2021.12.07 (Tue)
それらは、少なくとも今、さしたる辛苦には晒されずにいて、これから先も そうだろうと単純に信じていられる軽薄短小のための消費的娯楽の一つでしかない。
先が暗い、救われない苦しみのなかで、じっと俯いて縮こまっている人にとって、
『キリスト教』が、『皇室』が、いったい何の意味あるものか。
彼我の断絶は甚だ深い。
国内外とも深刻な問題を抱えたままの国でも、巨大なクリスマス ツリーに点灯され、集まった群衆が歓声を あげた、などというニュースを眺めていて思った しだい。
かく言う私も、自宅すぐ近くのカトリック教会のクリスマス ツリーがイルミネーションで輝くのを楽しみにしては いる、本来単純なノンキ者なのだけれど。
医者の誤診で、手遅れとなった結果、2歳頃に「ウイルス性脳炎」による重度の知的障碍者となった17歳の息子を、「心中」するつもりで殺めたものの、母親自身は、あれや これやと、死ぬ方法を試したにも かかわらず、とうとう死にきれなかったという、そんな母親の裁判の記事を読んだ。
一読して、
ここでも、ああやっぱりな、自分以外を殺すのはカンタンに殺せても、
自分自身を殺すのは、自分の子を殺すよりも、もっともっと困難で、死にきれないものなんだな、
それくらい、人間は、自分が最も可愛いものなんだ、誰よりも。
と、
まして、自国と言えども、身内と言えども、親身になど なるものか、
いざとなれば、わが子を殺すよりも、自分自身の命を絶つほうが恐ろしく困難なのだ、
しょせんは他者が、冷淡でも冷酷でも当然なのだろうと、
あらためて思ったことだ。
さて、
この母親自身、長年に わたる苦労と疲弊のために、心身の治療を要しているらしいのだが、くだんの一人息子を出産した年齢が、当時、すでに30歳代も後半だったようで、息子の後天的障碍が切っ掛けになったのか どうかは、記事ではハッキリしなかったが、そもそもから、結婚相手との出会いや夫婦仲も、スムーズなものとは言えなかったように受け取れた。
日常生活の あらゆる面で、他者の配慮と助力に大きく頼らなければならない重度障碍を背負っている場合、とりわけ、知的障碍の場合は当然のこと、障碍児・者自身の自力で生きのびることは不可能なはずだから、
これは もう、当の障碍児本人以上に、その親のほうこそが直視し、現実を認識して、適切な対処を早急に迫られる。
まずは、対応可能な施設に入所できるよう動くことなどは、障碍児本人で なく、親なのだが、
くだんの事件の親子のように、ただでさえ周囲のフォローが乏しいうえ、障碍児の粗暴性如何によっては、どこからも入所を断られたまま、という事態も現実として あるわけだ。
私自身、重度の知的障碍児の母子グループと接触した経験が あるのだが、
重度知的障碍と言っても、やはり、皆が皆、同じパターンや傾向を示すわけでは ないのである。
これについても過去エントリーで述べたことが あるが、
ことばを発することすら一切不可能で、自分の感情や意思を示すには、まるで、あかんぼうや動物の鳴き声のような発声を もって表現するしかないような重度障碍児でも、
「この子は、ほんとうは、もの事や人の本質のところを見抜いているのでは ないか?」
と思えるほど、独特の鋭敏さを示す子も いた。
自分自身はコトバを話せなくても、他者の発言や態度の意味するところ、醸し出すものは、むしろ、「健常児」以上の鋭さと繊細さで理解する能力を備えているように感じさせられるほどなのだが、
また別の障碍児は、
本人は、自分が、衝動的に、または継続的に興味を惹かれた対象の事物を、まさに憑かれたように見詰めて飽きず、長時間を、ちょっとも動かない。
その場所に おいての公的ルールや禁止事項となっていることを、ハナから一切無視、自分の衝動的欲求を通しきることだけに徹して やまない子も いる。
こういう子の場合、しては いけないことなのだと、根気づよく説明しようとも、まさに「馬耳東風」。
このパターンを示す障碍児だと、たしかに、全く手の施しようもないほど、言うことを聞かない。
口答えするでもなく、反感を態度に出すでもない。
視線は、さっきから興味を感じているもののほうへ釘付けになっており、その眼だけが異様に輝きを見せて、ひたすら自分の関心対象だけを黙って見詰めたままだ。
横に立って、いっしょうけんめい話しかけている者など存在していないと言わんばかりに、完全に、徹底的に無視しきっている。
専門筋の指導者なら、こういう障碍児であっても、何らかのコツのようなものを会得しているのだろうかと思ったりするのだが、なんと言っても、親は大変だよなと思う。
くだんの「心中未遂」事件を起こした母親の実母も、老人性認知症ということで、これと二重の介護負担になっていたらしいが、
