2016.03.29 (Tue)
●。 ・ ○。 。●。 ・○。 ・ ●。 ・○。 。●。 ・ ○。
私は、「ブルコメ」メンバーの誰が誰だかは、よく知らないんだけども、
小学2年生頃の夏休み中、ませガキと言うのかオシャレだったw私は、叔母に おねだりして買ってもらった、子ども用サングラスを掛け、白いレース襟が付いたプリンセス ラインの紺色ノースリーブ ワンピースという、赤坂プリンス ホテル付属プールを目的にするときの定番ファッション(水着に着替え易いという理由から)にて遊びに行っていて、
ある日、いつものように、オープンエアのレストランで軽食を とっている時、叔母が、
「ほら、あそこ、ブルー コメッツの○○さんが来てる」
と囁いたので、サングラス越しに そちらを見ると、
たしかに、テレビで見慣れた感じのオジサンが、リラックスした短パン姿で、綺麗な若い女性と一緒に、テーブルに ついていた。
旧ブログでは、「赤プリ」が取り壊しになったという記事を見て、懐かしい ここのプールでの思い出話を書いておいたこともあった。
私が子どもの頃の赤プリには、広大な敷地内に、小児用のものを含めた大小のプール、生演奏用ステージやオープンエア式レストラン等も併設されていて、テレビ番組のイベントなんかにも使われていたようだが、
咲き乱れる季節の花々の合間合間に設えられたミニ噴水が吹き上げるさま、いまでも、目に浮かぶほど、とにかくゴージャスで華やかだった。
あの頃のオトナたちと日本は、元気ハツラツだったなあ。
●。 ・ ○。 。●。 ・○。 ・ ●。 ・○。 。●。 ・ ○。
【旧ブログの記録より】
ブルーコメッツの『ブルーシャトウ』 2010/11/13 02:21
「森と泉に囲まれて…」を、
「もりとンカツ、いずみにンニク、かこンニャク、まれてンプラ」
にしてしまった替え歌は、一定の世代から上なら、つとに知られているかと思うが(私なんか、本歌よりも替え歌のほうを覚え込んでしまっていて、歌うときも、つい、替え歌のほう;^^)
「ブルーシャトウ」を「ボロシャツ」で締めたのは、あまりにも、あまりにも傑作過ぎる。
最近、youtubeで、アルバート・ハモンド『カリフォルニアの青い空』を聴いて、
そこへ投稿されていたコメントの一つが目に入り、
ああ、そうだった、と思い出したのが、
マチャアキの『さらば恋人』。
さよならと書いた手紙テーブルの上に置いたよ…
http://www.fukuchan.ac/music/j-folk2/sarabakoibito.html
(楽音が出ます、ご注意を)
なかなかの名曲だったが、
『カリフォルニアの青い空』を知ったほうが、もっと、ずっと後のことだったので、気がつかなかったと言うか、全く知らなかった。
『さらば恋人』も、私が小学生時分のクラスの男子どもが、早速、替え歌で歌っていたことを思い出したのである。
♪悪いのは、ぼくのほうさ 君じゃない。。。
というのを、
♪悪いのは、キミのほうさ、ボクじゃない
に変えて。。。
ムードぶち壊しだぜ
カテゴリ: エンタメ > 音楽
2016.03.20 (Sun)
『日本人の好色度w』の続き。
この、「日本美術に詳しい作家・編集者の橋本さん」によると、
春画では夫婦の房事の横に子供が描かれていることが少なくない。
当時としては当たり前の家庭生活の一コマだったからだ、という。
それも、一概には、どうでしょうか。
私は、その方面の専門知識も教養もないし、そういった「春画」にも疎いけど、
日本人の「湿った」傾向性からして、夫婦の営みの姿の横に、あどけない子どもの姿を置いてみせるということの、敢えての淫靡な趣向が あるかもしれないなと思うのw
もちろん、昔の日本の庶民ともなれば、それこそプライバシーも へったくれもない生活だったろうから、現実として、そういう場面が日常だったとは考えられるが、
だいたい、絵画でも文学においても、極度の対比ぶりを描いたり、あるいは また、時の流れの容赦ない移り変わりの さまを、一幅の画布、一つの作品のなかにて一気呵成に描くという芸術手法はオーソドックスと言っていいほど多く用いられているのではないだろうか。
もっとも、その昔の日本は、男女混浴がアタリマエの時代だったそうだし、強風に煽られた着物の裾が巻き上げられて、女性の下半身まる見えでも平気だったとも聞く。
