2014.08.24 (Sun)
こういう記事があった。
『子どもの将来を左右する!?ナメてはいけない子どもの“算数”の教え方』
ダ・ヴィンチニュース8月17日(日)5時50分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140817-00004715-davinci-ent
私の場合はさぁ、いろいろと事情が、かなり特殊で?w、親の胎内にいた頃から過酷な状態に置かれており、なかばは死んでる状態で、強制的手段でもって、やっとこ、しぶしぶと(←私がね!w)生まれ落とされ、
人生しょっぱなも しょっぱなから激しく疲れ果ててしまってるからなあ。
親を筆頭に、誰一人も、この しんどさを理解してくれなかったが。。。
いつもアタマ重いのwもう重くて重くて。
いよいよ近年は、疲労してると、百円玉と五十円玉の見分けさえ つかなくなってしまう私。ひい。。。ふう。。。(苦笑)
いっぺんでいい、かろやか~にまわるアタマになってみたいわ(爆)
これも、ずいぶん前に、回答か どっかで書いたことあるけど、
洗面器程度の量の水なら、子どもでも掻き回すのラクラクだろうが、浴槽に満タンの量となってくると、じょうぶな大人でも、なかなかにエネルギー必要でしょ。
「火事場のバカ力」的現象もあるにはあるけれど、継続は並大抵のことでなくなってくる。
だからね、
おつむがシッカリ的確に回り続けるには、何が必要?ということを考えてみれば、
俗に言う「文武両道」というのは、そんなに珍しいことでもなくと言うか、私に言わせれば、むしろ自然、当然だと思う。
ただ、世のなか、「文武」は からっきしだが、どういうものか、
気力は執拗じゅうぶん、体力だけ旺盛!
というタイプも少なからずいるようで、
真っ当な論理はダメ、もっぱら詭弁専門とかw
いきなり他人にゴチャラゴチャラ細かいヘリクツぶつけてきたり、
せめて、自分なりにでも、 できるだけ論理の筋を通そうという努力を全くせず、どうやら日本語らしきつもりの、「てにをは」も甚だ怪しく、イミフなモノ言い等を見ると、もう、めんどくさくって めんどくさくってww
「こちとら、おまえさんみたいに、やたらヒマと体力持て余しては おらんのよ」
と、ブチ切れそうになる!www
それもあって、コメント受け付けしないでおくという一つの用心もするようになった。
なんせウンザリげんなりで、懲りてるからね、あの「カルト」一味とシンパどもに。
ネットは、こういう手合いが、あまりにも多過ぎ。
他人に、どーしても、どんなかたちにしてもイチャモンつけたかったらば、奇を衒った言い方を気取る前に、せめても「てにをは」の遣い方と、文字変換を手抜きしない、できるだけでも見落とさないという基本レベルが身についてから。
そのうえで、
お互い時間の浪費を避けるために、相手の論を的確に理解する努力、それから、
いったい自分は何を言いたいのか?ということが自分自身で見極められるようになってから、コメントするようにしてもらいたいもんだ。
でも、これら全くと言っていいほどダメダメな者でも、ネットでは跋扈できるという現状。
ところで、
軽度や中度の障碍者というものは、だいたいが「健常者」に伍して社会生活やってることが殆どだろうから、それが、外部から見て、そうと分かりにくいものほど、ある面、重度の場合よりもストレス重く溜め込んできてることは多いと思う。
私の場合なんかは、障碍を知られないようせよという母親(←脳に部分的異常があった優等生ねw私の障碍の原因つくった当人でもあるww)のキビシーイお達しだったし、
当然、理解者を得られる可能性は ほぼ妨害され、遮断されていたし、
もし、何らかの経緯から知られてしまった(いずれは そうなるのもアタリマエ)となると、こちらが敢えて伏せていたぶん、たちまちにして、足もと見て吹っかけてくるような経営者や上司や同僚は決して少なくなかったからね。
