2016.10.30 (Sun)
最近のエントリーで、ビリー・アイドルにハマってるっていうことで、動画を紹介したけど。。。
『“Les yeux sans visage-eyes without a face”』(←そのエントリー)
“Eyes Without A Face (live@saint vincent estate”
今度は、スティーヴにハマっちゃいまして(笑)
あまりにもカッコイイ演奏ぶりなので、
ほんとに弾いてるの~?って、疑いたくなるくらいw
“Steve Stevens - Atomic Playboys”![]()
寝っ転がって足バタバタしながら弾いてるよぉ、器用だなあ(笑)
しかし、凄い速弾きだねー。
これって、子どもの頃から覚えのある誰かに似てるような……??
と感じていて、
思い当たったのが、これだす↓
『宮川左近ショウ』
なんと、私は、今ごろになって知ったんだけど、
上掲のエントリーをアップした、ちょうど1年後の去年2015年5月29日に、暁 照雄さん、亡くなられてたんだ。。。(茫然)
お弟子さんと組んでの晩年の舞台を動画で見てたから、ちょっと やつれてはるのは、さすがに年齢のせいなのかなあと思ったけど、そのぶん、若い頃の見るからにシャープさの代わりに、円熟した優しい雰囲気になっておられて。
78歳になられてたんだ。
でも、やっぱり、若く見えてたんだね。なかなか男前だったでしょ。
照雄師匠も、以前から、誰かに似てるなあと思ってて、今、思い当たったのは、、、
ダリル・ホールだよ!(笑)
うちの母親も、トシいってから始めた お三味線やらを教えてたんだけど、それ以前から、暁師匠の芸をテレビで見るたびに、
「子どもの頃に お稽古 始めて馴染んでるやろから、こうも やすやす、という感じで弾けるんやなぁ。三味線が、まさに、体の一部みたいや」
と感心してた。
ピックで弾いてるところが前代未聞級だろうけど、普通に撥を使っても、やっぱり名手だったでしょうね。
この3人のなかでギター担当の故 松島一夫さんは、うちの親の知人たちのなかでも、私が幼い頃、とっても可愛がってくれたうちの一人に、特に雰囲気が よく似ているのです。同じ九州出身のせいか、話し方も似てた。
私が小学生の頃、交通事故で、残念なことに亡くなられたけど、子ども心に大好きなオッチャンだったので、記憶は今でもハッキリしてる。
見るたびに、そのオッチャンを思い出すので、よけい懐かしいのだ。
ちなみに、この松島さんが弾いているギターってのは、ようつべのコメントで見かけたんだけど、ちと珍しい種類のものなんだそうです。そう言われれば、いまどきは、ほとんど見かけないようではある。。。
なぜか、スティーヴ・スティーヴンスの話が、宮川左近ショウで終わっちゃった
Steve Stevens“Water on Ares”
2016.10.30 (Sun)
『ボブ・ディラン氏、ついに沈黙破る ノーベル賞受賞「素晴らしい」』
AFP=時事 10/29(土) 6:34配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161029-00000003-jij_afp-int
はははw
いやぁ、私自身、何事にもカメで めんどくさがりなので、人さまのことは言えんかったのだが、
ディランの「ノーベル賞」授与決定後から取り沙汰されて、いろんな意見や憶測や記事を読んでいて、少し思い出したこともある。
まず最初に思い出したのは、旧ブログのときに、ある記事で、ディランが、今度は、絵を描き始めたというのね。その絵が、世界的有名人の手になるだけあって、高額になったとか。
そのキッカケというのが、ある所で、ある女性に、彼が何気なく描いた絵を、とても褒められて、あなたには、きっと、そっちの才もありますよ、とかいうふうに言われたかららしいの。
それで、ディラン、すっかり その気になっちゃって、まじで描いてみた絵が、かなりの高額で値が付いたと、
