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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2022.01.18 (Tue)

視野狭窄。

 

数日前、大学共通試験会場の一つとした『文京』区の『東京大学』構内で刺傷事件が起き、数名の被害者が発生という、その犯人が、高校2年生のガキだというので、呆れていたら、

あとから知ったには、愛知県内でトップクラスの進学校の生徒で、将来は医師を目指して、東大を受験するつもりだった「頭の良い」「優等生」だというので、

「こんなもん、医者になったら、患者が殺されるわいな!emoji

と、ますます呆れた。

 

では、私の叔父のことを、再び話そうか。

過去エントリーでも、少し触れたことは あったかと思うけど、

私のとこは、全てにわたって、ややこしいこと このうえない事情がギュウギュウの家系なので、なかなか困難なのだが、なるべく掻い摘んで言うと、

この人は、祖父(私の母親の実父)と、後妻に来た祖母(私の母親の継母)との あいだに生まれた子どもの一人で、祖父母の年齢が、かなり離れていたため、私の母親を筆頭とする先妻の子どもらと、後妻の子どもである叔父たちとの年齢差も大きいほうだったので、すでに高齢になっていた祖父の代わりに、うちの母親が、長女として、授業参観や懇談などの学校行事に出向いてやったりしていたそうだ。

というのは、

そもそも、母方の義祖母という人は、いわゆる「身分違い」もイイとこで、家柄の格差のみならず、昔の、ひどく貧しい庶民の女性には少なくなかったそうだが、小学校で習うレベルの読み書きすら できない人だったらしい。

この人が、私の母親や叔母、叔父たち、すなわち先妻の子らを、徹底的にイビって、苛めたおし、勉学優秀であっても、進学を断固阻止したのだそうな。

 

自身が高学歴で、本来なら教育熱心だった祖父も、気性の激し過ぎる、若い後妻の尻に敷かれっぱなしの体たらくで、

たとえば、弁護士か教師になりたかった私の母親は、せっかく合格していた名門女学校への進学を断ち切られ、さりとて、
美貌に注目されてスカウトされた芸能界に入るのは、祖父が猛反対したうえ、慌てた親が勝手に決めた、顔も知らない相手に、十代で嫁がされたというので、私は、うちの母親から、その両親に対する恨みツラミをも、年がら年じゅうの如く聞かされ続けていたものだ。

 

母親らは、義祖母が、自分たち先妻の子どもの進学などを邪魔した動機には、義理の長女である私の母親との年齢差が近いうえ、生育環境の違いが歴然としていたことから、継母のネタミを買ったのだろうと言っていた。

同時に、「若い女の色仕掛けに参って、後妻に迎えた」父親(私の祖父)に対しても憤慨していた。

 

けれど、義祖母は、おせじにも美人では なく、「色気」のあるタイプでは全然なかったし、幼い私の眼にも、むしろ、およそ色気のカケラもない、感情むき出しで、男のようにガサツなタイプに見えていた。

 

この義祖母との縁は、じつは、うちの母親自身にあった。

それは、戦時中のこと、すでに実母が病没していた母親ら兄弟姉妹は、地方の田舎へ「個人疎開」していたときに、たまたま通りかかった見知らぬ若い女性らの一行が、大ケガを負い、あかんぼうを抱えて、行き倒れ寸前まで困窮していたのを見かね、父親(祖父)が不在の家へ、私の母親が、家に入れて泊まらせてやったのが切っ掛けだったという。

 

その後、

子どもだけで疎開させていた家へ、時々、仕事の合間に、食品や消耗品の補充や金品を届けるために やって来ていた祖父が驚き、勝手に他人を入れては いけないとの言いつけを守らなかったと、私の母親を、きつく叱ったそうなのだが、

ところが、そこから、どうなったものやら、結局、祖父は、その若い女性を、後妻に迎え入れた。

 

その前の経緯が あって、

妻を亡くしていた祖父には、再婚の縁談話も あったのだが、これには、祖父自身が、乗り気になれず、断ったのだそうだが、私の母親を始めとする、幼い弟妹らは、その縁談相手の女性が、穏かで優しい人柄だったので、ぜひ、この人に来てもらいたいと熱望していたゆえ、たいへん残念だったという。

同時に、

結局、継母となった私の義祖母に対しては、母親としての資質を直感的に疑い、拒否反応を あらわにして、祖父らに反発したのだが、どうにも ならなかったという。

 

私が思うに、

義祖母が、私の母親らに、とことん辛く当たった原因は、そのへんにも  あったのでは ないかと。

 

それでなくても、

うちの母親は、ダブル不倫で再婚した親父と、その連れ子らへの不満も募らせており、その勢いで、最終的には、まだ幼い私自身も激しく口撃されていたのだから、ほんとうに、私は、母親らの「ゴミ箱」的存在だったなと思う。

 

もちろん、母方の叔母も叔父も、先妻の子どもは皆、彼らの実父と継母(私の祖父と義祖母)に対する怒りと恨みを終生、抱え続けていた。

 