特に、「隠れ」的と言うか潜在的精神障碍者と言うのか人格障害的性質のひとは。
(ネットでは殊に見分け難い)
このテのひとたちってのは往々、勝手に劣等感のカタマリみたくなってて、そのせいなのか、なかなか計算高く姦計めぐらす、自己防衛心からの攻撃的になってる場合も多々見受けたし、ある意味での「甘ったれ」が多いようだから。
まあ、本人としては、自分なりに必死でガンバってきた、なのに!なのに!!という悔しさもあるのかなあと察するのだけども、
だからと言って、自分の勝手な欲求不満を押し付けやすい相手を選んで、てい良く八つ当たりしないでほしいわな。
なので、私は、このテの「隠れ」ゆえ世間の いたる所に潜めている人格障害的性質とか、部分的ゆえ世間の いたる所に潜めている歪な精神を持つ者たちの味方は できないし、したくもない。
さんざ、足引っ張られてきたから。
さて、本題に戻るけど、
さんすうの単純計算題は、家で宿題やってて、数える指が足らぬとなると、足の指をも数え(爆)
なお足らぬと、兄の指まで借り出していたというので(爆(爆)
後年になっても、家族じゅうから笑われていたワタクシw当然、学校での算数テストはズタボロ、
なのに、応用力を見るための文章題であれば、どこを どうやったものだか、なぜか正解を捻り出せるというので、担任のみならず、職員室じゅうを、?の沼に陥らせていたという、伝説的ワタクシww
中学校に進学し、最初の頃の授業で出会った「集合論」は、わりとムシが好いて、べつに難しいとも感じず、むしろ単純なほうの話でないかとすら思ってて(だから、ムシが好いたのさw)、
クラスの優等生たちが、「集合」難しいな~と嘆くのを聞いていて、なにが?と、まじでフシギだった。
でも、やっぱり、算数・数学は基本、毎日コツコツ、の世界だと思う。
学校時分も、教師や周囲の目上たち全員から、そう諭されていた。
同時に、
とにかく、公式をだな、まる暗記しろよ、そうするだけでも解けるんだからね、と。
ところが、「ルーチン」と、わけ分からぬまま丸暗記するというのが、どちらも性に合わないワタクシw
小学3年生の時点で算数に躓くと、あとあと大変になるという話は、後年になって聞いたものだが、私自身も、ちょうど、その頃、親の生活状態等の激しい変化に伴い、家庭環境が、ますます芳しくなかったこともあり、子どもゆえ無自覚ではあったとしても、潜在的に落ち着かない生活を おくっていたという点など、成人後になって思い当たるところは幾つかあるのだが、まず、
「公式を、まる暗記」
私自身が、第一に算数や数学で躓いていた大きな理由の一つは、ここにあったと思う。
だが、しかし、ほんものの数学的天才は、公式を見ただけで、その意味するところと必然性が、たちどころに理解できるものなのだと言う。
なので私は、少なくとも算数や数学の天才でないことは明白だww
「そういうものなんだ」
と、とりあえずスンナリ納得できて、先へ進めるタイプというのは、学校の優等生に最も多い共通性だろうと思う。
ところが ところが、
あの「フィロトピア」にウカウカと参加してしまい、早くも最初に不審を感じ始めたときの私は、まずは、この「優等生」的姿勢で行っておこうと試みて(正確には、littlekiss(にゃんこ~!)遣り過ごそうとしてw)、なぜか、あそこに残ってた、胡乱このうえもない古参らに寄ってたかって、簡単に捻り潰しに かかられたww
しかし、あそこの「ボス」格だったstomachmanというのは、数学大得意なキャラのはずなんだが(爆)
まあ、それは さて置き、
「そういうものなんだ」
と、とりあえずスンナリ納得しておいて、これをもって済まそうとするなら、たしかに、そこからは、懐疑や哲学というものは生まれないだろう。
哲学だけは、自然界と、その摂理を超え得るもの。
同時に、
けっして超え得ぬ哀しみを知ること。