詳しくは記憶してないんだけど、たぶん、そういう話題だったと思う。
それで、当時、私も反応して、エントリーをアップして、
ディランって人は、そのトシで、押しも押されもしない大スターなのに、やっぱり、いつまでも どこか少年っぽいのかな、褒められたら、がぜん、その気になるって、ある意味、子どもっぽいと言うか、単純素直な人なんだなあ、高齢になってもチャレンジ精神が旺盛なのは さすがだね、ってなことを書いたと思うんだけど。
男の人って、褒められたら、わりと すぐ その気になる傾向の人が多いみたいだしね(笑)
まあ、賞金が惜しかったんだろとかいう、勘ぐり的なコメントも多数だが、功成り名を遂げて幾年月のディランが、たかだか?あの程度の金額で、思いを左右する必要もないんじゃないのとも思うし。
でも、お金持ちほど、おカネに執着するとか、トシいくほど執着するとか聞くね。
コソッと言うと、ディランは、顔だちに、その傾向が窺えるふしもあるよw若い頃の動画を見たら、なかなかのハンサムだったことに、ちょっと驚いたけど。
私は、ディランの世代では全然ないし(むしろ、彼は、うちの親の世代に近い人)、彼の作品はと言うと、『風に吹かれて』くらいしか、すぐに思い出せる楽曲もないんだけど(『風に吹かれて』すら、学校時分、J・バエズの歌声で知ってからコピーした)、
こんな私にも、彼との共通点みたいなところを感じたには、
最近のノーベル賞騒ぎで、ディランのアーティスト、ミュージシャンとしての長いキャリアを振り返り、分析している記事を読み、どうやら、彼は、自分のカラーと言うか、特性や方向性を、一つに限られて見られることを避けていたのでは ないかなということ。
昔から、アーティストやミュージシャンというのは、極度に気ままでマイペースなのが定番のイメージだけど、別面では、
どんな分野の何にせよ、殊更、人前で目立ちたがり、何かしら変わった事を したがるのは、俗物的でもあるわなw
「私って変人なんですよ」とか「芸術家気質なんです」とか言いたがる人ほど、いたって俗人的価値観の持ち主であるように。
母方の祖父なんか、私の母親が若い頃、芸能界にスカウトされたとき、「人前で芸をするなんて、卑しいことだ!」と言い張って、猛反対したそうな。
ただ、ディランも はや、老齢になってるわけで、ツアー最中だということだったから、そっちに、乏しくなった全エネルギーを集中していた、あるいは、そうしていたかったのだという側面は あったのかなと、私は察していたけど。
デヴィッド・シルヴィアンなんか、まだデビューして間もない、うんと若い頃から、ツアーほど厭な、しんどいものは ないと言ってたよ。
うちの親も、舞台に上がる経験を してきているので、私も かねがね聞いてたし、昔から小耳に挟んでいたように、舞台というものはフシギな世界で、そこに出ているあいだだけは、どんなに しんどくても、自分のなかにエネルギーが入り込んでくるのを実感するんだって。だから、出演してるあいだは、不調であることも忘れてしまってるんだと。その代わり、舞台を降りたとたんに、がっくりきて、へっとへとになる。
なお一つ書き加えておくと、
日常の人間関係のなかで、こういう経験に思い当たる人、けっこう いるんじゃないかと思うんだけど、
何らかの約束とか期限をハッキリしてもらわないと いけないときに、何が理由だか知らないけど、言を左右にして煮え切らず、むやみと引き延ばしたりして、はたをイライラさせて平気な人って、たまに見かける。
こういった人の考えてることが、基本単純な私なんか、どう察すればいいのやらと、従来から不可解で、例のQAサイトで質問したこともある。そのときも、例の「カルト連」の覆面会員が邪魔しにきて、さんざ厭味を垂れ流していったわw自分のことだと思ったんでしょうよww
でね、
心理的に言うと、自分の考えや期限等についての心づもり如何を、いつまでも明確にしない人の思惑とは、言わば、迂遠な かたちでの支配欲なんだそうな。
