワーデス」さんの背中に熱湯を ぶちまけたという事例に対して、
日本人のオッサンの場合なら、スチュワーデスさんの背中やらオシリやら撫でさすった、という話を聞いても、それほど驚かない人が大多数だと思うw
なぜなら、日本のオッサンは、それくらいは やりかねんと思うくらいに、想像し易いからだよww
それでいて、熱湯を ぶっかけたというような凶悪なことよりは、さほどの大ごとになって騒がれることもないからねえ。
概ねの日本人の場合、おもてにハッキリと出して、すぐにバレちゃうようなことは避ける。
そのかわり、
陰にまわって、すぐには発覚しないような悪事を やらかすことが多いようだ。
しかも、
そういうところで、やった本人も、それを知った日本人たちも、すぐにバレないだけ巧妙であることを、あたまがイイからだと、履き違えた受け止めかたを する、一種独特の愚かさが ある。
それゆえに、
まず陰湿である、とのイメージが前面に出てしまい、それも影響してか、とことん隠蔽しており、あわよくば最後までイイほうに まわろうと してるのでないかと、いつまでも疑われ、チクチク責められてしまうのかもしれない。まあ、自業自得だが。
以前のエントリーの どこかで、高度成長時代の日本の特にオッサンやサラリーマンの行儀の悪さ、
たとえば、
飛行機に搭乗した田舎者のオッサンが、座席に落ち着いたとたん、上着のみに とどまらず、シャツもズボンをもイッキに脱ぎ捨てて、ステテコいっちょうになり、スチュワーデスを慌てさせたとか、
ヨーロッパの一流どころの老舗ホテルの共用廊下を、寝間着とスリッパ履きでウロチョロして、スタッフや他の宿泊客の顰蹙を買ったとか、あの当時は、珍しくもないほど報じられていたと記憶することを述べた。
ただ、日本人女性に限っては、だんぜん、おとなしいほうだということに変わりは殆どないと思う。
同じアジア人女性と比べても、少なくとも、表面に出して激しい自己主張を辞さない日本人女性というのは、やはり、いまだに少数派だろう。
あれから、日本人も、男女含めて、ずいぶんとオスマシするようになったものだw
つい祖父母の時代まで、ど田舎の百姓だった、あるいは、田舎から出て来て、しがないアキンドでげしたというような家系の者でも、どこぞのボンボン、お嬢さま気取りなのが嗤えるほどに、カン違いしたオスマシして、お高く とまっておるw笑止であるww
しかし、なおも総じて おとなしい性向の国民性は変わらずに、
許容性の低さ、人目を気にし過ぎた余裕のなさだけは高まる一方のようである。
これには、殊の外に大災害の多い国土が培った国民性ということも大きく関係が あるのではと察している。
まあ、私みたいに、いちおう平凡な感覚の?人間から見れば、
「ファースト クラス」だ何だでカリカリするような者は、ちと普通じゃないんだろう、と思ってしまうけど。
ところで、
過去に私が闘ってきたw「汚気・愚」(=「OKウェイヴ・おしえてgoo」)の「哲学」なるエセ看板を掲げたコーナーでガンバってた、とある女性会員に向かって、あるとき、
「哲学史」的知識のみに埋もれ、心理学等の実際の働きを軽視していた彼女に些かでも気づかせるべく、個人的に、少々の忠告を したことが あった。
「心理学の知見というものは、あなたが、いまだに気づいていないだけで、われわれの日常生活の そこかしこで、すでに参考にされていますよ」というようなことを。
「カルト連」その他の常連会員に特に多く見受けられた傾向性でもあったのだが、
何によらず、自分よりも「上位」に位置していると思える対象と、自分自身とを比較せずには おかず、
いかなることであっても、自分のほうが多少なりとも「下」と感じたならば、たちまちにしてイジケた様相を示し、
自分自身が、何か、とてつもなく不当な、可哀そうな位置に貶められたとヒシヒシ感じてしまうのらしい、異様に敏感にして病んだ性向の者たちが居た。
彼らは、それだから、鵜の目鷹の目で、ターゲットと定めた対象に、自分よりも脆弱な部分は ないものか、ないものかと、
さしあたって見つからなければ、わざわざ拵えてでも押しつけてやろうと虎視眈々な彼らには、専門筋の診断こそ受けていなかろうとも、自己愛性肥大ゆえの人格障害者が多いのだろうと見受けている。
先日、どこかのサイトで、私自身が子どもの頃から、睡眠に関する悩みを抱えてきているもので、その方面の記事を読んだのだが、
そのなかに、客室乗務員として長年のキャリアを積んできたという女性のインタビュー記事が あった。
その垢抜けして端正な品良き女性が語ったところによると、
日本では皇室、他国の王室、あるいは、どの国の要人、大統領や首相といった国家的トップの人々には、機内サービス等の細かいことに要望を示したり文句を言うなどのことは、まずもって、起きないことらしい。
なぜなら、
あのような地位の人々、重い国家的任務を背負っている人たちは、自分が渡航なりした先での大役を無事に果たすこと、
それがスムーズに、滞りなく果たせるか如何ということにのみ、全精神を集中させているためだ、というふうなことを解説しておられた。
私は、なるほどなあと思いつつ、
しかし、この聡明なキャリア ウーマンにも、少々、掘り下げが足りないかもしれないと思った。
それは、
いわゆる要人クラスにして、そのクラスならではの公的大役を負っている人たちが、自分の役割というものを、きちんと果たせるかどうかということにのみ、関心を集中させていることの根本的土台に対しても、その善悪や正当性といったことについての踏み込んだ検討が あるか否かとなると、そうとは限らないだろうということ。
歴史上の極端な例では、ナチスの高官のようなことになりかねないかもしれない。
彼らも、自分の負った公的任務については、このうえなく律儀で厳格で忠実だったという。
だが、その思想性は歪みきり、哲学性は矮小で下等だったわけだ。
その狡猾さと悪運の強さも、結局は潰えた。
しかし、気を抜いていると、今後もフツフツと湧いてくるだろう。
昨今の世界的様相は、そうした危惧を、あらためて持つべきである、との警告を示し始めているのではないか、そんな感じが してきている。
杞憂であってほしいものだ。