2023.11.09 (Thu)
先行エントリーで、怖い映画の話が ちょっと出た関連になろうか、
つい最近も、『ユーチューブ』で、昔のディズニー映画の『スリーピング ビューティ(眠りの森の美女)』をフルで観た。こういう作品を視聴すると、やっぱり、『アメリカ』の、気の利いたセンスと底力を感じさせられる。
次いで、
これも昔のイギリスの児童文学『秘密の花園』を原作にしたアニメ映画を観た。こちらのほうは、ディズニーを観たあとだからか、絵柄が至って素朴で、ちょっとヘタな感じすら したけれど、やはり、国民の気質のようなものも感じられ、なかなか興味深かった。
とは言え、
私は、子どもの時分に読み逃したまま、未練を残していた童話の類や児童文学などは、このトシになってから、いそいそと購入し、楽しく読んでいるところなのだが、『秘密の花園』も、やっと近年になって読み終えた作品なので、くだんのアニメ映画は、原作の後半を、かなり端折っているし、登場人物の役割りや性格なども、そうとうに省いたりデフォルメされたりしていることはハッキリ分かる。
それでも、
あらためて興味深いと思ったのは、『西洋』圏の伝説や童話、美術作品などに頻繁に登場する『魔女』という存在だ。
『秘密の花園』をアニメ化した作品に おいても、主人公の少女が、両親を亡くしたあと、はるばる、生まれ育った『インド』から祖国『イギリス』の片田舎へ引き取られて行き、会ったこともなかった叔父や従兄弟たちの屋敷の住人となるわけだが、そこで、さっそく登場する女中頭のような立場の女性が、原作よりも厳格・冷酷という以上に、はっきり邪悪な存在として描かれて おり、話の流れのなかで、その女性が、屋敷の後継者たる男児を追い詰めるために、治療薬と称して飲ませようとしている毒になる薬品を調合するシーンが出てくるのだが、まさに、典型的な『魔女』としての姿だった。
ずっと前に、山田五郎氏の『オトナの教養講座』で、ゴヤが描いた魔女の姿の解説も視聴したことが あったのだが、そこでも、やはり、魔女というのは、非常に知的にして革新的な存在なのだということで、
なーるほど、妙に難しそうな、ぶ厚い書物などを参照しつつ、何らかの薬草などから抽出した薬品を調合したりする場面が典型的に付きものなわけだ。
で、そういう、高度な知的作業を やってのけるのが、なぜか、女性なのだよね。
そして、その知性は、必ずや、邪まな目的に使われると。
なんか、わが国にも大勢いるじゃない?
知性や学歴、技術などを、邪まな目的に利用する連中がw
もっとも、それは、むしろ、圧倒的に男どもなんだけどねえww
そう言えば、
最近の話題で、喫緊の重要問題となっているらしい『チャットGPT』とか『AI』とか、これらは、一言で捉えるなら、まさに「魔女の魔法」みたいなもんだわね。
ディズニーの『眠りの森の美女』にも、妖精や魔女が出てきて、いろんな魔法を駆使するのは同じなんだけど、
ここでは、魔女とは逆に、妖精は、どこまでも善良な存在として描かれていて、その妖精たちが、善なる魔法を使うとき、たとえば、ケーキならケーキを出現させる場合、見かけも中身も立派なケーキなんだけれど、妖精が自分自身で、ケーキを拵えることは できないのね(笑)
魔女や妖精自身が作ってるわけじゃないんだ。
あくまでも、解説が記されてる書物を めくりつつ、こういうケーキよ出でよ!と、魔法(呪文)でパパッと出現させるんだね。
これも先日、オスカー・ワイルドの原作である『理想の夫』とかいう、昔の映画を観たんだけど(最終場面を見て、そう言えば若い頃、テレビで放映されているのをチラッと見たことが あったのを思い出したが)、
最初は、原作には関係なくて、有名な女優の一人である主役の演技を見てみたいという単純な動機だったのだが、さすがのオスカー・ワイルドだなあと思える程度には面白かったので、最後まで観て、
そして、思ったのは、
「なんやねん。。。いくら、自分自身が男好きの同性愛か知らんが、男の味方ばっかりしてるやん。女性については、『聖女vs.悪女』みたいな、やたら極端な描き方して、対決の構図やん」
と、いささか鼻白んだw
ワイルドに言わせれば、頑迷固陋な高齢男性ですら、根は善良な愛すべき存在で、男性の過ちは許されるべきで、なべての男同士の友情は崇高・不滅で、
対して、女性は、善良な場合は、概して単純なだけ、そうでなければ、不貞で欲深きわまる悪女でしかなく、そうでないのなら、これまた徹底して真逆に、非の打ちどころなき「聖女」のような存在、女性どうしには、真の友情など ありえないという、もの凄い差の つけかただったw
チョーシ乗り過ぎやろ!ワイルドはww
まあ、それなりに面白かったから、今回は許したるわwww
過去エントリーで触れたように、
どうりで、私が幼い頃、『幸福の王子』を読んだあと、なんだか、一種のキモチ悪さを覚えたわけだ。
