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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2019.09.25 (Wed)

――硬直する日本――の続き。

 

まあ、正直なところ、きっちりと決まりきったことを好んで拘る人の気持ちを全然、理解できないわけじゃないんだけどね、私とて。

それでも、
自分の部屋や自宅で、とかなら ともかく、ハタに迷惑かけてまで拘ることじゃないだろうに、と思ってたもんで。

 

ところで、

こないだは、宇宙分野にも関連した内容の記事で、誰かが投稿したコメントに、例の「シュレーディンガーの猫」が、とか「エントロピー」が云々という話題が出て、「高エントロピー」だとか「低エントロピー」だとか言ってるので、思わず、うちの両親を連想した。

 

親父のほうは、部屋が かたづいていないと、猛烈にイライラする性格なので、整理整頓にはマメだった。
あの投稿者たちの遣り取りによれば、まさに「低エントロピー」に分類されるんじゃないかとw

母親のほうは正反対で、散かってるほうが落ち着く!と常々主張していたので(多分に掃除がメンドクサイことの言い訳だがw)「高エントロピー」かよwと。

 

私自身はと言うと、
30歳代なかば頃までは、父親に似ていたのか、やはり「低エントロピー」だったのだろうw室内などの状態に関してだけは、親らに文句を言われたことは なかった。

ただ、親父は、整理整頓さえ できてたらオッケーで、清潔かどうか、衛生面については、わりと無頓着だった。男性に わりと多いタイプかね?

母親のほうは、これまた逆で、清潔に関しては、かなりウルサイのだが、散らかしっぱなしの状態が、まさにエントロピーよろしく増大していくw

私は、まさに、あいだを取ったごとく、清潔にして整理整頓が行き届いていると言える常態だった、はずなのだが、、、

 

ところが、

病気やら介護やら多忙の時代を過ごすうちに、いつしか「高エントロピー」状態()へ変化したのか、

いや、所により「低エントロピー」と「高エントロピー」が入り混じってるようになった。

こういうのは、どう判断すべきなんだろうか?w

まあ、けっこう ややこしい学説なので、私も、よくは分かっとらん(苦笑)

 

 

で。本題に戻ると、

計算ミスが減る」という事実をもって、定規を用いて筆算の線を引く、ということの理由であるのなら、それは一つの理由としていても いいと思うけれど、

私も、むしろ「計算のリズムが崩れる」というほうに実感が あるようには思う。

 

まあ、あくまで形式だろと思うような作業は、肝心の目的を終えてから、まとめて最後に かたづけちゃう、という やりかたを、私自身も、よく やるほうなのだが。

そのときは、せっかくだから、いちおう終えたものを確認しながら、
の つもりで やる。

でないと、しょせん無意味と思っているからこそ一気呵成に まとめて やってしまおうとする作業ほど、ミスを誘発し易いものだから。

 

 

ま しかし、

くだんの記事中の小学校教師たちの言い分は、ほとんどコジツケと言うか疑いたくなる胡散臭さと言うか、何か宗教的手続きめいてるねw

 

肝心の目的は何ですか?

 

きちんと理解して、解答を出せることでしょ。

 

教える側自身が、不確かなのに、どうして、子どもに教えられるのよ??w

 

「うちでは、とにかく、そういう仕来りになってるので」という押し付けは、むしろ、成人や社会人だから、角を立てて、居辛くなるよりはと、曖昧なまま「面従腹背」という芸当も敢えて やるけど、

以前にも言ったことあるように、

おとなの殆どは忘却してるんだろうけど、
多くの子どもは、案外と、ちゃんと筋の通ったリクツを好みますわ。

 

特に、かなり以前から、他人さまの子どもたちを眺めていると、頭ごなしというのを嫌う傾向が つよくなってきてる感じが していたんだけど、

それだから ますます、おとなの つごうで拵えた管理ルールを呑み込ませることになり、昨今の、異様なブチ切れ事件を起こすまでは、むしろ、キモチ悪いくらいに従順で おとなしい良い子が増えてるんかなあ?とも感じる。

