2015.08.30 (Sun)
【旧ブログの記録より】
誰よりも、智みを愛す 2010/10/24 22:42
フィロソフィア=(希)哲学、というコトバは、西周という人が考案されたのだそうで、それまでは日本に、哲学という単語は なかったわけだ。
フィロソフィアとは、愛智(愛痴じゃないよ、これじゃ、例のカルト連だわな)、
知を愛する、という意味で、古代のギリシャ語では学問そのものを指したコトバで、
かのソクラテスも、田中美知太郎氏も仰ったそうだが、哲学の起源とは、ひとえに「フシギ発見!」であると。
哲学だの学問だのって、要するに、この世の自然が厳しいからこそ、
そして、それを受容できないからこそ発展したようなものだろう。
知恵が発達すると、欲も深くなるんだわな。アタリマエっちゃあアタリマエの話。
それが不幸せなことというなら、
なるほど、ヒト族以外の生き物たちのほうが、思考停止で、よほど幸せなんだろう。
野生の動物だって、欲を追求できる手立てがあれば、そりゃあ、トコトン追求するだろうと思うけどね。満足なのか諦めか、よく分からんけど。
長時間の記憶能力がないのが幸いかな。
なら、どうして、ヒトの場合は、それが不幸になるのか、は置いといて。
ただし、単なる便利・快適・安心という欲を追求するだけに終わらない、かえって、これを えいっ、と捨て去りさえするものが哲学というものだと、私は思う。
ならば、
西洋由来の「哲学」という名づけの単語はなくとも、哲学的なるものは、じゅうぶんに、わが日本にもあったと私は思っている。
もっとも、あくまで西洋の哲学は、キリスト教と密接に絡んで発展してきたという歴史があるわけだけれど。
しかし、江戸時代以前だか、もっと前だかは知らないけど、かつての日本には、「個人」という概念がなかったのだとか聞いたことがある。
そんな時代の人にも、それなりの悩みは尽きなかったであろう。
明治期になって、
「哲学」という学問が伝わってきて、はっきりと名称も できて、それからの歴史は、まだまだ浅い浅い。
全体を眺め渡せば、つい先日の出来事みたいなものだ。
それでも、「個人」という概念を持ち合わせなかったという日本人の姿が、この時代に生まれあわせた われわれには、すでに、なんと遠いことだろうか。
昔のような、自然の脅威に、まともに晒されることが めっきりなくなった生活を営めるなかでは、哲学は、ある意味、ぜいたくな学問かもしれない。
また、
過酷な状況下にあって哲学し続けることも、強靭な精神力が要請されるだろう。
この学問に限っては、スノビズムや道楽臭が漂いがちになるのも まま見かけるところだ。
反面で、最高に安上がりな学問とも言えるのだけど。
「難しい理屈」というより、理論という「切り口」なのだと思う。
それを使って、縦横無尽に切り裂いて、進んでいく、そのために使いこなせるか どうかではないかと。
だから、しがみついて、「信仰」化してしまってはならない。
それでは、よく言われる、「理論だおれ」になってしまう。
理論は使うもので、
こちとらが、理論に使われる者になってしまっては あほらしい。
なので、哲学やらずにおらりょうかという者こそは、世間のイメージに反して、柔軟でなければならないはずと思う。
そういう柔軟さこそ、企業が求めるものではないのか?
なぜ、
テツガクやっとります、と言うのが憚られるほど、哲学徒は優柔不断にして融通が利かないゴチゴチ、という滑稽なまでのイメージを、世間に持たれてしまうのか、いっぺん、よく考えたほうがいいかもね。
だいたい、いまの大学の哲学科の授業なんて、哲学史を なぞっているようなもので、本当の意味での哲学じゃないという批判は よく聞くし。
私は現場を知らないけども。
いずれにしても、哲学を「自慢できるアクセサリー」みたいな扱いにするのが滑稽極まりないことだけは確かだ。
めったやたら有り難がる者、
逆に、めったやたら貶めたがるのも同様、気づいてない者が多過ぎるようだよ。
カテゴリ: コラむ フォルダ: カルト・サイト関連
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