2020.12.30 (Wed)
という題名の映画が ありましたな。。。
当時新進だった「バンドール」というかたが作曲したそうだが、テーマ曲も名曲で、
私が初めて聴いたのは中学生の頃、兄が くれた、映画のテーマ曲だけを集めたシリーズ盤らしきレコードの1枚だった。
もらって すぐに視聴してみて、『ブーベの恋人』とか『マルセリーノの歌(『汚れなき悪戯』)』などと並んで、この曲が流れてきたとき、針仕事か何かを しながら、そばで一緒に聴いていた母親が、
「なんとも言えず寂し~い感じの曲やね」
と、感想を漏らしていたのを憶えている。
私たちが、そのレコードで聴いたのは、「サウンド トラック」では なく、シンプルなピアノ ソロのような演奏が中心だったせいか、より哀感に満ちた印象だった。
いま聴いても、ロシアあるいは東欧の どこか寒い国の素朴な民謡のような感じが漂っているなと思う。
映画そのものは、長いこと、いつか鑑賞したいと思いつつ、近年、『ユーチューブ』で、部分的にだけ見ることが できたのだけど、当時の『ユーゴスラビア』を舞台に、ナチスのユダヤ人迫害時代の体験を もとにしたという原作だけ あって、やはり、たいへん悲劇的なストーリーのようだ。
ナチスの場合は勿論、古今東西の権力や国家が犯した犯罪から、民衆レベルの犯罪にいたるまで、それが凄惨を極めるような内容であるほどに、どうして、こんなことが できるんだろうか?と、つい絶望的な、暗澹とした気分に陥ってしまうのだが、
要するに、対象を、自分と同じ人間とは思わない、また、同じ命ある者とは思わないから、とことん冷酷なことを平然とやってしまえるのだろうか?
さて、実は、このエントリーは、冒頭の映画の話題とは全然、関係ないんだけど(笑)
先日の夜、かなり遅くなってから、外へ出て、
街灯などの光を防ぎつつ少しでも、よく見えるようにと、左右の眼の周囲を、両手の指でもってメガネみたいな形にして覆い、南西の空を見上げてみたのだが、
「見えないよ?」
あたりまえだった。
よく見えるという時間帯を、全然、間違えてたんだから。
かのガリレオの生前から、ほぼ400年ぶりという時を超えたランデブー。
『木星』が『土星』をオンブしたみたいな重なり。
なかばは薄い雲に隠れていた月ばかりが、とろりとした橙色に滲んだ姿を見せ始めたものの、星のほうは全く見えないながらも、なお少しの間、未練がましく、寒さに震えつつ、思わず集中して見上げていたあとで、
ふと、われに返ると、すぐ前の道を、そそくさと、お勤め帰りらしき女性の姿。
続いて私も、もう諦めて、自宅に入ろうと歩き始め、なんとなく、今しがた通り過ぎた女性の後ろ姿を見送っていたら、なんだか、怯えているように感じられ。
考えてみれば、
この寒いなかを、パジャマ姿のオバハンが、両手で「指メガネ」つくって、呆けたように、あらぬ方角の夜空を見上げ、立ち尽くしておる。
たぶん、あたまオカシイ人だと思われちゃったのかもw
ところで、
うちには、私が若い頃に大奮発して買った、本格的な大型の双眼鏡が ある。
ほんとうは、天体観察用の望遠鏡が欲しかったんだけど、予算の つごうと、できるだけ、収納スペースを取らないほうが、と考えて、用途も広そうな双眼鏡にしたんだけど。
これは、お月さんなら、すぐ目の前で見ているような錯覚を起こすほどの大迫力かつ鮮明に見える優れもので、いきなり覗くと、思わず、自分の足が地面に着いているかどうかも心もとなくなる恐れが あるので、よろけたり、ひっくり返らないよう、気をつけながらでないと、ちと危ないくらい。
過去エントリーでも書いたことが あったかと記憶するが、
これでもって、クレーターまでもクッキリした月を眺めた人は、まず間違いなく、溜息を つきながら感動のコトバを洩らす。