なまじ、同じ集合住宅の上と下で生活していたのも、皮肉な結果を招いたのでは ないだろうか。
私自身、
それでなくても、ほかの兄弟姉妹全員が片親違いゆえ、特に母親から すれば、いちばん遠慮会釈なくコキ使い易い存在の娘だったうえ、近場に住んでいようものなら、ほんの30分ほどの買物中にも、電話がジャンジャンかかってきて、すぐさま出て、用向きを伺ってやらないと、受話器を取るなり激しい怒声が飛んで来た。
あの頃は、ほんとうに、死んでしまいたくなったものだ。
「親が原因で障碍を負った私の、親らの召使みたいな人生って、なに?」と。
もちろん、ほかの兄弟姉妹は、それこそ、存在していないに等しいほど、なんの役に立つどころか、相談できる相手ですら なかったし、ヘタすると、彼ら自身の問題を持ち込んでくる恐れも高かったので、私から近づくのも躊躇われるほどリスクのある対象だった。
そして、皆それぞれに、親に対する複雑な恨みを抱えていた。
なぜか、私は、ここでも、彼らのネタミの対象だった。
少なくとも、父母ともに私の実親であったからなのだろうが、そのために、他の兄弟姉妹からは、私一人が背負って当然、という正当化の理由にもなっていた。
くだんの事件の母親の実母とて、もちろん、心身しっかりしているうちは、孫のことを心配し、手助けも してもらったのだろうけれど、
それだけでなく、もし、金銭面でも多少の援助を受けていたのであれば、どうしても「負い目」は抱え込みがちになるだろう。
これは、私自身の経験でも、そうだった。
この母親には、実の兄も いるそうなのだが、主として経済的な面での「負い目」を背負い込んでいると、どうしても、親族一同からさえも、全てを押しつけられがちになるし、自他ともに、「そんなの仕方ないだろう」で かたづけてしまいがちになるものだ。
だから、若くて余力が あるうちに、さっさと見限ってでも逃げ出しておくに越したことはないわけだが、障碍を持っている身となると、現実は厳しい。
概ね、障碍者には世間も冷たいものだが、
親のほうも つけこむし、最後は帰ってくるのを待ち構えている。
ここで、一つ重要なことは、
「障碍者」と一口に言っても、重度であるのか、
そこまでは行かない、中途半端な程度だと、障碍児の親も、子に対する態度が大きく分かれることになるようだ。
もちろん、保護者としての責任を自覚している親が普通のはずであろうけれども、
そうでない親も少なくないかもしれない。実際、うちの親は そうだった。
なまじ中途半端だから、「健常者」と ほぼ変わらない「自己責任」を要求される。
私は、職場でも、陰に陽に障碍を大いに利用されることが少なくなかったが、
最も利用し続けたのは、ほかならぬ実の親だった。
息子殺しの事件の話に戻ると、
しんどさを こらえて、母親が動いた おかげで、ここならと思える施設が、せっかく見つかったのに、ただ「送迎サービス」の有無で左右されてしまうのであれば、その部分を、なんとかできないものなのか?
個々のケースによって、融通を利かせる余地も くふうも皆無なのか?と思うのだが、
他人は勿論、行政も役立たず、結局みなが「他人事」だった結果、起きてしまった「障碍児殺し」。
まずは、
ここの融通が利けば、あとは、なんとかなると思えるケースを見逃さないことだと思う。
たとえば、こういった面での調整を図る「コーディネイター」的役割の人や組織は無理な話なのだろうか。
例の『相模原』に おける重度障碍者施設での虐殺事件の下手人をば「英雄視」して信奉する「ヤフゴミん」が圧倒的に多い「ヤフゴミ捨て場」なのだから、またぞろソレッと飛びついて、
「病人、障碍者は殺せ殺せ」
「貧乏人や『生活保護』や『障害年金』受給者は死ね死ね死ね」
の大合唱が沸き起こっているのだろうなと思っていたら、
毎度の「重度障碍児・者を生かしておいても しょうが なかろう、やっぱり『安楽死』制度が必要だ」と、飽き飽きするほど見かけてきた定番の主張を大っぴらにしている「ヤフゴミん」は、今回、意外に、あまり いなかったようで、思わず拍子抜けだったw
その代わり、
そういった主張を、あからさまにでは なく、「奥歯に物が」挟まった ていの、遠回しな言いかたで済ませている手合いが少なくなかったみたいww結局、言いたいことの本音、本質は変わらないのだな(嗤)
以前にも指摘したのだが、
障碍を持っていたら、「死刑」宣告されにゃいけないわけか。
本人が、これ以上は苦しみたくない、生きていても仕方がない、『安楽死』で結構だと、自分で意思を示せるのなら まだしも、
くだんの『心中未遂』事件に おける息子は重度知的障碍なのだから、『安楽死』だろうが何だろうが、本人自身の意思を確かめることも できない。
まさに、問答無用の死刑。
罪状は、「重度障碍につき」ってわけだ。
【続く】