2014.08.21 (Thu)
「おまえの かあちゃんデベソ」も、いかなる激烈な「ヘイト スピーチ」も、なるほど、「表現」のうちに入るのだろう。
だが、「言論」たり得ているとは到底言えまい。
『ヘイトスピーチは「暴力」=日本政府に懸念続出―国連委』
時事通信8月21日(木)0時22分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140821-00000001-jij-int
ヘイトスピーチは言論表現ではない、というのには同意できないな。
言論表現ではあるけど、他者の権利を侵害する度合いが看過できないので、例外的に表現の自由の対象外とする、と言って欲しい。
口から発せられる言葉は、どんなものでも言論だ。
「言論表現ではあるけど」
そうじゃなくて、
「表現」のうちではあるにせよ、「言論」と言えるレベルには全然ない、
ってこと。
「嫌韓」でも「反日」でもいいさ。そりゃ自由だ。
好きやキライを強制したって しょうがない。
「日本が嫌いなら出て行け!!」と叫ぶことも表現として自由が認められ、守られるべきなら、
日本を嫌いで、そのことを表現することも また自由で、守られるべきはずなのだ。
「反日」については、むしろ、より思想的なものであって、単なる好き嫌いの範疇の問題では ないのだろうが。
いずれにせよ、
「ゴキブリ」
「死ね」
「殺せ」
こうした類の発言の どこが「言論」だよ?(嗤)
こんなものは、およそ「論」では ない。
ただただ口汚い罵倒であり、恫喝であり、脅迫だ。
恫喝、脅迫の類は、りっぱに犯罪行為である。
ところで、あちら韓国の国民の大多数は、政府やメディアの主張や論調に対し、日本人一般よりも、もっと ずっと突き放した、クールな眼で見ているということを紹介している記事もあった。
中国にしても、その国民は、自分たちの政府がメディアを使うとは、どういうことなのかを先刻承知しているという。
こういった点では、たしかに、一般的日本人のほうが、まだまだ、ずっとウブなのだろう。
これが何ゆえ、そのようにウブでいられるのか?ということを考察、分析してみるのも興味深いものだろうが、ここでは置いておく。
とにかく、
「ネトうよ」と思しき連中の発言に よく見受けられる「ネットの真実」という噴飯もののセリフを持ち出したところで、それに対してもウブなままなら、結局、従来的にウブな人々と何の変わりは ない。
韓国でのアカラサマに激しい「反日」行為というのは、実際は、どちらかと言えば年配者だというし、それも一部の過激な連中に過ぎず、それならば、まあ、「在特会」なんかの存在と似たようなものなのだろう。
私は、こうした問題について、あまり詳しく見聞してきたことが なく、そういうことが、もしや「知らぬが仏」になりがちだったか?と慌てて思ってみたものの、私個人としては、国内的には、むしろ、日本人のなかに昔からコソコソと存在し続けた(隠れ)差別意識を持つ人のほうが多いというのが実態では ないかと思われるのだ。こちらも やはり、従来は年配者のほうに断然多かったと思う。
だが、こんにちの日本では、ネットによって、若い年齢層にまで、異変が生じているように見える。
身近で思い当たるのが、「ヨンさまブーム」だ。
これが話題頻りになっていた頃を思い出す。
「よりによって朝鮮人の男なんかをチヤホヤ騒いでるんだってな。それも、けっこうイイ歳した、年配のオバハンらまでが大騒ぎだと。まったく、なにを考えておるんだか」などと、
実家の父が、実に苦々しい顔つきを して、首を振り振り、繰り返し言ったこと。
もしかして、
父のような受け止めかたを していた人たちが、あの「韓流」大ブームのあいだ、苦々しく見詰めていたのかもしれない。
さすがに、普段の父は、目の前にいるのが、どこの国民で、何の人種だろうと、少なくとも、あからさまな差別や侮蔑した態度は、そうそう出しは しなかったと思う。
でも、黒人のことを、あたりまえに「くろんぼ」と呼んだりは した。
自覚も疑問も罪の意識も ないのだ。
それだから、傍目には、ある意味で「信念」を強く持っている人であるかのように、紛らわしくも、見えたろうし、思わせたろう。
