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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.11.12 (Mon)

このたび、幸いにも帰還された安田純平氏のことに関して。

私は毎度のごとくで、ほとんど知らないままだったながら、
このかたの場合は、なにしろ、これまでに5回ほども捕まっているという話は、すでに、いちおう知っていたので、
正直なところ、なんだかなあ、、、どして、こうなる?とは思いつつも、

あの後藤さんたちの凄惨な事件のことを思い起こすと、いまだに、胸が痛むし、最悪、あれと同じような結末になってもらっちゃ、同じ日本国民だけに、すごく厭だわなあと思っていたので、

些か唐突な感もあった意外なタイミングにて、とりあえずは無事に帰国を果たせたということを喜ばしく思いました。

 

ただ、

帰国して数日後、お疲れを押して、長時間の記者会見に臨まれ、かなりの詳細を、ご本人みずから説明されたそうなのだけれども、これの関連記事を少し読んだかぎりでは、私個人は、なんか腑に落ちないと感じた点が、一つならず残っている。

特に、現地にて、本来のガイド担当者が、何かの理由で、いったん、その場を離れたときに、すぐに戻るはずを待たず、別の人物が近寄ってきて、そのまま、その見知らぬ人たちについて行ってしまったということだが、

このへん、後藤さんの場合にも、似たような経緯が あったとのことで、彼が、いつも依頼していたガイドさんの つごうが合わず、しかたなく、それまで、面識が なかった人に ついて行き、たちまち捕えられてしまったという発端が報じられていたのを思い出した。

このような経緯について、私のミスでした、甘かったですと、単純な説明で終わる話なんだろうか?という違和感が真っ先に来た。

いかに「虎穴に入らずんば」だとしても、安田さんの今後の活動を継続するとしたら、このあたりの原因は、しっかりと胸に刻むべきだろう。

身代金が、テロ組織の手に入ることにも、大いに問題が あるのは確かなんだから。

 

さて置き、

後藤さんたちの事件当時、ネットでは特に、かしましいほどの「自己責任!」「自己責任!!」の声に合わせて、「政府は、自国民を守る義務が あるからこそ、警告を発していたというのに、それを無視し、出かけていった本人が悪い」という意見が多く見られ、また、

危険な情勢の国や地域での取材や情報は、せっかく平和に生活している日本人が、ワザワザ無理して入って行かずとも、他国のジャーナリストたちから買うなりして、分けてもらえばいいんだ、と付け加えられているのも、たびたび見かけた。

こんなことマジで言っている者が、

『日米同盟』やら『集団的自衛権』が話題の場では、とたんに、「片務じゃ申し訳ない!」「他国の兵士が血を流しているというのに、こちらも同じく血を流さねば申し訳ないと思わないのはケシカラン!そんなのは日本人で ない!!」とか言ってたら(たぶん、言ってるw)、噴飯ものだわい、と思っていた。

 

今回の安田氏に対しても、同じような意見は相変わらず多かったようだ。

ただ、ここへ来て、『朝日新聞』の どなたか、おエラい人であるとか、いわゆるリベラル系と思しき識者たちが、早い段階から、安田氏バッシングを遮っておくかのように、明確な意見表明に努めた効果なのか、

以前なら、いかにも「ネトウヨ」と、それが支持している安倍政府に おもねった姿勢むき出しだったはずのテレビの人あたりまでもが、驚くほど、安田氏擁護の側と呼応する姿勢を見せていたので、結構なことだと思いつつ、私には、いささか意外に思えた。

 

どういう風の吹き回しか??

後藤さんたちのときには、ほとんど見られなかった、この動きは、これは、やっぱり、裏で政府の動きや絡みが あったからなのかな?とも思えたけれど、とまれ、「ネトウヨ」に代表されるような、ネットで跋扈している浅慮まる出しの意見に対しては、それは違う、浅はかだよ、ということを、ズバリとハッキリと言ってやってほしいものだ。

 

知性と知識と教養と、長年にわたり培い磨いてきた、高い見識を お持ちの かたがたは、もっともっとガンバってくださいよ。これも社会還元ですよ。

「ネトウヨ」だの右翼ビジネスだのに精出してるジコチュウ連のデタラメ話を拡散する蛮声に負けてて どうすんですか。

 

安田純平さん会見で謝罪 外国人記者が覚えた違和感と疑問
20181110 1500日刊ゲンダイDIGITAL

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12136-121839/

フランス人記者が見る、安田純平氏「自己責任論」の根底にある社会的背景20181109 1000週プレNEWS

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12176-121065/

 

ここで少し、以前から考えていたことに触れておくと、

私は、学校時分に、アメリカでは、たとえば、親の言いつけを守らずに、危険な所に行って、命を落としてしまったとしても、それが、まだ幼い子であったとしても、あまり同情しては もらえないのだという話を、教師か誰かから聞いたか、何かで読んだかしたんだけど、

まあ、幼い子どもに「自己責任」と言い切ってしまうのも 限界あるはずと思うので、むしろ、しっかり教育しておかなかった親の「自己責任」のほうを問われるということじゃないの?とも思う。

なので、「自己責任」という考えかたは、まさに、アメリカ人の好むところなんだろうと、長いこと思ってた。

 

アメリカでは、頻々と引き起こされている銃の問題が、なかなか解決できないのも、『ライフル協会』やらの商売人の 「あくどさ」とかいう以前に、
地方で生活している人の話を聞けば、そもそもから、一般の市民生活のなかに銃が、言わば必需品レベルで入り込んでいることの理由も分からないでは ないし、それを遡っていけば、開拓時代の生活に行きつく。