 

 

だいいち、キレイな線を引くためにとかで、本来のこととは別の作業を、いちいち挟まなくては ならず、そのたびに中断してたら、思考集中してるときこそ、気が削がれてしまう、これは、私にも実感あるな。

 

特に小説の読書なんかでも そう。

私は、どんなに長編でも、まずはイッキに読了する。時間が かかっても、大概は最長3日以内。

きょうは ここまで、とか、一日に何ページだけ、という、お行儀良く理性的な読み進めかたが、どうもダメ。

そのかわり、
一度は読み終えたものを、あらためて、今度は ゆっくりと読み返す。

すると、イッキ読みしたときとは別の感想やら新たな観点が立ち上がってくるのが、また興味深かった。

もちろん、第一印象や最初の感想と変わらないことも多い。

 

これでは、徹夜したり、それこそ「寝食を忘れて」という状態になりがちなので、学生時代は、しょっちゅうだったが、さすがに、社会人になってからは、やっぱり、ムリ。

 

 

「ノートの とりかた」ということについては、教師からの評価が高かったという理由で、「カラフル ペン」多用というのも、程度問題です。

ゴチャゴチャして、かえって分かり辛くなることも あるよね。
実際、私の学生時代も、怒る教師が いた。

 

知ったふうなこと言ってるコメントもあるが、仕事での「プレゼン」にしても、そんな小手先の誤魔化しは効かないよ。

 

えてして、芯から分かってないからこそ、そんな自分のオツムを整理しようとする気持ちで、殊更きれいに清書したくなったりするもんだ。それで、なんとなく、いちおうは理解できたような気になったり。

 

ほんとうに、隠された重要な意味が潜んでいるのなら、わけも分からぬ繰り返しの積み重ねのなかで、ある日、ふと、ああ、そういうことだったのか、と気づくことも あるだろうし、ルーティン作業が、その他をスムーズに進めるためにかかせぬ役割であったりもするが、

ほんとうに見かけの形式を整えるだけで、それ以上の意味は ないことである場合は、どれだけ繰り返しても、新たに気づくことは ない。

やっぱりムダじゃんと思いつつ、それでも黙って従えるのは、「気づいた」からじゃない。飼い慣らされた、っていうこと。

もはや、やらないと落ち着かないという症状を抑える機械的儀式みたいなもんだ。

 

だいたいは、そういう類のことは新入りに やらせるから、どの組織でも、下のほうから雰囲気を悪くしかねないし、いつしか、投げやりにもなっていく。

 

 

人間ならではのせっかく便利な小道具を駆使したら良いのは、そりゃそうだと思う。

細かい文字やズラズラと幾段も並ぶ各行の取りこぼしや目の錯覚などの間違いを防止するために、定規を当てつつ進めていくという やりかたは、たとえば、校正作業なんかでアタリマエに やってる。

 

「筆算の線」というのを、手書きするのはダメな理由ってのが、定規で線を引くのは難しいから慣れさせるため、つったって、実際は、フリーハンドのほうが、よっぽど難しいんちゃうの?

記事の添付写真も、方眼ノート使ってるみたいだがね。

(この記事では、教師側から、そういう説明が されたと述べられているのに かかわらず、全く逆なことを決めつけて何度もコメントしてるヤフゴミんも いるぞ。記事を読んでないのか、読解力が皆無なのか、何ぞの目的が あるのか、どれなんだろな?ケッタイなやつw)

 

 

如何なるときも、常に、定規を携行する!これが、『日本臣民の道』ってか()
「定規は、日本臣民の魂!!」(爆)爆)


 

そして、時代や状況によっても、「理由」や「根拠」は、かんたんに揺らぐ。

 

「リクツと膏薬は どこへでも」ナントヤラ。

 

近代の生き証人の一つが、いわゆる「墨塗り教科書」世代だ。

あの世代の怒りも、なかなか凄まじいものが あるよ。

 

 

「なぜ」「どうして」は、哲学のもと。

 

 

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