父も また、ある面では非常に几帳面で真面目だったが、半面では、とてつもなくエゴイスティックで、ハチャメチャで、本当には反省ということが できない、恐らくは理解できてもいないひとだった。
こうした面では、母のほうも、父よりは、全体的に幾分ひかえめだったと思うのだけれど、いわゆる「部落民」とか「同和」関係の人たちなどに対して、根強い偏見を持っていたようだ。
彼らの いずれも、そもそも、自分自身のやること、考えることについて、まったく無批判、少しは疑ってみるということが なかった。
ろくに根拠もなく確信に満ちてさえいるように見えた。
そのくせ、根本的なところで、彼らなりの切実な理由で、根強い劣等感を持っていた。
しかし、真正面を向いて見据えることからは逃げていた。
こちらが敢えて、それを突きつけると、狂ったように爆発し、相手を精神的に抹殺しようと かかるか、
深く憎悪の眼差しでもって睨みつけ、相手の一切を遮断し、聞き入れなくなる。
環境や外部に由来する問題には大いに恨みを述べ、批判しても、自分自身で招いた問題には、まったく自己批判ということが できない。
ましてや、自己に内包する問題について分析してみたり検証する能力は持ち合わせず、と言うか、
彼らにとって、僅かでも自分のヘマやら罪等の不利を認めることは、さても居心地悪さに耐えかねるあまり、目を逸らし続けるしか できなかったのだ。
完璧主義とでもいうのか、それを やったら、プライドだけは突出していたせいなのか、とても生きては いられなかったのかもしれない。
だから、自分よりも立場や力が弱い者、それが自分の子どもであろうとも、ひとたび体面・自己保身のためとあらば徹底的に、罪や責任を擦り付けて恥じない。
逆に、つごうがいいうちは、それなりに溺愛のふりを する。
要するに、とことん、自分が第一で可愛いのだということが隠せもしない。
だが、彼らとて、同情心や情愛というものを知らないわけでは ないし、
頭が良いほうだけに、高度な論理能力を持ち合わせないのでは ないし、
正義感が希薄というわけですら なかった。
特に母のほうは、それらを、むしろ、豊かに備えていると思わせるひとだった。
この落差というか、バランス悪さ。
世間では、要領も良く、優秀な賢い人で通っていたとしても、内実は、
おとなたちの言いなりを受け入れている子どものままみたいなものだ。
(このあたりのことに関し、あとのエントリーでは、私なりに、算数・数学と絡めて少し述べるかもしれない)
さて、
日本は、理由は どうあれ、もともと自国の側が野心を起こして、各国からの誤解も怨みも買うような行為を犯したことがあるのは歴史上事実なのだから、他国や他民族に「反日」的感情が根強く残り続けていることがあっても、しかたがないと腹を括るべきだし、そのうえでの外交努力。
私自身、中国政府や朝鮮人に対して、日本国また日本人と異なる類の欠点もあり、そうとう大きな問題はあるという考えは持っている。
しかし、日本国と日本人にも、やはり同様に、根深い問題はある。
だいたい、昔から、日本人のなかに差別意識がある、あったことは事実なのだし、迫害行為もあった、
そんななかでも、種々の事情で、日本国内に生活基盤を持ち、日本人と、ほぼ変わりのない暮らしを長年にわたり営んできている「在日」の人々と、彼らの本国の政治姿勢や人々の感情や見解のありようとを全く同一視して攻撃することにも重大な誤りがある。
決して表にアカラサマには出しにくい抑圧気質であるなら、かえって深く沈潜し、陰湿の傾向を帯びてフシギは ない。
これを突きつけられ、直視を強いられるとなると、耐え切れず、とたんに、身も蓋もなく、ひらきなおって爆発する。
弱者蔑視や差別意識、排他性などの底にある動機には、無自覚の自己投影や潜在した劣等感があるものと察せられるが、
考えてみれば、日本人も また、他国、近代においては特に欧米圏への劣等感を強く持ち続けてきた。
さても、個人と国家の落差であるか、それとも、両者は不可分なのか。
(気に入らぬ他国民を指して、お互いに、相手は人間ではない、と言い捨てようとも)
しょせん、人間どうしに、さしたる違いはあるはずもなく、僅かの微妙な差があるのみ。
その僅かが、どんどん、深い隔たりの溝を つくっていく。
犯罪行為を おかす、おかさぬことの違いも同様で、ほんの僅かな差が、やがて、深刻な結果を つくりだすのだろう。