2017.02.22 (Wed)
『箸と歯ブラシ』の続き。
小学生にもなって、これだもの。
そりゃあ、幼児はねえ。
まして、年齢の近い きょうだいが いると、子どもは、何を やってるときもフザケるものだし。
子育ては大変ですね。
でも、それも、人生のなかで いっときのことですから、
親さんがた、なんとかガンバってくださいませ。
夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』より抜粋
~風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌している。
顔を洗うと云ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から濡れ雑巾を引きずり出してしきりに顔中撫で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびに おもちろいわと云う子だから このくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって自ら任じているから、うがい茶碗を からからかんと抛り出して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中から ぽたぽた雫が垂れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりが したたか濡れる。坊やはこれでも元禄を着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落れた事を云う。その癖この姉は ついこの間まで元禄と双六とを間違えていた物識りである。
元禄で思い出したからついでに喋舌(しゃべ)ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸が飛んで来たり、御茶の味噌の女学校へ行ったり、恵比寿、台所(だいどこ)と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺して見ると裏店と藁店を混同していたりする。主人は こんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「元どこが べたい」と云って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉の瓶をあけて、しきりに御化粧を施している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫でたから竪(たて)に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明(ぶんみょう)になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満の体に見えた。
~
長火鉢の傍に陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、先刻(さっき)雑巾で顔を洗った坊ばと御茶の味噌の学校へ行く とん子と、お白粉罎(びん)に指を突き込んだ すん子が、すでに勢揃をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄の刀の鍔のような輪廓を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影を存して琉球塗の朱盆くらいな資格はある。ただ坊ばに至っては独り異彩を放って、面長に出来上っている。但し竪(たて)に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化し易くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速やかなる事は禅寺の筍が若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後ろから追手に せまられるような気がして ひやひやする。いかに空漠なる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うと ほかに何にもない。ただ入(い)らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。
さすがに子供は えらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利かして、食事のときには、三歳然たる小形の箸と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪(にく)い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽しているのである。その因って来(きた)るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶で癒(なお)せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
坊ばは隣りから分捕った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅(ほしいまま)にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢(いきおい)暴威を逞しくせざるを得ない。坊ばは まず箸の根元を二本いっしょに握ったまま うんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易する訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎ね上げた。同時に小さな口を縁(ふち)まで持って行って、刎ね上げられた米粒を這入るだけ口の中へ受納した。打ち洩らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと頬っぺたと顋とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。吾輩は謹んで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等(ら)の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等の口へ飛び込む米粒は極めて僅少のものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷(とまどい)をして飛び込むのである。どうか御再考を煩わしたい。世故にたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。
姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋をあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらく眺めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、焦げのなさそうなところを見計って一掬(ひとしゃく)い しゃもじの上へ乗せたまでは無難であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯は塊まったまま畳の上へ転がり出した。とん子は驚ろく景色もなく、こぼれた飯を鄭寧に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
坊ばが一大活躍を試みて箸を刎ね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそい了(おわ)った時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御ぜん粒だらけよ」と云いながら、早速坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頬っぺたにかかる。ここには大分(だいぶ)群をなして数にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ抛(ほう)り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中にこたえる者はない。大人ですら注意しないと火傷をしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏しい者は無論狼狽する訳である。すん子はワッと云いながら口中の芋を食卓の上へ吐き出した。その二三片が どう云う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固(もと)より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を抛り出して、手攫みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。
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