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とりあえず、ひかりのくに
     
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2014.08.03 (Sun)
 

【続】『再び『佐世保・同級生殺害、遺体損壊事件』について考えること』

 

今回の犯行者は、非常に若く、しかも、女子である。
前代未聞と言って過言でないほどの事件だ。

 

「罪」も、「法」も「倫理」も、この世において社会を つくり、生きている「人」というものが拵えている。

その根本にある出発点は、やはり、素朴な「自分可愛さ」なのである。

 

りくつ抜きに自分の身が可愛いからこそ、他者の身も、一応であったとしても尊重してみせる。

たとえ「人間の心を持たない」者に見えたとしても、本当に そういう者であっても、自分は可愛いはずなのだ。

 

そこを広範囲に広げていった、言わば、社会の「精華」的なものであって、そうなれば、もはや、個々人の感情を超え、つまり、「普遍」的のものでなければならぬわけで、だからこそ、公として刑罰も実行される。

 

 

どんな者でも自分は可愛いはずなのに、

誰しも そうだろうということは容易く想像でき、分かるはずなのに、

他人の存在を、いとも簡単に抹殺してしまうとは、いったい、どういうことか。

そこで何が起きているのか。

 

 

およそ社会の法律となれば、それは普遍に共有されるべきものであって、

なんぴとと言えど、個人のものでは ない。

この基本は大前提なのだが、

近頃、ネットの、特に「ネトうよ」と思しき傾向の、徒党を組んだ如くして、大勢での投稿に夥しく見かけるような主張の一つ、

「死刑にしろ」だ、「極刑キボンヌ」と、安易な投稿に いそしむ前に、このことは、深く自問しておくが よいだろう。

すなわち、

人間の心」も「法」も「倫理」も一顧だにせずに、あっさりと、他者の存在を抹殺してしまおうとした犯罪者の心理、根底では、おのれ自身も同様かもしれないぞ、ということを。

 

 

まあ、一応にしろメシ食って寝るという最低限の生活を してるじゃないかというだけで、そんなのゼッタイ許せんという向きのひとたちは、呼吸を させているだけでも許せないという感情なのだろう。

これは、「不正」でなくとも、とにかく「生活保護」を受給していること自体を叩かずにおれないのと畢竟、同じ感覚・感情に発していると窺える。

そう考えると、

生活保護受給者は犯罪者と同じなのだから、飢え死にしないだけでも感謝しろ」などと主張していた、旧『イザ!』の「人気ブロガー」だった福島県民(「ゆさこを●ち」さんだっけねwこのひとのお陰で、福島県民に対するイメージが幾らかは下がったかもヨww)が いたことも思い当たる。

なるほど、産経記者と懇意だという ご本人(と、その取り巻き的常連)は、これが「正義」と確信しているようすではあったが、

「えらくギスギスしてるが;なんと余裕のないと言うか、魅力ないオッサンだのうw」

としか、私には思えなかった。

 

 

また、

極刑望まない親」「遺族感情」と言えば、

実際、アメリカでの犯罪で、幼い娘の命を奪った犯人に対する死刑執行を反対した遺族もいる。

 

一見、突飛な意見と見えるだろうが、私も、見出しを見ただけの時点では驚いたけれど、

よくよく伺えば、けっして、他人にも不可解な主張では なく、キリスト教が関係した影響もあるのかと思うが、

当の被害者の母親の述べるところを聞けば、一言で言って、
母親は、幼くして犠牲になった自分の娘の存在そのものを、一点の汚れもない、聖的な、清らかなままに置いておきたかったということらしい。

死刑を願う以上にも実に切ない心情に満ちたものだと思った。

 

一方で、同じくアメリカにおける有名な連続凶悪殺人犯の事例のなかには、犯罪が公に知れ渡っているさなかにて、過去の知人と結婚し、その家庭内では、家族を歯牙にかけたわけでもなく、穏やかな家庭人であったらしい。

(その男の顔を正面から写した記録写真を見たとき、恐らくは二重性格的な傾向が あらわに出た異様な眼つきを していると感じ、私は思わずゾッとしたが。)

 

 

 

人間の可能性ということ、

これは当然、未来への展望と希望の維持に繋がることであり、尊厳ということに関わってくる。

それは、ただ「人間だから」ということに尽きるであろう。

 

なぜ、「人間だから」なのかということに、根拠らしい根拠があるわけもないし、

ただ、われわれが、人間として育てられ、扱われるべき人間として生まれた、それだけのことだろう。

 

 

そもそも、「死刑」という罰には、必然的に根本的矛盾を孕んでいるわけだが、

「野放し」は剣呑とは言え、死刑に処したところで、すでに「あとの祭り」で、

実際、犯行を未然に防ぐことが出来なかった

(つまりは、すぐ足もとにおいてすら、共有が できていなかったということ。今回また、相談所の事例にも現れてしまった。)

われわれが、極端な判決を下すに至る前には、将来への責任、未来へ繋げていく微かな希望として、諦めずにやるべきことが多岐にわたって多い。

しかも、おのおの大変な緻密さを要請されるべきものである。

 

それは、防御と、まさに「抑止」のためであり、

これまでの人類の歴史上、あらゆる学問、ことに、人類の希望を一身に担い、体現してきた医学において、その発展に欠かせなかったことは何であったか。

 

 

 

まあ、くだんの事件を起こした加害者の父親ら家族には、精神病棟にて、ずっと隔離してもらえれば、それが一番、つごうがいいのも たしかだろう。

家庭から「厄介払い」しておいて、またも事件を起こされる心配だけは免れるわけで。

 

 

更生は、真摯な反省あってこそのこと。

反省したうえで、死刑なら死刑にも、従容と赴くことが肝要であって、

反省なき刑罰は、ただ反発と被害意識を募らせるだけ、
つまり、社会や、われわれは、ただ単に逆恨みを買うのみというわけになりかねない。

それで結構、という人もいるだろうけど。

 

 

ヒト以外の動物ならば、人間社会を構成する・してきた一員としての価値を付与されては いないので、ただの動物は「器物」なみの扱いであり、一度でも、人を襲ったときは、すみやかに殺処理する。

いちいち、その背後の よんどころない事情とかを探ったり調べたりは しない。

 

人であっても、幼い子どもに対しては、一部似たような扱いを する。
(ハナから責任を問えない対象として)

このへんは、昔の(?)欧米式の考えかたに影響を受けているのだろうか。

 

 

人間は、同じ「殺し」行為でも、虫を殺して犯罪に問われることは ない。

だから、気に入らぬ他国人や他民族、個人に対しても、「虫けら」呼ばわりしてみせる手合いが いる。

 

戦争ともなれば、おおっぴらに殺人する。

 

では、兵士たちは皆、精神異常か。

だから、無罪放免なのか。

 

 

「一寸の虫にも五分の魂」

「狂人にも狂人なりの論理」

 

私は、身内が、それこそ「自我つよき」ゆえ、プライドが脆くも崩れ、これまでのような結構な生活を維持できなくなるのではという深い恐れから狂うのも見てきた。

 

 

精神に甚大な問題があった場合でも、犯行相応の刑に服させよ、という主張に大いに頷けるものがあると、私も思うが、

敢えて無罪とすることもあるというのは、要するに、野生動物に対して、人間なみ倫理観を持って反省を求めてもしょうがないだろう、ということのようにも思えるw

だとすると、

もう とにかく死刑で排除することを主張する向きは、

「野生動物と同じに受け止めてよいから、さっさと射殺せよ」ということかww

…と思ってたら、
まさにズバリで、そういうことを主張してる投稿者が いたwww

 

(続く)

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