要するに、
自分を、相手よりも優位に置いておきたいという心理が潜んでいるんだって。
ディラン自身が、はたして、そういう心理ゆえだったかは、もちろん、断定できないけれど、
たしかに言えることは、今回の彼の動向に、おおぜいの人々が振り回されてたよね(笑)
ディランの場合、どっちに転んでも、世界じゅうで話題になっちゃうところを見ると、やっぱり、それだけの大スターなんだわね。しかも、世界最高峰と言える賞なのだから、それも拍車を かけたわけだ。
2016.10.23 (Sun)
『北斎の肉筆画と判明 「作者不明」西欧の水彩画風の6枚』
西日本新聞 10月22日(土)10時10分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00010003-nishinp-soci
こちらのほうでは、絵のサイズを幾分か大きく見られます↓
『オランダの博物館所蔵:北斎の西洋画だった 作者不明6枚』
毎日新聞10月22日(土)
楽しいですねえ、こういう話題は。
間違いないのであれば、北斎自身も、まったく新しい手法に、胸を躍らせながらのチャレンジだったことだろう。
旧ブログで、「根付」か何か、日本の伝統工芸のことを取りあげたとき、北斎のことも話題にしたことが あるんだけど、そのおり、あらためて確認の検索してみた感想は、やっぱり、特筆して先端的な面白い絵師だったということ。
でも、考えてみたら、江戸時代も後期の頃の人なんだから、こんにちから遡っても、それほどの大昔の人では ない。
もしかしたら、シーボルトが持っていた、西洋の画家たちによる参考作品サンプルのなかに、フェルメールのも含まれていたかも。
シーボルト先生は、日本に滞在していたあいだに、なんかアヤシイことも含めてwいろんなこと なさってたらしいし。子どもも つくってったしね(笑)その娘、通称「阿蘭陀おイネ」さんも、日常の一コマふう写真に、肩の力が抜けたクール美人なところを残してる。シーボルトが若い頃の肖像画の面影に似ているのが、またオモシロい。
上掲記事へ投稿されたコメントのなかに、かのフェルメールの名を挙げてる人が やっぱり いたけど、私も、今回判明したという絵の画像を一見して、フェルメールの『デルフト』の空気感を少し感じた。
その「空気感」というものは、やはり、大きくは構図から来るものなんだろうけど。
ちなみに、この絵も、(現実と幻想と両方が混ぜ合わされたような)独特の空気感を持っている。
Elinga(Dutch1623-ca.1682)Woman Reading
ここからは余談ながら、
この『読書する女性』は、私にとって、特別な感慨を もよおす絵なのです。と言うのも、
以前のエントリーで、ちょっとだけ触れたように、私は、時たま、いわゆる予知夢を見ることが あって。特に、どういうものか、病気で長らく苦しかった時期には、わりと頻繁に見ていて。
そのなかでも、絵に関する予知夢の場合は、独特のパターンだった。
夢で見て概ねは翌日から数日後、たとえば新聞の日曜特別版で恒例の、国内外の様々な絵画を中心に紹介する特集記事にて、特大サイズの画像が掲載される、そのなかに、
その日まで、名も知らずにいたエリンガの作品が、夢で見た光景のままに再現されているのを見た瞬間、あっと息を呑んだ。そのときのことは、かれこれ数十年たっている今でも、まざまざと思い出す。この類の経験を した人は、私以外にも いるらしい。
これと同じような現象が起きた絵画や写真などは他にも幾つか あるんだけど、
ただし、いずれも、「絵」そのものとして見たのでなく、
夢のなかでは、あくまで現実としての その風景や光景のなかに、普通の日常的肉体を持つ自分自身が居て、そのときの周囲を眺めているという かたちで見ている。
くだんのエリンガ『読書する女性』の場合も、