日本では、昔、「刀狩」が行われた おかげで云々ということも あるけれど、まず、国土の広大さ、自然の状態如何ということも関係してくるだろうし、日本の場合、狭い所に集中して大勢で固まって生活している形態が殆どだから、自宅の庭の隣りが、隣家じゃなくて、猛獣も生活してる広大な森林なんてことは、深山のなかで暮らしてるんでもなければ、銃を持ち出して、追っ払わなきゃならないほどの大型猛獣等が出没することも、まずない。虎でもなければコヨーテでもなく、せいぜい、猪ていどで大騒ぎしてるもの。

 

もっとも、ワシントンの省庁近くの街なかで暮らしてる日本人でも、ピストルの一丁は持っているらしい。私の聞いたところではだが、ただし、その人は、どこに しまってあるのか思い出せないようだったがw
要するに、普段、そんなものを持ち出す必要は、さすがに、あったためしが ないということに ほかならないのだろうが、それでも、わりと近場で、銃を用いた事件が起こったよ、と言っていたことが あった。

 

なので、私は、「自己責任」という考えかたは、わりと近年になってから、日本人が大きな声で叫ぶようになった原因は、これもアメリカから輸入して流行ったんじゃないかなと思ってるのだが、

もちろん、アメリカ国民の生活感覚や考えかたとは根本が異なっているのに、履き違えていることに気づいてないまま、日本で、昔から馴染みのある仏教由来のコトバ「自業自得」と ほぼ同じ意味で、「自己責任!」というコトバを振りかざして得意になってるだけの人が殆どだろうと思う。

 

さしあたって自分の身は、まず自分で守るしかないんだ、という強い意志や覚悟なんかじゃなく、日本人の場合は、「周囲に迷惑かけるなよお」という意味で、ブーブー言ってるだけ。

特に、カネの迷惑は嫌がられるw

 

その「周囲」のなかには、当然、「迷惑かけられたくない!」という個人の本音も入っているし、

もしも自分自身が、はたに迷惑かけることにでもなったら、肩身が狭くなるし、いつも平身低頭で生きていくことになるなんてマッピラ!という本音が潜んでいると思う。

もちろん、個人の資質にもよるんだけどね。多くは、上掲のフランス人ジャーナリストさんの指摘に言う「社会の調和を乱した」なんていうほどカッコイイ(?)もんでは ないのよw

要するに、手が かかってメンドクサイからなの。それが、
たとえば、子育てや障がい者や高齢者への疎んじにも つながってる。

逞しさや活力を失い、疲弊しきっているのに、エエカッコしないとならない個人は勿論、家庭のなかでも。畢竟、それが、「内向き」社会の特徴なんじゃないかな。

日本人は、基本的に真面目で堅実性が高いというイメージだけど、同時に、「島国根性」とか「ムラ社会」という定番の揶揄もある。

 

だから、日本では、べつだん、義理が あるとか特別の義務もない場合、他人に殊更親切にするとかボランティアするというのは、宗教なり思想なりに裏打ちされてることでも、「ノブレス オブリージュ」なんてことでもなくて、

現代の日本では、格差が広がりつつあると言っても、全体に、いまのところは 大部分まだ わりと均質な構成の社会だから、何か突出してる場合は、心底に「自己承認欲求」みたいなものを抱えていて、それを満たしたくてやってるだけという人が少なくない。
極端なケースでは、
それこそ、暴力団の焚き出しボランティアとか、子どもに お菓子配りとかいうのも含まれそうかな。というよりも、要は「下心」かな?w

そんな人に、ヘタに お世話になったりしたら、あとあと、何かにつけて恩着せがましく偉そうにされて不愉快な思いを させられる、というハメになりがち。もしも、そうなってしまったら、そこへ至って やっと、いやらしい「マウンティング」的性質の人だったことが分かるんだけど。

 

 

しかし まあ、後藤さんや安田さんのような、ああいう分野のジャーナリストたちの世界にも、やはり、国を跨いだ同業どうしで、熾烈な競争とか、ある種の野心なんかもあるのだろうなあ。

 

 

自分の代わりに、どこかの誰かが集めてきた情報、それを買って済ませれば いい。

そんなことを言い放つ者が、ネット上の相手に向かい、

「情弱(情報弱者)!」

という、昨今流行のようなコトバを投げつけて、得意になってみせるのも滑稽だけれど。

 

ジレンマを伴う この問題、そう安直に済ませられることではなさそうだ。

 

 

いやあ、自分は知らなくて いいです、知りたくもないんで。

自分の代わりに、誰かが知っていてくれれば、それで いい。

 

そうとも、知らなくて いいのだ、おまえたちには知らせない。

知らせないことも知らせないぞ。

 

…情報統制された国の民衆を、その国の「主人」だとは、誰も思えまい。

哀れで弱い存在だとは思えても。

 

『民主主義』の主人は、名称どおり、国民・民衆が主人。

 

みずから慎重に判断を下し、みずからの責任をもって選択を行うときに、

必要な情報、まやかしでない情報、それなくして、「主人」たり得るだろうか?

 

しかし、この「主人」は、まやかしでなく、必要な情報を、どうやって見分けるのか。

 

そして、その情報を、はたして誰から入手するのか。

 

 

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