2014.08.03 (Sun)
『再び『佐世保・同級生殺害、遺体損壊事件』について考えること』
ところで、
西東京市で7月30日、義理の父親の暴力と暴言に追い詰められて自殺したらしい男子中学生の不憫な事件も発覚したが、
いったいに、
こうした父親のごとき手合いは、おのれが つごうによる、ひとりよがりの細かいルールを、立場が弱い者に押し付けて憚らないようだ。
実家の父親も、私が学校時分、新しい浴室が完成したおりに突如、
「掛け湯は、洗面器○杯までな」
「時間は○分までに上がれ」
とか、異様に細かいことを要求しだして、思わずポカンとしている私を前に、さすがの母親も、「いいかげんにしなさいよ」と怒ったことがあったw
うちのオヤジってのは、万事、そういうふうだった。
かく言う私も、
くだんの「同級生」事件の加害者と同じくらいの年齢の時期には、
おやじ、いまに殺してやる…と思っていたことがあった。
でも、そうは言っても、どんなに、こちらとして言い分があろうと、社会による刑罰を受けるのは、自分自身なのだということも意識に持っていた。
何より、犬や猫などは特にだが、私は、動物を興味本位で虐待・殺傷できる感覚には ついていけない。
私は一度ならず自殺を図ってもいたが、
もし、あの頃、私がサッサと死んでしまっていたら、その後の親を含めた家族・身内らの生活は、とうてい平穏なものでは済まなかったはずで、
つまりは、生まれながらに十字架を背負ったような私の一身において、実家の いろいろと重大な潜在的問題が表面化することは避けられていた面が大きかったわけだ。
まあ、このへんの事情は、あまりに根が深く特異で複雑過ぎるのか、
誰であっても、なかなかに、理解してもらえる機会は乏しかった。
かえって、こっちが責められかねないほどだった。
「PC乗っ取り・遠隔操作」事件の被告もそうだが、
かえって、なまじのエリート的だったりすると、世間に対して、もっと体面を つくろうとするのかもしれないし、
だいたいが、エリートというものが高知能に恵まれているのはアタリマエだろうが、その知能の高さは、うちの身内らもそうだったように、何らかの脳内異常が齎しているものかもしれないのだ。
なによりも、親である当の自分自身が、「自分は出来た」「やってきた」という自負心が強いと、子に自慢のタネあれば、もっともっとと、プレッシャーを かけていくかもしれない。
特には なければ、作ってでも、ハッパを かけるかもしれない。
私の実家などは、家がらとか先祖の功績のわりに、「エリート街道」からは、親の代で落ちこぼれてしまっていたことが、かえって幸いしたのだろうかw
そんな程度の親であっても、いやに体面を気にしたり、あまりミエを張るようだと、子に対して、その不足に思うところを徹底的に隠したり、完璧に無視したりする。
親に問題が大きいのが、はたの他人にも明らかなら、子どもが苦しいのは、分かりやすいことだろうが、そこのところが巧妙に隠蔽されて見えにくいと、問題は秘かに降り積もっていく。
ま、言っても せんないことではあろうが、
子ども つくって産むってことは、いまのとこ一応、自分の存在やら人生に深刻な疑問を持たずにいられて、単純に肯定できてるゆえの無自覚なる思考停止か、
真逆に、
肯定できないでいる深い劣等感があるからこそ、人並みに親ヅラの一つも演じてみたいと願望するのか、
いずれにせよ、
昔は、子どもが ないというのは、生活面に直結してくる不利でもあったろうが、
現代においては なおのこと、
純然たるエゴの行為であるということを、意識の片隅にでも置いて、常に忘れないようにすることも大切だろう。
『佐世保・高1女子殺害 逮捕された少女を精神鑑定へ 専門家「『心の闇』分析を」』
産経新聞 8月2日(土)9時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140802-00000501-san-soci
さて、犯行当時15歳、全然未成年であるし、これまでの判例では、殺害した人数でも大きく左右されているのが実態らしいので、少なくとも「現行法」で死刑はあり得ない。
「死刑」とか「裁判員裁判」に関しては、私も、さすがに、結論を出すことが困難なままの議題なのだが、
旧ブログで話題にしたときは、「プロ料理人」「代金を支払った客」の関係という喩えにして考えてみたことがあった。
まず、他人の人権を全破壊した者には、その者の人権を同じく全剥奪すべしという、まあ要するに「目には、歯には」の古代なみ世界だけれどw
私個人としても、特に凶悪事件の場合は、正直やはり、死刑存続やむを得まいか、という心境にもなるし、第一には、なるべく、遺族の気持ちを尊重すべきとは思っている。
しかし、
厳然たる現実という視点では、
どうやっても、ひとたび失われた被害者の命は、もう帰って来ない。
ある面、人工授精だとかAIDとかいう手段においても明らかに見られるように、
つまるところ、産前であろうと死後であろうと、この世に存在していない者の意思確認は不可能だということ。
この世は、生きている者が中心だということ。
したがって、残るは、遺族と第三者とを問わず、ほぼ懲罰感情のみである。
だが、
いったい「第三者」とは、
その得ている「情報」は、如何なるものに依っているのだろうか?
はたして、
「第三者」は、正しいか。
「第三者」とは何者か。
過去の歴史のなかでも、ことに、戦争という最大凶悪事象の前後を見れば、
あるいは、
いまどきなら、最も容易に見られるのは、さしづめ、ネットで、コメント投稿に付けられた賛否の数を競うボタンだ。
商売人に踊らされているのか、商売人と持ちつ持たれつなのかは知らないが、
「第三者」という一般大衆が正しいのかどうかは、はなはだ怪しいものだということは、権力者の「暴走」に対する警戒や危惧と同様に、頭の片隅にでも常に、わきまえておかねばならないことの一つだろう。
ましてや、一応にせよ、「主権者」は国民だとされている。
死刑の責任であれ、原発の責任であれ、結局は、現在生きている国民が持つ。
しかし、私個人は、原発や自民党政権を支持してきた覚えは全くないw
親の不注意が伴った障碍を、自分で望んだ覚えも一切ないww
「責任」って、
「自己責任」って、何なのか。
仮に「人間の心を持たない加害者」、どのように凶悪と見える犯罪者でも、この世の社会に産み落としたのは人間であり、
それを許しているのは、大自然である。
ヒトと言えど、大自然を凌駕できることは ない。
せいぜい、僅かに隙間を拵えて、息を繋ぎつつ、大自然を凌駕できそうな気分を楽しむが関の山、その程度の分際だ。
それこそ、「ネトうよ」的言いかたを真似るなら、
「気に入らないなら、この世から出て行け」
としか言いようがないw
(続く)