かの地に特有なのであろう窓の造り、その外側の人通りの気配、少し埃っぽい窓越しに入ってくる柔らかい光が照らし出す室内に浮遊している細かい塵の きらめきとか、隅に置かれている大きな衣装箱(チェスト)や椅子に打ち付けてある鋲飾りとかを、間近に明瞭に、自分の目で眺めながら、べつだん奇異にも疑問も思わず、落ち着いた気分で、ほの温い空気を吸いつつ、木の床の上を、ゆっくり歩き回っている自分の足音が、室内にコツコツと響いていた。
その臨場感は、じつに生々しいものだった。
ただ、少し不思議なのは、
絵のなかの腰掛けて読書している女性だけは、その夢のなかの室内で見ていないと言うか見当たらなかったのね。これと似た現象なのだろうか、他の画家(日本人)の作品で同様の経験したときは、その作品のなかでヒロイン的に描かれている若い女性が、自分自身だったということが あった。
そういう夢を見たあとだから、「あっ、あの夢のなかの光景」と、まっすぐ、ピン!と来る。疑う余地なく。これは、経験した人でないと、理解できない感覚だろうと思う。
通常の現実における体験じゃないのに、すでに、わが身を以て体験したような世界なのだから、なんとも言いようのない感じ。一種の懐かしさが こみあげてくると言うか。。。
たしかに、
時代も国も全く異なる、あの、とある室内の空気を吸っていた。
白い大型帆船が高々と帆を膨らませ、遠い国から訪れた女王の誇りに満ちた足どりのように、厳かに滑らかに進み行くのを、青い波の まにまに揺られながら、傍で見上げていた。
日本の何処か、見知らぬはずの街で、夕暮れと夜の境に燈った月明かりに照らされ、静かな通りを歩いていた。
「未知の記憶」。
2016.10.17 (Mon)
上記のエントリー後、
「光を当ててもらっただけでも、ありがたいと思え!」
てなコメントが、けっこう多くて、
なかでも、私のブログを読んででもいるのか、
「校閲校閲と偉そうに言うな!!」他、どこかで見たパターンの罵詈雑言オンパレード、口汚いこと このうえない典型的ヤフゴミ野郎が鼻につくので、ここに追記し、せせら嗤っておいてやる。
(いちおう、きゃつの これまでのコメント記録を覗いてやったら、案の定で、腐れネットウヨにして妄想どすけべい野郎だったwま、一事が万事の典型。)
あのな、
現実には「ありえない」、
つまり、虚偽や虚構でしかないものに、なんぼ「光を当てた」つもりでも、現実には実際には本当には、どこにも何にも「光を当てた」ことには ならんのじゃよ(嗤)
アタリマエじゃろが(嗤)嗤)
そこには、実体というものが存在してないのだから(嗤)嗤)嗤)
どーして、こうも、ものの道理が分からんのか、
オツムが悪いのか、こやつらは。
まあ、私に言わせりゃ、
校閲なんて、どこまでも陰で裏方に徹するべきキャリア職は(むしろ「光が当たる」なんてことは あっては ならないくらいの現実)、めでたきレンアイがテーマの若造向けドラマには、およそ最も不向きなのであって、ありえないことを でっちあげてまで、うら若きヒロインに据える必要もない。
たぶん、もとの作者さん自身も、もう少しは実際に よく知ってるであろう、普通の一般的な編集職なら、滑稽なまでの無理な設定にならずに済んだろうに。
それにしても、うちのブログを読んでんのかー?と思えるような事例が、旧ブログ以来、年々増えてると、不審に思うことが たびたび あるんだが、
これは私に限らず、近頃は、そのへんの一般しろうとのブログやらコメントを参考にする程度どころか、もろにパクって、そのうえで、ぱんぱんに膨らませてるみたいな。
かりにもプロの書き手がですよ。報酬もらって。
あの、あれよ、
次回の東京オリンピック用で、最初の発表エンブレムのとき大問題になったことと共通してるわな。
(余談だが、また言うのだが、最終決定したエンブレムのこと、特に良いとも悪いとも思わんが、色だけでも、「黄金のジパング」日本古来の渋~い金色にしたほうが、あの致命的なまでの地味さも薄れたと思うのだが。)
