2014.04.14 (Mon)
以前のエントリーで、この事件、小説家と編集者の関係性との共通点もありそうなと述べたが、
私は、今でも、くだんの新垣氏、しょせんは、ご本人が認めたように、一民間大学非常勤講師程度では得られない報酬目的の、「共犯者」以外の何者であったとは思えない。
ただ、以下の記事で紹介されている氏の発言を読み、この疑問について、あらためて、ご本人に聞いてみたいものだと思った。
『新垣氏 佐村河内氏に「感謝」も…「Mr.サンデー」で語る』
スポニチアネックス 4月13日(日)22時30分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140413-00000126-spnannex-ent
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佐村河内氏の名前で作曲したことで、自身の名前ではありえなかった圧倒的支持を受けたこと。さらに、佐村河内氏が新垣氏の作った曲を「実際に聞こえていたかどうかはともかく、真剣に聴いてくれて『いいですね』と言ってくれた。そのやりとりが重要だった」と語り、その意味では佐村河内氏に「感謝ですね」と明かした。
また、作曲するためには、あるところまでは佐村河内氏が作った指示書が必要、長編小説のプロットを作るきっかけというのが必要であると語り、2月の記者会見で「共犯」と語った意味を説明した。
だが、自身が作曲した曲が評判になったことで佐村河内氏がテレビなどへの露出が増えたことで「これは参ったな。これ以上世間に出てしまうと、本当のこととまったく違う。フィクションになってしまう」と危機感を覚えた。また、佐村河内氏の自伝を読んだことで「これ以上、今のことを続けるのは危険であると『直感』いたしました。活動を1度打ち切るのが賢明と思われます」とコンビ解消を訴えたという。
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どこぞの週刊誌にて、暴露スッパ抜き記事が載ったことで、新垣氏、たちまち青くなって震えあがったというのが切っ掛けになっての告白会見だったとか報じられていましたがねえ。
それにしては、ずいぶん、キレイごとの話になってw
「佐村河内氏の名前で作曲したことで、自身の名前ではありえなかった圧倒的支持を受けた」
では、
佐村河内氏の注文に合わせて作曲した作品と、本来の新垣さん自身で産んだ作品たちと、どう違うのですか?それとも、違わないのですか?
そして、新垣さんが、本来、支持を受けたかった対象とは?
分野の専門家、識者たちの、厳しい見解によれば、
佐村河内氏の依頼のために作曲した作品は、音楽の歴史に名を残した巨匠たちの作品の切り貼りめいている、それもあって、高い評価は下す気になれなかった、という。
この点は、ほぼ単に、その方面知識の有無の問題だ。
それならば、
あれらの作品に感心してしまった、無知なシロウトたち(私も、まあ一応、そのなかに入っていたと言っていいだろう)のセンスは、けっして悪くはないどころか、けっこう判断力があったわけだ。
だって、「寄せ集め」に使った素材自体は、もともとが、とても良いものだったのだから。
最近のエントリーで、「小保方さん会見」への感想で述べた、
「服装一つとっても、本当にカシコイ人は、自分本来の好みや自己満足よりも、周囲に与え得る影響効果を冷静に優先して計算するのだろう」ということ。
これと通じるものがあろうと思うので、新垣氏の、今回の発言を知って、素朴に問うてみたいと思ったのだ。
芸術作品とは、最初から、敢えて(ウケの)計算づくのなかで生まれるものなのですか?と。