2019.04.04 (Thu)
大昔から、日本人は、「舶来もの」が大好きだ。「舶来信仰」というコトバが あるくらいだ。
どうにも、「オリジナリティ」や大胆な「イノベーション」力に乏しい傾向だから、なおさら。
香炉峰の雪や いかに、と。
『天皇』や『皇室』、それらを囲む上流階級の「王朝文化」を権威付けするための、最大の拠り所であった古代中国、その典籍からピックアップする、それこそが、わが国の「伝統」だったはずのことを止めてw
今回は、『万葉集』からピックアップしてみました、ということだそうだが。さてねw
早速、何やら問題になっているらしいのが、私個人的にも、なんとなく引っ掛かっていた「令」の一文字。
もっとも、私としては、語感のほうから先に、躊躇うものを覚えていたのだけれど、
「令」という文字の意味は、単に良い悪いとか言う以前に、どうしても、「上を仰ぎ見る下からの視線」、「上下」関係の存在を含んでいることは確かだと思う。「令夫人」といった尊称にも同様。
で、その『万葉集』中の序文であるらしい、ひとまとまりの箇所に含まれているという、「令月」というコトバを、偉い学者さんも、世間の人々も、「令」は「良い」といった意味合いを持つとのみ解釈しているようだ。
そして、安倍政府も、今ごろになって慌てたかのように、「美しい」という意味で解釈するよう、諸外国へ告げよ、という指示を出したらしい。
ホレ見ろ、やっぱり、「令」だろ、と嗤っている向きも あるw
あくまで日本の国内でしか通用しない、内輪の話レベルのことでしかないものを、なんだか、くだらなくも大げさな騒ぎになってきたもんだなあ、という感じだが、
そこへ『外務省』が、省内公文書を西暦で統一方針とかいう話が報じられると、とたんに、「せっかくの慶事に水を差すな!!」と、いかにもウヨ的ネトウヨ的な感情まる出し指弾の声が大きいとやらいうので、外相である河野さんが必死でマスコミのせいにしてみたりの言い訳。
「慶事」などとはサラサラ思わぬ私も、「え?なんで今ごろ?」とは思ったよ。だって、
「こんなときに水を注す」も なにも、『外務省』ともなれば、西暦あるいは世界標準を基本にするのは当然のことなので、とうの昔から そうやってるものだとばかり思ってたから。そういう意味で、なに言ってんだ?てな呆れしかなかったけど。
さて、
くだんの「令月」というコトバ、
この直前に「初春の」と置かれていることもあり、「令」という文字の持つ第一義的に、「知らしめる」といった意味を持つ以上、本来は、「令月」が直接に「良い月」「美しい月」というよりも、陰暦2月の別称の一つで、春の季節の訪れを(大自然界が)「知らしめる月」である、という意味かなと、私は思ってたんだけども。
とにかく、「美しい」という意味で解釈させろ、という安倍政府の姿勢は、毎度ここでも相変わらずのゴリ押しかよ、とシラケた。
「人々が美しく心を寄せ合う」?
まーたまた、そらぞらしいことを おっしゃる。
安倍さん、あーたが、そのシンパ団体らと共に やってきたことは、
「分断」「格差」の促進でしょ。
なるほど、
「和」という文字は、日本の別称でもある。となると、
「日本(国民)」に「命令」して、「臣民」として縛りつけたい欲望ミエミエじゃんw
といった解釈も、言われてみれば、そんなバカな、まさか!と笑っておれない気が してくる。
そんな解釈は、「ネトウヨ」らが頻りと呼ばわる「パヨク」だの「左翼」だのに該当するからだ、とばかりは思えないな。
まあ、ミギもヒダリも無関係な私自身は、ただ、安倍さん、そして『自民党』に対して、そうとうに つよい嫌悪感を持ってるのは確かだけどw
すでに多くの人から指摘されちゃってるようだが、
さすが、自己陶酔のナルシスト、という人物評が定着してるわけか、
とにかく、「ウツクシイ」というコトバが言いたくてしょうがないのね、安倍ちん、そして『日本会議』はw
そう言えば、「森羅万象」が どうだとか口走ったんですって?安倍ちん。
私は、いよいよ、現シュショーに関するニュースなどは、あの御仁の顔を見るのも、声を聞くのも、極力、避けるようにしているのでw詳しくは殆ど知らないんだけど、
「大自然界が(春を)知らしめる」ということで、
安倍ちんの「森羅万象」発言に繋がってくる?ww
「美しい」「うつくしい」「ウツクシイ」こればかりを口走りたがる者の姿の、あべこべな醜悪さ。
「信任された」「責任を持って」「丁寧な説明」
これらについても、全く裏腹な姿勢であることの羞恥のカケラもない。
さしづめ、安倍政権支持層である「ウヨ」「ネトウヨ」と呼ばれている連中が特に好んでいるらしい「潔い」というコトバが、彼らの態度からは ほど遠いのが実態であるように、
人間、やたら言いたくなるセリフは、自己自身の実態からかけ離れてるからこそ、だったりする。
おまけに、「元号で、政権支持率アップ」ですってさw
イベント盛り上げ演出で誤魔化そうとするのが定番パターン、安倍政権お得意の狙いどおりか。
それが事実なら、たしかに、つくづく軽薄短小が多い国なんだなと、あらためて、なさけなく思うけれど、
日本の大手メディア・マスコミも、この国の人々を、そういうふうに仕向けてきているでしょう。
あー、やだ やだ。。。
たとえば、イギリスあたりの王室崇拝者の名物的な人物を話題にしている記事なんかも見かけたことが あるけど、しょせん他国のことだから、「ふうん、もの好きというか何と言うのか、こんな人も いるんだ」と、他人事感覚で笑っておれる。
ここまでの崇拝者というのも、けっして多数派では ないだろうとは思うが、しかし、ひるがえって、自国の人々の、少数でなく、もしや大多数が、こんなふうだとなると、同じ国の人間として、なんだかナサケナイというか、やりきれんものが漂ってくるよなぁと思ってる。
その滑稽なまでの軽薄さ、おめでたい単純さ、知性の乏しさを剥き出しにしたようなスノッブぶりは。
こういう崇拝者の存在って、彼らに持ち上げられてる側の当人(女王とか)から見ると、けっして悪い気は しないとか、やっぱり、嬉しいものなのかねえ?
