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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2022.03.25 (Fri)

「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのコメントときたら、
知能は勿論、国籍までも疑いたくなるほどの低レベルな文章力、当然、論理力も拙劣で、作話の癖と、自己粉飾、辟易するほどの幼稚な感情むき出しぶりは従来から指摘していることだが、

もう一つ、噴飯ものなのは、
知ったかとか半可通とかと並んで、その解説ぶりが、どうして、こんなに的外れなのかと思えるほど、大きなズレが目立つこと。

たとえば、

『ローマ教皇』に、ゼレンスキー大統領が、調停を要請したというニュース記事に付いたコメント。

kae***** 

旧ソ連圏の中でも、ウクライナは国内の正教会もコンスタンティノープル系とロシア系で別々にあって対立しています(というより、ウクライナこそが世界的な両派対立の主因です)。さらには、同じく東方典礼でありながら、ローマ(カトリック)に近い一派もあり、キリスト教だけでも三竦みの対立構図にあります。そして、当のゼレンスキー大統領はどうかといえば、よく知られているようにユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。
一方、正教会内の対立構図にあって、ローマはどちらかといえば歴史あるコンスタンティノープル寄りですから、ロシア正教会からは嫌われています。
つまりローマ教皇というのは、国際社会における宗教的権威ではあっても、ウクライナ・ロシア双方にとって、大統領や国民の精神的支柱ではありません。言ってみれば、東アジアでダライ・ラマにお願いするようなもの。そこを頼らなければいけない程切迫している、と読み取るべきでしょう。

 

 

後半に入るまでの説明は ともかく、
「東アジアでダライ・ラマに お願いするようなもの」

なぜ、そこで、『ダライ・ラマ』の名を出すんだ?w

言うところの「東アジア」圏内に おいてさえ、かなり限られてるでしょうに、『ダライ・ラマ』と『ローマ教皇』とでは、及ぼし得る国際的影響範囲の大きさが全然、違うでしょ。
ゼレンスキー大統領は、もちろん、自分たち直接の当事者間に、というよりも、言わば「第三者」への影響が、より広がっていくよう計算してのことだろう。

 

 

宗教界にも「分断」の争いを持ち込もうとしてるのか?

私も、もし、ゼレンスキー大統領の立場だったなら、そもそもから、彼と同じような行動は とらなかっただろうと思うので、よく理解しようにも、いまいち分からんのだけど。

その点では、むしろ、プーチン大統領のほうが、多少は分かりやすいと思えるくらいだw

 

 

無人島である『尖閣』と、あるいは『竹島』、あるいは『北方領土』と同列に『ウクライナ』の問題を語って、恐怖を煽らんとしている連中も、根本的からズレてる。

それに、

私は何度も言ってるが、竹島にせよ北方領土にせよ、実のところ、日本敗戦後の処理段階で『アメリカ』が大きく絡んでるよ、っての。

 

言うことを聞かせる対象であるように仕込んできた日本を、いまでも、心底からは信用してないアメリカは、ある意味では、ほんとうの「敵」であり続けているのだが、
そんな日本の『天皇』とは、いまでは、まさに『米帝』こそが、その地位に就いている。

この両国の関係性は、世界で最もpeculiar奇妙なものだろう。

 

 

ここへ来て、

遅かれ早かれ辛うじての停戦が叶ったとしても、そのあとは、ゼレンスキー大統領自身も、彼の国内での立場が非常に厳しいものになるやもしれない懸念も あってか、

プーチン大統領とサシの交渉に おいては、先方が条件として突きつけてきているという幾つかの箇条書きについて、「住民投票を」モゴモゴと言い出したそうなので、

ははぁ、やっぱり、自分で決めてしまう度胸までは ないのかな?
と思っちゃったけど、

その点、プーチン大統領は、最後は全て一人で決めちゃうんだろうね。

 

しかしながら、

われわれ日本人にとっても、ただ、ここで ますます、プーチン氏に「味を占められ」たら困る。

そうなったら、彼がピンピンしてるかぎり、何度でも、火種は火を噴くだろうから。

 

なので、私は、非武装国家になれ!というプーチン大統領の要求だけは、呑んではマズイだろうなと思ってるわけ。
わが日本だって、聞くところでは世界5位とかいうほどの自衛的武力は備えてある。

 

もしも、非武装化を敢えて受け入れるので あれば、

そのときは、プーチン大統領との「安全保障」の約束を真に受け、単純に信じることは、さすがに ないにせよ、

これこそを、プーチン氏が恐れているであろうところの、『アメリカ』並びに『NATO』が、『ウクライナ』の後ろに控えて見張っている、次は決して容赦しないという姿勢を強烈に見せつけておかねば ならないだろう。

だが、これでは、プーチン氏にとって、もともとから最も見たくない光景だったはずじゃないのだろうか。

 

 

良くも悪くも以前のアメリカなら躊躇なく、プーチン氏の前に立ち塞がり、いまごろは、とうにサッサと畳んでしまってたかも()なのだが、

一部を除いて、ほとんどのロシア一般国民が、プロパガンダか大本営発表だかでカン違いしてるのか、いまだに寝ぼけているのか、自分とこの「暴君ツァーリ」を どうにか しようともしない感じを見受ける、これは ひとえに、いまのところ、ロシア国民である自分たち自身が空爆される身には なっていないから、というのが大きいのだろう。

 

繰り返すが、

自分と家族の頭上にアメあられと降ってくる爆弾に突如、逃げ惑い、死を覚悟し、あるいは立ち向かわねば ならない仕儀へと導かれたことで、いずれにせよ停戦となった あとのゼレンスキー大統領自身にも、国民たちの新たな怒りが向かっていったとしてフシギじゃないのだ。

 

 

今回のエントリータイトルは、故 寺山修司氏の作のなかでも特に広く知られている一首で、

「身捨つるほどの祖国は」と続いていくのだけれど、

私、この一首を締めくくる、「ありや」という箇所まで来ると、ほぼ反射的に、「なしや」と続けたくなる癖が あるのよね。それも、永遠と。

ありや?なしや?ありや?なしや?…

 

ちょっとね、「われ思う ゆえに われ あり」を思い出すの。

と言うのは、

以前、もう何年前の話なんだったか、おぼろになってしまってるけど、(例の)QAサイトで、

かのデカルト大先生のたまいし“Cogitoergo sum”、これのことを質問してみたところ、

そのときは、ほんっとに珍しいことに、
(「ヤフゴミ捨て場」同様↑デタラメ・作話・嘘ばっかの三拍子そろった、あたまオカシイ連中の巣窟だったからね 嗤)

フランス語やラテン語の素養あるらしき かたが、懇切丁寧なる回答してくださって、

「『我思うゆえに我在り』と我思う」、
このように続けるべきじゃなかろうか?的な質問に対して、

そうなると、ラテン語の特性で云々とかって答えだったかなあ、

「…ゆえに我あり」と我思う、と つなげてしまうと、

「ゆえに我あり」と我思うと我思うと我思うと…てな感じで、
永遠と続けていかねば ならなくなるのです、とか、そんなようなことを指摘しておられたと憶えている。

なので、ここは やはり、
「(ゆえに)我あり」にてスパッと打ち切らなければ ならず、そのために、デカルトがラテン語を用いたのは必然だったとかナントカ。
だいたい そんな話。

閑話休題。

 

【続く】

 

 

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