なさけないねえ~。。。
ネット漁りまくって、
めぼしいサイトというサイトにて、複覆面で、煽りコメ入れるアルバイトしつつ、しがないライター商売のためのネタ仕入れか。しかもロハ。
糊口を しのぐためなんだか、
苦労不足ゆえに視野も世界も狭くってネタ不足なんだろうが、
ただでさえ乏しい才の枯渇なんだか知らないけど。
実際、こういうやつ、いるみたいだから。体力エネルギーだけ旺盛でも、才能と持ちネタには乏しいんでしょうねえ。
以前も言ったように、
私には、原案として提供できるだけのネタなら唸るほど あるよw
浜の真砂は尽きるともじゃないけどwwしかも、すべて現実から得たものだ。
かなり凄まじい話が多いから、生前の親からは、書くな、親に恥かかすなよと脅されたしw自分で書くにもエネルギーが膨大に要請されるので、ハナから萎えちゃってるけどww
提供してほしいなら、要
ゼゼコだwww
ただでパクるなよ?あつかましいwwww
2016.10.10 (Mon)
『「ありえない」デフォルメの許容範囲とは。』の続き。
時代劇なんかについても、考証の専門家から、あの番組メチャクチャしてますぜ、という旨の指摘を時々、読む機会は あるけれど、一般視聴者の側としては、教えてもらうまでは、なんとなく、そんなもんかと思ってて、ほとんど疑わないわな。
なぜなら、本当のところを知らないからだ。
医者や看護師や警察官は、そのへんの個人の範囲でも、日常で接することは少なくないだろうが、
プロの校閲者に接した経験が ある者は、間違いなく、それらの職業人とよりも格段に希少である。
世間一般では、「校閲」というコトバすら知らないでいる人のほうが多いかもしれない。
ましてや、「校正」と「校閲」の違いなんて、業界経験のない人は、知らないでいるほうがアタリマエなのだろう。辞書を引く気もないだろう。
むろん、
「校正」と「校閲」とは重なる面もあるが、本質的には全く異なる仕事だ。
簡潔に言えば、
校閲者は、校正者も兼ねられるだろうが、
校正者に、校閲者が兼ねられるとは限らないのだ。いや、兼ねられないことのほうが、ずっと多い。
案の定、無知で浅はかで妄想を述べては、他者を貶めんことに余念のない「ヤフコメ民」が、「ヤフゴミ」捨て場にワラワラ集ってるけど、
本当に知っている立場の者から見たら、こんな無知・無教養を恥じる能すらもない、哀れな存在も ない。
シナリオから校閲に至るまで、それぞれに多かれ少なかれ経験を持っている私には、一目見ただけでも分かることだ。
毎度のヤフコメ民は、まともに仕事したことも何らかの職業経験を積んでも こなかったのか、あっても、非常に限られた世界の経験しかないのに(仕事にも人生にもw)、
同一人物の重複投稿が、かなり混じっているとしても、ほとんどが、
極めて貧弱なる想像&
「ググって」知ったか&
ウヌボレ満開
で投稿しているに過ぎないね。
恥ずかしい言動を撒き散らす前に、少しは謙虚ということを覚え、おのれの無知を わきまえておくほうが いい。大いに傍迷惑だから。
ましてや、その人生において、ろくろく、仕事や職業に就いたこともない、たとえば、自称「自宅警備員」以外には経験もないようなヒキコモリやキャリア無しはね。
そんな状態のなかで、少しは、実情や現実面に より近い指摘が できている投稿者も、ごく僅かながら いるよ。
この場合は、
まず、自分は知らないのだという自覚が あるから謙虚にならざるを得ないということ。
ネット検索してみて、にわか知識を仕込んでおいて、それが さも、最初から、自分の身に備わった知性で論じているのだと言わんばかりの臭い芝居を演じないこと。
自分の知らない職業について、威丈高に論じたがる前に、まずは、想像力と視野を広げる練習を してからでも遅くは なかろう。
ネットのなかだけで、きいたふうな投稿に明け暮れ、すでに老齢に さしかかっている連中は、今更、どう改善することも叶わず、デカくて分厚い色眼鏡を掛けたまま、この世を去るしかないだろうが、