それでも、純真な性質の私だものw概ねは、いたく感動したもんですがね。
幼い私は、オスカー・ワイルドという人物の存在なんて、まったく知りや しなかったんだもの。
えっと、
ついでと言ってしまっては何だけれど、
例の『北朝鮮』による拉致被害者の問題ね。
私なんかも、旧ブログの頃から、何度か、この問題について言及したり、提案らしきことも述べてきたのだが、
例によって、横田めぐみさんの御母堂が嘆いておられ、それを見聞きすれば、私も つい、もらい泣きしてしまうのだけれど、
ほんとうに、「青天の霹靂」とは このこと、あんなに愛情深い、責任感の強い、真面目な人たちが、穏かに生活していたものを、ある日を境に、ことばも失うほどの理不尽な目に遭うとは、いったい、どうしたことなのかと思わずにいられない。
うちの親らなんて、何度も言ってきたけど、私ら子どもが同じようなことになっても、嘆いて訴えてみせるのは当初のうちだけ、せいぜい数年も経たないうちに、あっさり諦めるだろうし、
『北朝鮮』ガー!!と言うよりも、運が ない者が悪い、という感覚だったからなあ。
まずは、
あのときに、市井の一般国民、それも、ごく若い人が、しかも、自宅の すぐ近くにて、容易に拉致されたという事態そのものが、この国の政権与党すなわち『自民党=本名:ダッピ統一壺売国党』が、まさに無能・無力だったことの証左だ。
もちろん、野党も甘い、不甲斐ないとは思えるけど、問題が問題だけに、真相が分からないうちから迂闊な軽々なことを言ったら、たちまち深刻な外交問題に発展しかねないからね。
それにしても、
加担していた『朝鮮総連』についても、どういうわけなのか、相変わらず、見逃し、野放しにしたまま。
それと、このことも、すでに何度か述べてあるのだが、
あの拉致被害者たちのうちの数人が帰国を果たしたとき、予定どおり「国交正常化」を進めることによって、より多くの被害者を継続して帰国させるため、あくまでも一時帰国ということに今回は留めようという政府の考えだったはずが、そこへ、出しゃばったのが安倍氏。
急遽、二度と戻さないことに転換させ、
したがって、「国交正常化」もナシになったから、以後の続けようが なくなったという。
それなのに、
横田さんたちにも、気づいてほしいとは思うのだけれど、
いまだに、この問題がネット上で記事になると、ババーッと寄り集まり、拉致問題を利用していたアベシ礼賛に励むシンパども。
そして、
トランプ氏に大統領に返り咲いてもらい、これの解決を頼むしかない!とか、
あげく、残った被害者たちを取り返すには、『北方領土』と同じく、戦争できるようにしないと!とか、バカなことを言い出す。
バイデン氏が大統領に就任したとたん、「期限を切って」拉致問題解決のスケジュールを示してほしい云々と要望した関係者も おられたが、当時、私は、そこまで愚かなことを言うもんじゃない!と、苦言を述べたことも ある。
とりわけ、大問題のはずは、『産経』以上に、『読売新聞』よ。
私は、これについても、以前から言ってきた。
あの当時、「一時帰国」した人たちを、戻さねば、いや、ぜったいに戻さないと大いにモメたわけだけれど、
そのときの経緯を、私もハッキリ憶えていたから、過去エントリーで述べておいたのだが、
近年になってから、蓮池さんとこの おにいさん、つまり、透さんが指摘しておられた経緯と、『読売新聞』が書き立てたことの内容が、全くと言えるほど異なっているということを。
このあたりのことも、どの新聞社も固く口を噤んだまま、取りあげる気配が見られない。
ウンでもスンでもないから、私も疲れて、もう、あまり言わなくなっていたのだが、
日本で最大部数を売り上げてきたという、天下の『読売』が、いったい何の目的なのか、読者を欺くような「作文」を掲載していたのが事実であれば、とんでもないことだぞ。違うか?
さて置き、
いっそのこと、亡くなっているのであれば、はっきりとさせてもらうほうが、何が何だかサッパリ不明のまま、というよりは、まだしも、気持ちの整理が つくというものだろうが、
北朝鮮では、先代の金 正日が、自分たちの代で直接やらかしていたことについて、いまでは「おなかの大きな王子さま」に代替わりしていることも あり、もはや、あちらの権力筋が、どこまで知っているのか判然としない。正恩後は、もっと忘却され、完全にウヤムヤだろう。
特に横田めぐみさんの場合は、こうなったら、結婚相手であった、あの韓国人の男性が、いちばん、核心を知っているはずと思えるのだが、やはり、ほとんど何も言わないよね。
帰国した人たちも、いまだに、どこか恐れているのか、話すのを控えている ようすのままだ。
「いいじゃないの、幸せならば」という感じで、めぐみさんの、もと夫や、娘さん、お孫さんの代では、ますます、他人事のような感覚でいるのが窺え、過ぎ去った時の流れの残酷さをヒシヒシと感じる。