「うぅーーーん。。。丸いなあ」
とかw
むかし、親父が、中国へ観光旅行することになったとき、憧れの『万里の長城』あたりで眺めたいから、おまえの双眼鏡を貸してくれよ、と せがんできたけど、
私が大事にしているものほど、破損したり置き忘れてきたりする兄の父親だけあって、よく似た粗忽者なので、断固として断った。
逆恨みされたけどねw
『木星と土星が最接近 400年ぶりのランデブー』12/21(月) 19:16配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b86e55ae15dce90c9b681a283c9155fdab12ccf1
翌夕刻にも、ほぼ同様の光景が見られるということなので、じゃあ、寒いのガマンして再チャレンジするかぁと思いつつ。
そして、翌夕方になった。
今度は抜かりなくと、時間を確認し、寒いので、戸外には出ず、室内の窓からベランダ越しに、南西の空を見てみると、たしかに、薄雲が かかっている そのあいだから、わりと明るい星が見える。あれが『木星』なのかな??でも、、、一つしか見えない。
自慢の双眼鏡を使えば、『土星』も、『木星』の衛星たちも見えたんだろうけど。
クローゼットの高い位置に収納したっきりなので、探して出すのがメンドクサイ。
それにしても、
近年、夜空を見上げるたびに思っていたのが、「満天の星空」というやつが見えなくなったこと。
うちの母親は、そういう夜空を見ると、思わず窒息してしまいそうになる感じがして恐いと言ってたもんだが。
やっぱり「光害」ということの影響なのだろうか。ここいらは それでも、私が子どもの頃は、比較的に田畑も多い、田舎っぽい地域だったせいか、裸眼でも「星くず」さながらの夜空を見ることが できたんだけどなあ。
ところで、これも数ヵ月前に書きかけのまま放置していたんだけど、今回の『木星&土星』の話題で、そうだったと引っぱり出した。
「宇宙――究極のリサイクル世界」という、マイ・チョイ仮説ですw
私個人は、願わくば、この「リサイクル」プロセスから永遠に脱出したいと思うんだけど(苦笑)
「死後の世界」、当然、ありますでしょ、ええ。
ただし、ハッキリ言えるのは、「物質」世界としてのこと。
だって、この世は、どこまでも物質の世界だから。
ゴチャゴチャした感情やら様々な思いや考えを めぐらしたりやらも、脳を含めた肉体という物質が あってこそ、
そこから発生する「保全欲求」が基盤なので。
もちろん、それは、われわれにも理解できうる範囲内の世界のことだろう。
古来、人類究極の知的希求、すなわち『宇宙』発生前後の時点を考えると、いまのとこは「お手上げ」しか できないものね。
最初はギュウ~ギュウ~と犇めいててですな、
そっからドッカー――ン!!と、、、
…どう表現したら いいのやら(苦笑)
生物が、無生物から発生したことと、どこかの段階で、ある意味で、似ているのかもしれない。
すべての「生命体」という物体・物質は、死後、原初の最小のレベルまで還元されたあと、
長らく、あるいは しばし、とどまっていた この地球上の大気圏から、少しずつ少しずつ、大気圏外へ、宇宙空間へと漏れ出していくのだろう。
やがて、辿り着くのは、『ブラック ホール』の崖っぷちかな?
この宇宙空間から、別の宇宙空間へ??。。。
だとすれば、
「お空の お星さまになりました」
って、あながち、嘘でも間違いでもないかも(笑)
――ホラ、遠くの空で、石ころが光ってる。
『キャプテン フューチャー』のテーマ
CUSCO“Saturn”
どこか、イギリスの古謡のような。
ホルスト 組曲『惑星』から『ジュピター』
『ユピテルとセメレー』(部分)Moreau(1826-1898)