人前で、おっぱい剥き出しに授乳も何ら憚ることがなかったのは、私の乳児時代までは、うちの母もそうだったようだ。
私自身も、幼い頃には、まだ、そういう母子の光景を見かけることも珍しくなかったのに、気づけば、いまではトンと見なくなった。
けれど、あるとき、私を連れて、東京に向かっていた列車のなかで、
たまたま、その列車というのが、特大に設けられた展望型窓に向いて、各座席が並んでいるという、当時最新式の特別仕様車だったのだそうだが、
母も、最前列にて、そういう座席の一つに腰掛け、私に授乳していたところ、途中の停車駅に着き、ホームに鈴なりになっていた男性たちの視線が一斉に向かってきて、その痛いほどの凝視に慌てて、授乳を一旦中止したとことがあったと、苦笑しながら言っていた。
うちの母親って、なにしろ、超グラマーだったせいもあるだろうけどw
ある作家の時代小説では、江戸期、大地震のおり、被災した民衆を泊めた寺の本堂等で雑魚寝している男女の見知らぬどうしが、周囲の者たちに聞かれるのも憚らず、といった描写もあった。歴史的にも事実なのかどうか、私には知る由もないが。
いったいに、日本人の、性的なことがらへの感覚は、淫靡な傾向のものなのか、いたって開放的なのか、日本の場合は、ある時代を境にガラリと様相や感覚を変えているようなところがあるせいなのだろうか、
こんにちとなって、現代日本人にとっては、些か、判断が難しい気も する。
ところで、むかし、ある雑誌か何かで読んだには、
どこかの熱帯地域の国では、暑いゆえ、屋根と柱だけの家屋に住んでいるので、家のなか まる見え、なので、夫婦の性的営みも まる見え、
その家の子が、自分ちの父ちゃん母ちゃんが真昼間から、気の向くままにイタシているのを見て、指さして笑い、当の夫婦も上下で苦笑しつつ、さりとて、動きを止めるでもなく、笑いながらイタシ続けているんだとw
その旅行記を書いたライターさんは、ユーモアたっぷりに表現していた。
幼い頃からマンガ大好き、自分でも、将来の希望職業の一つが漫画家だったくらいなので、あれこれ思うところは少なくなく、
思い起こせば、私が小学校の時分だったと記憶しているが、
竹宮恵子さんがデビューした頃、初めて、彼女の作品を目にしたとき、
その絵柄からして、それまでにない画期性を感じ、胸トキメキながら読んでみて、
「とうとう出たー!!」
って思ったのを、いまだに鮮やかに憶えている。
これと同様のヨロコビは、あの萩尾望都さんにも感じた。
このセンセイたち、いずれ大物になっていかれるんだろうなあと、まじで子ども心に思ったものだ。
私にとっての「バイブル」みたいな、大島弓子さんの諸作品も、このトシになっても手離せず、いまでも、ときに落ち込んで辛いおりなど特に、読むと少しは気持ちが上向きになるのだから、大したもんだと思っている。
ほんと、「少女マンガ」というジャンルが、日本以外にもあるのかは知らないが、少なくとも日本のそれは、ヘタな小説なんかよりも考えさせられるし、文学的・哲学的要素が濃厚なのだ。
つまり、それらは、「ポルノ」を目的にして描かれたのでは断じて、ないということ。
実際、竹宮さんたちの作品中の性的描写場面といえども、淫猥さの類を感じたことは、ついぞ、ない。
くだんの『風と木の詩.』連載時は、欠かさず読んでいたわけでなく、いまでも印象に残っていてハッキリ思い出せるのは、連載も本当に最終場面のみだが、
ひとえに、純愛を描いたものだったなあと思う。
「物語を伝えるために、なぜ9歳の幼い少年に対する性暴力など、読んでいて辛い描写が必要だったのか」
それはね、
痛々しいかぎりのレイプ シーンであろうと、それら全ては、ジルベールとセルジュの至高の純愛へと収斂させていくためのものだから。私には、そのように思えた。
だが、
まさに「ポルノ」でしかない、そのものを目的に描いたものは、やはり、毒々しいイヤラシサ、後口の悪さしか残らないのだよ。
その差は断然、大きい。
この問題について、日本では意見が割れている。表現の自由保護を何より重視する人もいる。優れた作品と、下品でわいせつなものに過ぎないと思うものとの間に、線を引く人もいる。特に関心のない人たちもいる。国民的合意はできていない。
加藤祐子記者さん、論じるべき核心は、おそらく、そのあたりなのでしょうね。
下記の部分については、どうかなあ?
