2021.05.03 (Mon)
五言は小言?w
さて、
『《小室圭さんと“一心同体”》「公より私を優先」がはっきりした眞子さま 問われる“皇族教育”の在り方』4/29(木) 10:36配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b0461b7e3c6993c6834d783f8f4b49e3d87b80f9
日本国内どのメディアでも毎度の事だが、
『文春』の この記事も、わざとなのだろう、
本質的なピントを外して、「皇室関係者」なる者に語らせている。
当ブログでは、これまでも指摘し続けてきたとおりで、
世の『王室』とは異なる、特別な稀な価値ある「伝統」が、日本の『皇室』には備わっている、とされてきた理由の根底に、やはり宗教的なるもの、「皇室神道祭祀」というものが ある。
ところが、
『昭和天皇』は、あの激動の時代でも、尚更大切なはずの「皇室祭祀」に、あまり熱心では なかったそうで、ということは、「祈ってくださる」かたでは なかったわけだw
あるときなどは、たまたま、ご不在が続いたおりに、頭を悩ませる侍従に向かって、当時の『皇后』良子さまが、「わたしが代わりにやろうか?」と、いともアッサリ言ってのけられたというので、侍従側が、あわてて、お叱り申し上げたという出来事が あったそうな。
どっちが『皇族』なんだかww
それに比べると、『平成』の、前『天皇』は、また現『天皇』も お供したうえで、『昭和天皇』とは裏腹の熱心さで、「皇室祭祀」に勤しんでこられたという。
いったい、これは、どう判断すべきなのだろうか。
『皇室』における「神道祭祀」は、最も重要な「伝統」であり続けているのか、じつは、そうでもないのか、じつは全く、どうでもいいことなのか。
「ゴールデン ウィーク」入り口の『昭和の日』とやらに、故『昭和天皇』を話題とした記事がアップされているのを見かけて、一瞬、首を傾げた私w
もとは、かつての『天皇誕生日』だったことなど忘れていたのだが、
『昭和天皇』の名文句とされているらしい、「雑草という草は ない」云々という、いかにも御尤もな御発言よりも、
原爆投下と、その被害者について問われて、
「どうも、気の毒だとは思うが」
と、
まさに「他人事」のようにアッサリ言ってのけられたことのほうが、一国民としては、よっぽど忘れ難い。
それと、「沖縄メッセージ」のこともね。
はてさて、
ただ今もちきりの話題、相変わらずの「眞子さん騒動」についてなのだが、
今は、こうなるのが幸せになるための必要不可欠なこと、と思い込んでいても、いや、将来に、暗雲が垂れ込めてくるリスクの自覚は多少なり あったとしても、もはや「意馬心猿」に近いような状態に入っていると、
この先の不幸や危険を承知のうえでも、この今、ただ今の欲求を優先して、とにかく通してしまいたい、そういうことなのかもしれない。
これは誰しもに、けっして、めずらしいことでもないだろうし、
不本意な時間を費やした分、ましてや、
俗世間で、よくあることに、いわゆる「貢いだ」対象には、貢げば貢いだ分だけ、執着し易いという、引くに引けない心理も あろう。
ただ、眞子さんが、カレシならびに、その母親に「貢いだ」ものの源流は、「シモジモ」「貧乏人」からも容赦せずに集めた「血税」だろう。
「内定者」に過ぎない一般人の当人のみならず、その親までも、億円にのぼる護衛費からして、とうてい、納得できるものでは ないね。
それだけの金額を費やす対象は、他に、いくらでも ありそうなものだよ。
もっとも、当ブログ主である私個人の思うところは、いたってシンプルで、
正直言って、私自身、眞子さんの「幸・不幸」について、さほどの関心は ない。
『皇室』『皇族』の人たち全体が、しょせん「他人さん」であるという感覚を上回るほどの存在には なり得ないのだ。これって、ごく自然な感覚だと思いますがねえ。
尊敬や敬愛が欠けている、ケシカラン!と、怒られますかねえ?
