2019.12.01 (Sun)
日本には、もう来なくていいよと言われちゃいそうで?さらば夏の日(笑)
このエントリーも、おおよそ書きあげたまま、長~いこと放置してあったので、季節が完全にズレてしまった。。。
いつまでも暑いなあと思ってたら、急に寒くなったりで、とうとう、久しぶりにカゼっぴき。ひょっとするとインフルエンザかもしんないと思った。
そして、ただいま二度目のカゼっぴき。
さて、いつぞやの過去エントリーでは、子どもの頃、「ピンポン ダッシュ」を やらかしてたくらいの、「ボタン」への、われながらヘンな趣味・嗜好性を挙げたけれどw
これも、むかしからの性向なのだが、どういうものか、名前の、と言うよりも、正確には音韻の感じを受けて、ある種の快さが齎されると、たちまち好印象を抱き、対象へ多少の興味を持つという傾向が、私には ある。
とは言え、
ほぼ日本語の表記によっている感覚なのだから、当該国における実際の発音を聞いたら、印象や感覚がガラッと変わってしまうのかもしれないが、
外国、特にヨーロッパ圏やアメリカの、画家や作曲家、哲学者に対しても そういう傾向が あるので、詩人や小説家であれば、ごく一例を挙げると、たとえばヘルダーリーンとかノヴァーリスとかいった名前を一見しただけで、その著作を読んでみたいと、ほぼ反射的に欲してしまうような、自分でも不可解なほど妙な癖が ある。
ハインラインという作家の名前も、かねてから、なんとなくムシが好くので、いつか読んでみようかなと思いながら、私は、乱読だった若い頃の ある時期から、どちらかと言えば、より古い時代のもの、要は古典から、なるべく優先して読んでいこうという志向を、系統立てて読むということと共に意識して持ち始めたためも あって、くだんのハインライン『夏への扉』は、その他の現代ものや多くのSF小説と同じく、そのまま全く未読だったのだけれど。そろそろ読んじゃおうかなと思ってる。
『夏への扉』
リッキー♪ティッキー♪タビー
今年の暑さが本格的になる直前の頃、
自転車に乗って出かけたとき、なぜか、山下達郎の『ナツヘノトビラ』が、ふと浮かんできて、こころのなかで口ずさみつつ漕いでいった。
帰りは大荷物になり、必死で自転車を漕いでいたら、通りすがりの小道に、猫が現れ、私の自転車に驚いて、すぐ横の植え込みの茂みに隠れた?と思ったら、なぜか、すぐ また出てきたので、バランスを崩しそうになってヒヤッ。
その猫、まさに「タビー」だった(笑)
で、
その後、しばらくした ある日、出かけようとしていたら、ふいに、その猫ちゃんが訪ねて来てくれて、撫でて~と言わんばかりに、そばまで寄ってゴロンと横になったので、最初は遠慮がちに手を伸ばし、「どこの おうちの子~?」と聞きながら、のどのあたりとか撫でてあげた。
毛並も汚れてないし、痩せてもないし、人懐っこいから、たぶん、どこかの家で飼われてるんだろうと思う。
いやあ、何年ぶりかなあ、こんなふうに、ニャンゴに触ったのは。。。
(その後も、また会いに来てくれた)
このことも、旧ブログか過去エントリーで書いたことが あったかな、
むかし、うちの実家の庭に居ついた数匹のノラの子猫たちのなかでも、ひときわ小さくて病弱の子を、特に可愛がっていたのだが、
真冬の、ひどく寒い ある日、カゼを ひいたらしいと思ったら、あっという間に肺炎状態までなってしまい、いそいで、家のなかに入れてやり、2日ほど看病してみたけれど、どうも思わしくなく、苦しそうにしているまま、回復しそうにない。
もともと、猫が あまり好きではない親らが、「やめとけ!たかがノラなのに」と反対するのを押し切り、近くの動物病院へ、温かく包んでから連れて行った。猫は、苦しい息ながら、包まれた布のなかから身を乗り出し、今ここは、どこ?という感じで、必死に、あたりのようすを確認していた。
動物病院に着いて、診察してもらってるあいだに、あとから、うちの母親も やって来て、診察台に載せられている猫に向かって、この人の いつもの癖でもあった、芝居がかったようすで、泣きながら、声を かけていたが、当の猫は、もの言いたげに、ずっと、私のほうを見つめていた。
…
医院の受付で、「できるだけ、お見舞いに来てあげてくださいね」と言われ、
さすがの親らも、これは もう、うちで飼うしかないなあと諦めたようすで、それならば、ちゃんとした名前を付けてやらにゃあと、候補を幾つか考えつつ、とりあえずは、やれやれだと安心していた。
しかし、すでに遅かったようで、猫は、あっけなく死んでしまったとの連絡が翌朝に入り、
まさに、その猫を案じる心理が表れたと思しき悪夢
(聳え立つ、ぶ厚く白い壁の向こうに行かなければと、通り抜けられそうな箇所を、延々と探し続けるのだが、どこまで行っても見つけられなくて酷く焦っている、そんな感じの夢だった)に うなされつつ寝ていた私は、親に起こされて飛び起き、
顔も洗わないまま、人目も憚らず大泣きしながら、自転車を漕いで、その動物病院へ再び向かった。
大むかしの哀しい思い出だが、いまでも鮮明に よみがえってくる。
人間で言えば、幼稚園児くらいのうちに死んでしまった子猫は、他の子たちよりも小さく、病弱だったせいか、警戒心が つよい性格で、他の人には なつかなかったのに、なぜか、私にだけは、初対面から、気を許していた。
最初の頃は、ご近所の人に、食べ物を もらっていたらしいのだが、
「エサねだってるときに、ぎゃーお、ぎゃ~~~お、と、もの凄い声で鳴きよるから、そこの家の奥さんが、『ああ、ギャーギャーさんか、ふんふん、ギャーギャーさん、あんた、なんで、そんなヘンな声で鳴くの?』って言われてたで」
と、母も笑っていたのだが、うちの庭で、私と出会って、
「おなか すいてるん?」
と、声を かけたら、
「にゃん♪」
なんとも可愛らしい声で返事できたよ、と、母に言うと、
「この姉ちゃんなら、わざわざ凄み効かせた声で鳴かいでもエエんちゃうかと思たんやろ」
と苦笑していた。
洗濯物を干していると、いつの間にか、私の足もとに静かに座っていて、うっかりと竿を落としても、飛びのいて逃げもせず、じっと佇んでいた。
フシギな偶然で、その子もタビーの男の子だったの。
【続く】