「意見が割れる理由のひとつに、欧米と日本の微妙な感覚の差があるかもしれない。日本では人気商品から人気音楽に至るまで、「かわいい」の価値観が大衆文化に浸透している。このため幼い子供の姿の描写について、日本人は欧米人のようには神経質ではないのだという見方もできるかもしれない。
欧米圏の人々の価値観は、「マチュア」とか成熟さというものに求められるのが伝統的だと聞いたことはある。
ただ、若さや可愛らしさというものは、いかにマチュアや成熟度に重きを置く西欧圏文化と言えども、やはり、好ましいものには違いないのだろう。
特に性的対象に対しては、多くの、特に男性が求める傾向として、大きく本音であり一般的なパターンだろう。
でも、少なくとも現代の日本って、「おこちゃま」趣味が大いにハバきかせてる風潮だもんね。やすっぽくてゲンナリするほどに。
なるほど、たしかに、「カワイイ」という薄い砂糖衣というのか甘い味付きオブラートとでもいうのか、そういうものに一旦、くるんで誤魔化してしまえば、本来なら、多少の醜悪さゆえに嫌悪を催させるはずのものを含んでいても、なんとなくのうちに呑み込んで受容できそうな気もしないではない。
そういった現象にも、心理的に、なにがしか複雑さは潜んでいるんだろうなとは思うんだけども、
とりあえず「カワイイ」という紗の衣に くるんでしまうことで、積極的受容・許容が できているのだという、一種の錯覚を起こして、苦痛の軽減技術としているのかもしれない。
少女マンガで描かれる少年愛ジャンル、なかなかに屈折を孕んで興味深い心理が あるのだろうがw
いまどきの男性が、いいトシになっても卒業できない向きが多いらしい、アニメやゲーム等の「二次元キャラ」で描かれる、顔は童女で、からだはグラマー、みたいな極端なのも、どこまでいっても、それぞれの お好みで見果てぬ理想世界であり、ファンタジーなのだろう。
でも、童女顔のグラマーというパターンは、いまに始まったものではなく、昔から男性の理想の定番に入っているやね。もちろん、現実には、そうそう そこらに見つかるタイプでもないし。
童女が、セックス、しかも、大の男との それを、好むはずもないのは自然の摂理としてもアタリマエなのだが、
しかし、少なくないであろう男どもにとっては、自分とのセックスを悦んで受け入れてくれる、しかも無垢で無邪気にして無抵抗な童女、
という非実在が、なんとかして実在にならんものかという願望が隠せないのも、一部では事実だろうw
このことは、私自身の経験もあるので、憶測で言うのではない。
これは、男女に かかわらずかもしれないのだが、
あまりに無防備・無抵抗で柔弱な者を、どういうわけだか憎み、徹底的に蹂躙したいという陰湿な欲求は あるかもしれない。
これまでにも指摘したことがあるが、
サディズムとマゾヒズムは背中合わせの一体である。
2016.03.20 (Sun)
けっこう昔から、国際的に知られていたようだけどもww
男性だけでなく、実は、大和撫子までもが!(アワワ)![]()
そして、全体として、健全な自信に乏しいことも、いよいよ国際的に有名になってきたのかねえ?(苦笑)
『国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた』
BBC News 3月16日(水)10時54分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160316-35742160-bbc-int
「非実在」
「現実にそういうことが起きるから」
「実際にそういう目に遭っている人が、私の漫画を読んで自分だけではないんだと、自分は独りではないと知り、この作品が私を救ってくれると書いてきた」
え?えっ??あれれー
w
っと、
まずは、この記事全体を読んでみて、そのムジュンぶり あらわなることに失笑してしまった部分から入りましたww
このテの問題ねー、旧のブログでも、かなり真剣になって、長文で論じたことはあるんだけど、
例によって、当時のログ記録を探し出すのが、どうにもメンドクサいので、いま思いつくことだけを述べるとするわ。
ブログってのも、むなしいねえ。
いっしょうけんめい書いておいても、いつ消滅するやら分かったもんじゃないし、それでいて、いつまでも消え難いデマの類は跋扈し続けるし。
【以下、当該記事抜粋部分の文字強調等は、当ブログ主による。】
「何でも自由に表現したいなら、個人的なアートとして地下でやればいい。しかし漫画には常に読者がいる。作家はそこの誰に向けて何を描いているのか、意識すべき。国連に言われるからとかの問題ではなく、作家の良心と創造性の問題だ」
上記の、真崎春望さんなる漫画家さんの御意見と、私の考えとは、比較的に近いんだろうと思う。
けれども、
参議院の山田太郎議員も同様に、国連の批判を批判する。
「非実在児童に対する描写は、具体的に誰かの人権を侵害しているとは思えない。それを見て不快になる人の人権を侵害するというなら、その人が訴える権利や制度を整備すればいい。しかしどういう影響を与えるか分からない表現を、法律という強い権力で、元から取り締まってはいけない。誰かが傷つくかもしれない、誰かが差別されるかもしれないという可能性を取り締まってはならない。規制はどんどん拡大解釈されていくものだ」
しかしねぇ、山田さん。
私は、旧のブログで論じたときにも指摘しておいたのだが、
様々な、特に性犯罪について報じられるところを見るに、
男性は、女性以上に、視覚からの刺激を強く受け易く、性犯罪トリガーとなる傾向性ということは事実なのではないかということ。
ただ、「拡大解釈」の懸念については、それは理解できるのだけど。
難しいところです。
さて、
「児童ポルノ」といった、このような表現の問題と、
いわゆる「ヘイト スピーチ」問題との共通性は あるよね。
「非実在」とは何のことか?