眞子さんの「幸せ」、そして「不幸」も、眞子さん御自身が決めることなのであり、
それを、国民(国民以外の者たちも、そうとう混じってるようだけどw)が侃々諤々喧々囂々で決めたものなど無意味だろう、と。
誰しも、「幸・不幸」については、本人にしか分からないはずだもの。
ただ、
たとえ、「もやし」一袋分に過ぎない額であろうともw死活問題になり得るような底辺国民も含めて、この列島に住まいする人々の ことごとくから問答無用で奪うように集めた税金を、眞子さんのカレシやらへ、彼女の勝手な思惑で流してイイとは許されないはず、ということ。
当の御本人でなく、それ以外の、たとえ公の権力筋でも、国民の知らないところで、国民の納得を得ようともせずに、勝手に決めたことも許されないはず。
私が言いたいのは、それだけよ。
ちなみに、
うちの両親は、いわゆる「ダブル不倫」でしたが、
数年前、そのことを、親の古い友人だった人に、ふと聞いてみたら、
「(私の母親に対して)やめときなよ、って止めたんだけどねぇ」
と言ってたなあ。
私が20歳代の頃、母方の叔母の家に、彼女の病気と手術後の世話を するために滞在していたおり、
うちの親らの経緯についての話題になったとき、叔母も、それと同じこと言ってたのを憶えているんだけど、
「やめときなさいよと言っても、あんたの おかあさんは、頑として聞かなかったわよぉ」
と。そう言う叔母も、不倫の真っ最中wま、エゴイストほど、自分のことは不問だねww
それでこそ、自分の欲を最優先で追求し、他者を踏みつけにして、生き延びるもんだ。子どもたちにも、このように教育すべきだねwww
当の母親に言わせるとさ、
「ああ、もう、わたしは、この男から逃げることは できない」
と思ったんだってさ。
あほくさw
親父の先妻が妊娠中に、ちょっかい出されただけやんw
たしかに、親父もアカラサマでシツコ過ぎたらしいけどww
本気で一緒になるほどの気もないことが分かってるからこそ、
自分も妊娠したわ、この責任とれー!!って迫っただけでしょ(嗤)
私自身、ヨメが妊娠中の男に言い寄られたことの一度や二度は あったよ。巷で腐るほど よくあるパターンなのよね。
ところで、
『皇族』って言えど、各メディアでも、ふだんは滅多に登場しない、あまり話題にならない人も おられるし、
せいぜいが『天皇家』直属の人くらいまででしょう、
「お茶の間」で よく見かけるといったふうの、テレビを始め各種のメディアで見慣れた顔の一つに過ぎず、ほとんど芸能人か単なる有名人みたいな。
珍しいほど「クリーン」な お人柄で、清廉潔白で、「ご清潔で、ご立派で」といった、特異なるイメージを、おつむの上や背後に付き纏わせてウリにしている、変わり種の芸能人、といった印象しかないですわ。
逆に、
『皇室』『皇族』の人たちの立場を想像してみれば、
「シモジモ一般国民」なんて存在は、あまりに漠然として、それこそ「象徴的」で、いちいち、顔も知らない、われわれ一般国民の幸・不幸のことを、彼ら彼女らが、さほど、気にかけているわけでもないことと同様だろう。
もし本当に、一日たりとも一瞬たりとも忘れずに、「国民の幸せ」とやらを願い、「国民の不幸」に思い馳せ、祈り続けているとしたら、ふつうの人だもの、心身が持つわけなかろうよ。
とりわけ、まだ若い眞子さんや佳子さんたちの表情を見れば、
黒山の人だかりを、芋やカボチャが押し合いヘシ合いで拵えているかの如く居並ぶ前に「お出まし」したときなど、このうえなく退屈で辛気くさくて、なにもオモシロくもない「ご公務」のおりに浮かべる表情には、一種の「被害意識」さえも窺えるわな。
「男女平等」という、新たな、分かりやすいタテマエに隠れるな!
と、先日のエントリーでも指摘しておいたが、
日本人ですら、分かっていない国民が多いだろう。
まずは、
単なる「女性天皇」と、単純なこととして片づけられない「女系天皇」との違いを、すべての国民に分からせることから始める必要が ある。これは、初歩の初歩に過ぎない。
その違いを、「差別的」で、ナンセンスなことだと思うなら、
そういう「差別的でナンセンスな」もののうえに築きあげ「連綿と」続けてきたのが『皇室』なのであるということを認識しなければ ならない。
決して、現代の良識たる「男女平等」のタテマエに乗り換えて、他国の「王室」と同列に考えられるものでは ないし、
そして、
「差別的でナンセンス」それ自体が、『皇室』の「伝統」なのであり、「世界に稀なる価値」であるとしてきたことを、どう考えるか。
その「差別的でナンセンスな」「伝統的価値」を取っ払ったあとに残るものは何なのか。
国民たちが、非人間的な、無謬性を帯びた「偶像崇拝」を続けるかぎり、
『皇族』の人たちの、ある種の「被害意識」と、それを緩和するべく「特権意識」は、並び立つ両輪として回り続けるだろう。
つまり、「眞子さん騒動」は、今後とも大いに起こり続ける可能性ありと いうことだ。
【続く】