ところがね、

そんな義祖母も、私には、いたって優しいと言うか、けっこう気難しいところも あった祖父よりも、よっぽど、小言一つ言われた記憶が ないのよ。

 

おりおり、親に連れられて訪ねて行けば、祖父は必ず、2、3万円ほどの小遣いを渡してくれるのだが、すると義祖母は、私に向かって、「爺さん、今いくら渡したか?」と問いただし、「それなら」と、祖母のサイフからは、4万円5万円、というパターン。

一度行くと、こんな調子で、たちどころに5万円以上、お正月なら10万円は、小学生のフトコロに転がり込む。

うちの母親は、

「ほんとうは、おかあさんに渡すつもりで、おまえに渡してるんや」

と言っていたけれども、

まあ、これを、私から取りあげることだけは なかった。

私のほうも、小・中学生ながら、概ねは、モネやルノワールといった画集の特大版やら『ピーター ラビット』の絵本やらボードレール詩集の豪華版などに費やしていたものだ。

 

とにかく、気前の良い祖母で、気前が良すぎるうえ、特に私に対しては、帰りに持たせてくれるケーキなども、大きくて豪華なデコレーション ケーキを、まるごと一箱というふうなぐあいだった。

なので、叔母などは、「この子のことは可愛いと思うのかねえ?」と、自分たちに対する態度と比べて、フシギがっていたが、

私にとっても、母親や叔母・叔父たちが、この義祖母から、酷い仕打ちを受けていたなんて、信じられない感じも あった。

 

ただ、あるとき、私の母親が、

「おまえ、義理の子どもに、いっしょうけんめい してやったって、なんにも ならんぞ」

と、

義祖母に言い放たれたと、些か口もとを歪めつつ呟いていたのを憶えている。

 

要するに、
うちの母親が、親父の連れ子である義理の子らに、必死で尽くしているというスタイルのなかには、母親自身の大義名分であった「義理の親としての責任!」という、いかにも誠実を任じる以上にも、実子の私の眼から見てさえ、そこには、そうとうの、ある種の「ミエ」をも感じ取っては いた、けれど、

最大の根本的動機は、やはり、
言ってみれば、あの義祖母に対する「アテツケ」も込めていたのだろうと思う。

 

そして、義祖母のほうも、それを鋭く見抜いていたというわけだろう。

 

 

さて、
「無学文盲」である義祖母の、頭は悪くなかったどころか、むしろ鋭敏な頭脳で、祖父の後妻になってからは、買物などに出た街なかの看板やらを眺めて、様々な文字や読み方を覚えていき、

あるときなどは、うちの母親が、何かの事情で、とある金額の多寡について尋ねたところ、義祖母は、たちどころに、正確な金額を即答したというので、私の母親自身、計算機並みに、数字に強い人だったが、義祖母の計算力と記憶力の優れていることには、ふだんの恨みも忘れ、感心しきりの体だった。

 

義祖母は、私の母親から、いったい、どうやって計算したの?と問われ、

「ワシにはワシなりの やりかたが あるんじゃ」

と答えたそうな。

 

 

義祖母の次男である叔父の話に戻す。

叔父が幼稚園の頃、担任の先生と、父兄代わりの私の母親が懇談したとき、

「おねえさん、この子は、一を聞いて十を知る、なんてもんじゃないです。一を聞く前から、百も千も分かってるんじゃないかと思わせられますよ」

と言われたそうな。

 

やがて、地元で一番の進学校である高校時代、本人が、大学の志望を言う前に、教師のほうから、

「あー、おまえは、東大でも どこでも、好きなとこ受験したら いいぞ」

と断言された。

実際、叔父自身に、ここの大学が、といった、べつだんの拘りや考えは なかったようなのだが、そこへ決め手となったのは、私の祖父の一言。

「家から通える、いちばん近い大学!!」

で、『大阪大学』医学部だ。

志望動機は、それだけ。あっさりしたもんだ。

 

 

いまごろのシーズンになると、私自身が、大学を受験した辛い頃を思い出す以上に、

叔父が、思いがけず「腸閉塞」になって、急遽、入院していた病室から、試験会場へ出かけて行ったということを思い出すのだけれど、

その頃、祖父宅から帰宅した母親が、和服の帯を解いて、そそくさと部屋着に着替えつつ言うには。

「□ちゃん(叔父のこと)、えらい病気で入院中やのに、大変やったねえ、さすがに、阪大の医学部の試験は難しかったろ?」

と労うと、

叔父は、いつものクールな調子で、そっけなく、

「ううん、カンタンやった」

と一言。

もちろん、ストレート合格。

 

 

ところで、

むかしの実家に、時々訪ねて来ていた営業マンの若い男性が、ある日、うちの兄宛ての同窓会の案内ハガキが、玄関の靴入れの上に無造作に置いたままになっているのを目敏く見つけ、

「あっ、息子さん、国立大学を出てはりますの!?」

と聞くので、私の母親が、

「駅弁やんかw」

と答えると、

「えーっ、ひどいなあ、ボクなんか、私立ですよお;」

と嘆いてたそうな。

 

【続く】

 

 

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