その「非実在」なる存在は、では、何によって生み出されてきたのか。
現実と無関係な「非実在」なんてものが あり得るのか。
実在する個々人の特定には ならないのだが、一応そうではあるのだが、
「児童」なら児童という層の実在は あるはずだ。
「児童」と呼ばれる層あるいは また「在日」と呼ばれる層の存在は、
では、架空存在なのか?
たとえば、柳 美里さんの『石に泳ぐ』ナントカいう作品あたりにも指摘できる問題のようだが、
仮に、
私自身の現実に抱えている障碍と同じ種類の障碍者を対象に据えて、それが、「個人特定」とは次元の違う「非実在」では あっても、
侮蔑や排斥のための対象に描かれていたならば、非常に不愉快に違いないことは断言できる。
グサッと突き刺さる感覚によって、自己の内部が傷つけられたのを実感する人もいるだろう。
また、こうしたことによる、世間への悪しき影響力も、無視できない現象として実際に起こっているゆえの懸念も大きい。
ただし、その描写の真の目的によるだろう。
先日の『お弁当の想ひ出』というエントリーで取りあげた、ネット記事にて、「祖母の拵えてくれた弁当を食べずに捨てていた」という描写について非難轟々のコメントが付いていたのも見たが、
この極端なシチュエーションを敢えて描いた作者さんも、真の目的を描くためにこそ、こうした場面を強調設定したのだろうことは、私にも理解できる。(個人的には、読む気も必要性も全く感じないが。)
作家・編集者の橋本麻里さんというかたは、下記のように述べておいでだ。
「実在の児童に対する性的搾取、性的虐待についてはもちろん、許されるものではありません。大前提として、そうした事態を解決するための取り組みには、今後いっそう注力していくべきだと~(略)~しかしそれが『児童ポルノを含む漫画を禁止すべき』かどうかという、非実在の児童をめぐる表現の問題となった場合、責任ある判断のできる年齢に達した成人で、かつその表現を許容する人の間でのみ流通するのであれば、一律に禁止すべき理由はない、~表現について、一定のゾーニングや年齢制限などを社会的合意の下に明文化して課し、その枠の中で自由に表現することを許容する国であってほしいと~」
はたして、そんなこと、実現可能でしょうかね?