かえって、そこはかとない見下し感情すらも内心に湧いて、
「やれやれ、わが民とは言えど、しょうがないなあ。。。」
という持て余すような感覚にならないのかなと思っちゃう。
近頃、女王の夫君が、交通事故を起こし、そのために危険な目に遭わされた被害者たちが、ろくな謝罪もないままだということで、苦情を明らかにしたところ、やっと、少しは誠意らしきものを示してもらえた、という記事を読んだけれど、
日本なんかは、ほら、
例の、『オリンピック』のエライさん。
『皇族』でもないのに、「プリンス」と呼ばれていたらしい、あのかたなどは、過去に、死亡事故を起こしておりながら、『皇室』と繋がりを持つ家柄だからと周囲の協力や何かでムニャムニャとかいうスキャンダルも あるよね。
今度の「元号」の話題に戻ると、
『気淑』(「きよく」と読むらしい)が、この「淑」にしても、また、「和」にしても、全体に、いかにも女性的イメージである。
なんだか、あの仙谷氏の「柳腰」騒動を思い出してしまうw
まあ、個人的には、『一世一元法』には、良い印象を持てないのが実感だ。なぜなら、
旧ブログでも述べておいたことなんだが、
『昭和』時代に生まれ育った一員である私も、あの元号の時代が長過ぎるほど長かったせいなのか、これしか実地に経験していない『昭和』という元号も、いつの日にかは変更になるのだということをチラッとでも意識に上せたことすらなかった。
なんとなく、いつまでも『昭和』のままで続いていくかのような錯覚を起こしていることの自覚もなかった。
要するに、
親が老いて、死にゆく日が訪れること、
自分も また、同じような日を迎えるであろうことを、アタマでは分かっているつもりでも、正面きって考えることを、先に延ばしつつ延ばしつつしてるうちに、
「きのう きょうとは思わざりしを」てなことになる、そんな感覚に近い。
そして、
いよいよ『昭和』時代が終わるのだという日に直面してみれば、
自分でも驚くほど、心理的な抵抗感が起きていることに愕然とした。
ああ、こういうことなのか!と。
ほんとうに、愕然としたのである。
なので、ハッキリ言う。
『一世一元法』は、有害です。やめるべき。
こんな心理操作、心理的に有害なもの、国民一般に強いるもんじゃないと思う。
一個の人間に過ぎない者に、「神話」を背負わせ、無謬性を要求し、
「聖上」などと持ち上げるバカ。
おのれが、そういう立場であったら、耐えられるか?
「自分には耐えられないから、天皇は偉いのだ」、
しかし、天皇さん御自身、やりたくて やってるのか?
もし そうであるなら、こんな奇怪で不自然なこともない。
少なくとも私は、押しつけたくないね。自分を含め、誰に対しても。
「やりたくない」と言ってはいけない、
言わさないようにしているのだから、こっちも、何も言わない、言えない。
国民全員おのおのが当事者であることを避け、心煩わしいことは、
「おまえだけ祈っておれ」と、ただ一人に押しつける。
代わりに「祈ってくださる」のだから、国民は気楽、
国民どうしで「心を寄せ合う」どころか、他人事として遠巻きに眺めるだけで済む。
そうして、お互い黙りこくったまま、
「中空」に、見えない目配せと声なき声が、ひそひそ飛び交う。
その国では、
「祈らなければならない人」も「祈らなくていい人」も、誰もが、ほんとうの責任を とることは ない。
「責任者」は いないから。
ぽっかり空っぽなまま。