2014.12.27 (Sat)
さぞかし、耳が痛かろ。w
いや、
およそ反省心というものを かなぐり捨ててこその「カルト連」なのであるから、まさに馬耳東風なんだろうなあwやれやれ(嗤い)
『理研「STAP細胞はES細胞の混入」』
2014年12月26日 12時18分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141226/k10014301221000.html
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科学の基本は、有名になりたいからとかノーベル賞を取りたいからということではなく、自然の謎を解く喜びと、社会的責任をどう果たすのか、その2つが重要だ」と述べ、科学の原点に立ち返ることの重要性を訴えました。
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(文字強調はブログ主による)
だいぶ前に、「ヤフコメ」で見かけたときには、これは、また全然別のアカウントだけど、
恐らく、あの連中のうちのアイツだなwと、すぐに察しが ついた投稿で、あたかも、この私を して、小保方嬢に 擬えているかのようなカン違いと願望系なセリフを吐いてたが、
んじゃあ、
亡き笹井氏を誰ぞに擬えて、二人がデキてたの なんのと言いたいわけかぁ?と呆れ、
その後、うちのエントリー内で、
「そもそも、わけワカメ『実験』なんぞを やっておったとシャアシャア宣言したのは、あいつらのほうなのだし
(私はと言うと、それこそ、実験台にされていたと聞かされたのだからw)」と、
むしろ、あのオババさまこそは、おボボ、もとい、小保方嬢、
(なんせ「ボス」せんせいとのあいだに、まだ幼い子供もいると言うオバボさまだwもちろん、お得意の遠回しにネww)
するってえと、
胃袋のセンセイは、こりゃまさしく笹井氏ということでピッタシじゃねえかよ、
といった指摘を してみたところ、とたんにパッタリ、言わなくなったなー(爆)
なんだ?やっぱ図星だったのかねえwあるいは?ww
最近では、やたら「赦せ、赦しなさい」と のたまう者が出没しとるがな(爆(爆)
もちろん、
まじな話、小保方さんの「科学者」としての点では残念ながら、はっきり言って、しろうとに毛が生えた程度のことだったのだろうけれども、
(て言うか、あの、小学生なみのポエム「実験」ノートには、さすがに、
あーた、ちゃんと仕事してましたか?と問いただしたくなった 爆)
しかし、
彼ら実物の容姿にしても経歴、能力にしても、かの御両人の足下にすら遠く、とうてい及ぶものでは なかろう。特に、笹井氏のキャリアや能力にはね。雲泥の差とか月とスッポンどころの話でないよ(嗤)
最近の「ヤフコメ」でも相変わらずで、多重アカウント同時出没、このことについても以前から、私が指摘しておいたように、
罵倒し合ってる投稿者どうしと、傍目には、そのように見える場合でさえも、実は自作自演、または八百長、
そんなふうの やり取りを繰り返しているところを見ていると、
渦中の小保方嬢ではないけれど、たしかに、何かが決定的に欠けているのかしらんとさえ思えてくる。
まあ、私個人的にも、よりによって家族のなかに、ある種と言うか一側面において、
決定的に何か(それは多分、「良心」と呼ぶもの)が欠けているとしか考えられない者がいる(いた)ので、実際、こうした類の存在も、世にあること自体には、それほどの驚きは なかった。
うちの身内も そうであったように、
要するに「良心」の欠如と言っても、
そのもとを ただせば、素朴な「自己保身」に発す、人生最初の出発点と同じくで、最後の最後は、やっぱり、自分が一番可愛い、ということに他ならないだけ。
特には「自己愛性人格障害」についても言えることだと思うが、
もとは「普通」と言うべき俗的価値観なのであって、いたって素朴なものである。
だからこそ、あのテのひとたちには往々、他人の示したところを、まるで自分のもののようにパクリつつ、自分は「アーティスト」だの「芸術家」だのを標榜したがり、いかに「ひらめき」や「天啓」に恵まれた「天才気質」であることかとアピールしたがる。
そこまでラッパでない場合でも、
いかに「個性的」であるかを喧伝し、
もっと控えめには、「変人」アピールを、やたら したがるという、みょうな癖がある。
これらも、もう何年も前から指摘してきたことだ。
ただ、血縁であろうと、あかの他人であろうと、誰かしら他者というものを巻き添えにしてでも、と言うか、
巻き添えにしたほうが、自分にとって、だんぜん有利と考えたら最後、
それを利用することで、おのれの保身や自己保全の最大強化へと向かって突っ走るから、問題が大きくなり、やがて他者からの怨みをも積もらせ、
「愛が、悟りが、赦しが大事」
てな臭いことを演説しつつも、収拾が つかなくなるほどまで事態を紛糾させるのである。
そして、なお困ったことに、
はなっから、おのれで焚きつけておいて、広げるだけ広げた それらを、どうする能力も、生来、備わってなど いないのだ。
もともとが、大いに他者利用のうえでのことだったのだから、本人持ち前の才能や実力が乏しいとしても、なんのフシギは ない。
必要もない所に広げきった大風呂敷を畳む すべさえ知らず、広げるだけ広げてしまい、
さらに、そのうえ、ありとあらゆる塵芥をもカオス状態さながら、これでもか、とゴッチャリ盛り上げて載せてしまっているのだから、
これは もう、
時、年数が費やされてしまっているほどに、その時間の積み重なり即、罪の重なりとイコールになってしまっている。
取り返しが つかない。
だから、あとは もう、とことん開き直るしかないという必然の なりゆき。
よりいっそう目も耳も塞ぎ、心も閉じて、ただ一心不乱に念仏を唱えるがごとく信念と確信を装い、同じ愚かな所業を延々と繰り返していくしかないだろう。
うちの身内らは、そうやっているうちに、人生の最期を迎えた。
すべてを見通し、見透かしている私に、それでも なお、見捨てられなかった者もいるし、
最後は放っておかれたままになった者もいる。
そこでの私の判断基準としては、
その者と私との関係性において、それこそ、「掛け替え」が なかったか どうか、
私に見捨てられてしまったら、もう誰一人もいないのと同様の境遇にしてしまうか どうなのか。
優しいw私は何だかんだ言って、相手が、どんなに虚勢を張っていても、私以外に縋る者、頼む者が ないと知っていれば、自分自身の つごうは二の次にして結局、相手を見捨てることが よう できないのだが、
一方で、私の代替存在になり得る対象が一切ないというわけでは なかろうと判断した相手には、「掛け替えのなさ」は ないものと判断した。
もとより、その者は、むかしから裏切りにつぐ裏切りを好む性質であったし、
私自身にとっても「掛け替えのなさ」など、ほぼ全く、感じなかった。
それでも、ずいぶんと、逆恨みも誤解も侮辱も受けてしまったが。
個人間でも、企業、国家間においてさえも同様だが、
誰であれ他者を利用することで、旨みのある何ごとかを自分だけが入手することについて常に脳内が満タンになっている者は、相手を疲弊させ尽くす。
たちまち、あたりの空気を強張らせ濁らせ、風は荒れるか停止し、水は流れなくなり、よどみ、やがて、気づかぬうちに、地を腐敗させる。
私は、自分の人生で目の当たりにしてきたが、
誰も幸せになることは ない、
あべこべ手品の如く巧妙に何かと摩り替え続けているうちに、
他者の人生の妨害を はたらいているという自覚も、頭の外へと追い出し、
ついには全ての崩壊に導く。
これが、硬いゆえ脆くもある鎧を纏った脆弱な自己保全・保身の究極の姿と、その世界(ディストピア)。