現に、当該記事も、少女マンガつまり概ねは子どもの年齢で読むマンガをして、この問題の第一舞台として挙げている。
「実在」だの「非実在」だの、はたまた「一定のゾーニングや年齢制限」だのって、
こうしたことは、さしづめ、インターネットの問題とも共通してることだけど、
世のなかの実態として、
「責任ある判断のできる年齢に達した」のが成人ばかりではない。
それどころか、
責任ある判断のできる年齢に達した成人であるはずの者が実際、児童買春を行なったりもしているわけで。
【続く】
2016.03.17 (Thu)
『祖母の手作り弁当をトイレに捨てる孫…葛藤描いた無料漫画の結末に涙 「良い祖母と孫の話」作者に聞く』
withnews 3月8日(火)7時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160308-00000001-withnews-sci
例の「汚気・愚(OKウェイヴ・おしえてgoo)」に参加してた頃のこと、
これまた例の「カルト連」の誰やらが、私にヘンな絡みつきかたしてきたときに、何かの話(これも多分、連中おとくい毎度の作り話だろう、あまりにも私に対する遠回しの当てつけが臭過ぎて、すぐに気づいたよw) で、
やっぱり、
「弁当を捨てていた」
ウンヌンという話を持ち出してきて、
何やら家族への不満ゆえに、そうしていたとかいうコジツケめいた理由付けしていた。
さて、うちの母親と、腹違いの姉と兄と私の場合。
私の小学校では完全給食になっていたので、中学からが、 お弁当持参を基本ということになってた。
中学校は、兄らも出た学校なので、三人とも同様の経験を したわけで、それだけに、三者三様の違いが明確に言えてくる。
兄の場合。
これは、むかし、ふとしたおりに思い出して、母に聞いてみた話なんだけど、
とにかく、お弁当の なかみの表面全体にビッシリと何かを敷き詰める、というスタイルを定番で通したのだそうな。
なぜって、兄が、それを大いに好んだから。
と言うのは、
乳幼児期の記憶が やけに鮮明な私、いまでも憶えているシーンの一つに、こういうことが あった。
うちは、父母の年齢差が大きいほうなせいか、私と、上の きょうだいとの年齢差も大きい。
ある日、いつものように兄たちがテンヤワンヤで登校に出払ったあと、
まだ幼稚園にも行っていなかった私が、急に静かになった台所でウロチョロしていて、冷蔵庫の上に乗せてある(この当時まだ、「ツードア」でもない、丈の低い冷蔵庫の時代だったから、年齢のわりに大柄だった私には、見つけることが できたのだろう)銀色に光っている四角い箱を見て、家のなかで二人きりになった母に、あれは何?と尋ねたのだと思う。
そして、お兄ちゃんが置き忘れて行った弁当だよと聞いて、では、自分が食べてもいいかと重ねて尋ね、母が許可したのだと思う。
それは大きな弁当箱だった。
まだ湯気の滴りと微かに温もり残る蓋を開けてみると、幼い私の目に真っ先に飛び込んできた鮮やかな緑の絨毯。
ピーマンだった。
御飯の水分と相俟って、かなり柔らかくなったピーマンが集団で、くたりと並んで寝そべっていた。
それぞれ半分ほどに切ったやつを一枚ずつ、焼き飯か何か味付け御飯の上に、瓦葺の如くギッシリと載せ並べてあったのだ。このパターンで、海苔でも何でもビッシリのせてやると、兄は大満足する、というのが、母の説明だった(笑)
この日に、私は、生まれて初めて、ピーマンの味を知った。
なぜ、初めてだったと分かるかというと、その苦みに驚いた記憶が あるからだ。
幼い舌には、戸惑うほどの苦みの洗礼だったのだろう。
結局、それでも、ピーマンを全て食べおおせたのか、それとも、ピーマンを除けて
(これも、母に呆れ笑われながら聞かされた話のように、稲荷寿司の甘く煮つけたシャッポ部分だけを次々に取って食べてしまっていたのとは逆に)、その下に隠れた御飯だけ食べたのかは、もう忘れてしまっているが、
ともあれ、中学生になる頃には、ピーマンも大好物の一つになっていた。
一説に、飲食物の苦みを理解し好んで受容できるようになったら、大人の舌になった、ということなのだそうな。
人参も好きだったので、子どもの頃、おとなたちに感心され褒められたのだが、
あるとき、親しくしていたクラスメートに、そのことを言うと、
「うちの おとうさんは、ニンジンが好きな人はスケベな人、って言ってたよぉ」
と、真顔で告げられて困惑。
これを、夕食時、私の親らに言ったところ、父が激怒したことも あったw
閑話休題。
ま、要するに、私は、お野菜全般が大好き。
パセリ等も好きで、サンドイッチの飾り付けに添えられてるものまで食べちゃうことも。
なので、前世は青虫だったに違いないと、このことを、旧ブログで書いたことが ある。
【旧ブログの記録より】
木の芽、セリ、パセリ、バジリコ 2012/04/15 20:06
紫蘇も。
これらは、前世、青虫の類だったに違いないと思える
(「はらぺこ あおむし」か?笑)
私の好物の一つなのだが、その他ハーブ類、山菜類も大好きな私。