ええ若いもんが それでは、あまりにナサケナイし。
これじゃあ、どんだけ恵まれてて、そのまま年老いていけた苦労知らずでも、最も侘びしい年寄りじゃないか。
いまどきは、「書を」じゃなくて、ネットを捨てよ、街に出よ、だわな。
せっかく、自由の利くカラダと若い脳みそを持っているうちに、もうちっと、視野を広げておくために。
ネットあたまとネット色眼鏡がブクブク肥大・肥厚しきって、
もはや取り外すことさえできなくなってしまわないうちにね。
テレビのドラマや歌謡番組やバラエティ番組の類は、もともと、ほとんど見ないほうだった私も、自分が ごく若い頃には、まだ、インターネットやパソコンが一般には普及していなかったことを、むしろ幸いだったとすら思える。
ネットあたまにネット色眼鏡を掛けたままで死にたくは ないもの。
さて、当該職業について言い添えておこう。
極端な言いかたではあるけども、ごく初歩レベルの校正作業なら、専門スキルが なくても、業界用語を知らなくても、
ぶっちゃけ、単なる「間違い探しゲーム」感覚で できないことも ない。
その程度の仕事で済むのであればだが、何よりも、視力が良くて、体力が旺盛で、
元の原稿と、チェックするべき原稿とが、ぴーったし同じに出来上がってるかどうかをシッカリ見逃さなければいいだけだ。
要するに、若い人のほうが有利だろう。
だが、
もともとの原稿からして間違ってたとしても、単純な「校正ゲーム」では指摘できないよね。
いかに偉い人や博識なるセンセイや気鋭の学者や、大手新聞のベテラン記者であろうと、その原稿を書いたのが誰であろうとも、
校閲者は、的確に指摘しないと ならない。
その指摘は、もちろん、必要時には、印刷業界の現場技術者にも向けられる。
もしも、プライドの高い人たちを憮然とさせるようなことが あろうとも、
これは完全に無視される恐れが明らかかと思えても、
一歩も怯まず、そうしてあげることが仕事であり、職業人としての良心であり、相手のための親切でさえある。
なぜなら、著作者本人と著作物、出版社の信用問題に直結するものの、校閲者個人は、けっして表に出ることのない裏方スタッフだから。
光が当たったことは ないだろうし、ゆえに、地味なコツコツ世界。
校閲というものは、少なくとも、その分野において登場するコトバと、そのコトバの背景に横たわっている事実や事情、経緯までを網羅して備えていないと、いざというとき、手も足も出ない。
だから、
普段から、少なくとも職業上、必要、また、必要になるだろうと見込まれる情報を優先順位を考慮しつつ(無限の引き出しじゃないからね)選り分けながら、欠かさず勉強、勉強に尽きる。
私も、いまだに、知らないままでいたコトバなんて多々ある。
もっと ぶっちゃけると、学生時代は、文法の授業なんかも苦手で、興味なかった。
だいたいが編集業界というのは、厳しく締め切りに追われる仕事の典型分野だが、
当該記事でも述べられているように、校閲者が、一日で こなさなければならないチェック量はハンパないよ。
どこの出版社や新聞社も、自分とこから出している印刷物は全て、大概は一つの校閲部に通させているだろうから、このドラマが、もし、一つの雑誌につき、校閲専門部署を備えているという設定だとしたら、それからしてが荒唐無稽と言っていいと思う。そこは知らんけど。
なので、目を傷めたり(パソコンでチェックするようになってからは尚更)、ずっと机に向かったままだし、ストレスで胃を痛めたりは付きものだし、
幅広い知識と教養だけでなく、冷静さと責任感と根気と体力も要るわけ(←どれも、私に乏しい適性だぜ!しくしく。それだから苦痛だったわよ、とーぜんw)。
まさに、「舐めんなよ!」なのだ。どんな職業でも そうだけど、
知らない者が、とやこう言うのは、それが どれほど滑稽なことか、
ちゃんと知っている側にとっては、一目瞭然だ。