きょう、スーパーマーケットで、たまたま見かけたバジリコの みずみずしさに ひかれて、つい買い物かごへ。
すると、トマトも欲しくなり、お誂え向きに、安くて新鮮なトマトが。
その横には、見るからに出来の良いブロッコリーが。
そのまた横の胡瓜が、これまた新鮮、安い。
ここのスーパーでは、ふだんは、あまり、野菜類には手が伸びにくいのだけど、何かの気まぐれみたいに、がぜん、新鮮なものが入荷している日が あるのだが、きょうは、たまたま、そういう日に当たっていたのか。
で、おいしそうな薄切りサーモンのパックも お買い得価格だったので、これも お買い得価格のクリームチーズと共に、かごへ。
こりゃあ、今夜は、ワインだよなあ。。。と思いつつ。
めったに飲まないんだけどねー。
せっかくだから新鮮なうちに少しでも食べちゃおと思って、帰宅後まずは、トマトとバジリコとチーズその他でサンドイッチにして、遅めの昼食。
残してあるバジリコの香り、お台所の外にも漂ってきてる。すごい。
胡瓜を切ったときも、あたりの空気が、たちまち爽やかになったのが分かる。すごいわ。
でも、サンドイッチのボリュームがあり過ぎたのか、まだ おなか すかない。。。(苦笑)
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Margetson(1861-1940)The lady of the house
【続く】
2016.03.12 (Sat)
哲学そのものでは なくて哲学史、みたいな むなしさもチラリw
さて置き、もともと、心理学の源流は哲学だそうですよ。
『人々を惹きつけるアドラー心理学 原因ではなく目的を考える』
NEWS ポストセブン 3月11日(金)7時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160311-00000005-pseven-soci
フロイトは、私10代の頃に一読して、お世辞にも科学的とは言えない面が多々あるのを、すぐさま感じたので、あくまで読物として興味深い位置付けに留めておき、ついぞ重視したことまでは ない。
心理学が、ヘタすると「作文」呼ばわりされることの危惧をも感じさせられるからだ。
まあ、何と言っても、フロンティア的第一人者なので、仕方ない面は あろう。
どこかで読んだには、
ある日本人の学者が、生前の彼に会ったことがあるそうだが、フロイトは人種差別意識が激烈だったそうな。
アドラー自体は未読だけど、この記事の、いかにも通俗的解説を読んだかぎりでは、実際的効果のほうを重視していることは分かる。
いったん横に置いといて、いま やるべきことに集中しようというプラグマティックな感じが するね。
仏教の始祖、それこそ、心理学の本当の始祖と呼んでも良さそうな釈迦の唱えた説に共通した感じもする。
世間でいう「毒親」、こういう親との距離感が保ち難い人なども、参考にしたら いいかも。
とは言え、
自分の親が「毒親」の類だということに気づくことからして、なかなか困難なのだけれど。
本当に深刻な場合ほど、そうなりがちだ。一種の洗脳状態だからね。
さて、
~“大声を出して相手を支配しようとする”~
だから、
なぜ、大声出してまで支配しようとするのか?
ってことよw
支配することで、ある程度なだめられるところの起因や原因があるからでしょうに?
例として挙げている「部下を叱る」ことにも、原因と目的があるわけでしょ。
ただ叱るために叱るのか?wそうかもだけどww
そういえば、
「泣くから悲しいのだ」
という説もあるね。
ということは、
腹を立てるから怒るわけかw
いや、腹を立てるために怒る?ww
もっと言えば、
おなかが すくから、すいたから食べる、のではなく、
食べるから、おなかが すくのか。
なんだか、そんな気もしないではないような気が してきたがw
ま、すべては、ひとえに、可愛い自分(あるいは自分に繋がるもの)を守り保持しようとすることに源が あるのだろう。
では、
なぜ、自分が可愛いのか、思わずして守ろうとすることの根拠はと問われても、これが意外なことに、謎だ。
(直接的には、種々の苦痛から逃れようとすることにあるだろうが。メカニズム的な機能保全と根底で結び付いているように思う。)
ふと思った。
よく、刑罰が、犯罪予防になるか否かということが議論のタネにもなるけれど、
実際、死刑を目的にして、殺人事件を犯したという者もいるには いた。
となると結局、殺人を防ぐことは できなかったどころか、皮肉にも、むしろ助長したことになってしまう。
だが、結局は同じこと。
アドラーが唱えた「目的ありき」説も、それ自体で原因ということになるのだから。
そもそも、殺人を犯してまでも死刑になりたいと望むに至った起因・原因のほうを、やはり突き止めるべきなのだ。
原因を突き止めていくことの、それこそ目的は、やはり、予防や別の道を考えているからだ。
ちなみに、
三木 清は、感情こそは社会化されたもの、というアッパレな看破を遺しておられる。