2015.11.20 (Fri)
医療技術、医療全般の発展に貢献しているのです。
それを排除していくならば、長いスパンでは、やがてのことに、医療の各方面で発展可能性は妨げられることになるだろう。
ここまで考えを めぐらしている人は、ほとんど、見たことがない。
それどころか、
この記事に寄せている「フェイスブック」コメントの有象無象らの見苦しい浅薄度合は毎度のこと、
仮にも教育委員を任じている、どこぞの社長さん、それも女性が、、、(呆)
ナチスの「優生思想」じゃあるまいし
『障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員発言』
朝日新聞デジタル 11月19日(木)3時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151119-00000006-asahi-soci
茨城県の教育施策を話し合う18日の県総合教育会議の席上で、県教育委員が障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」と発言した。
発言したのは、今年4月に教育委員に就任した東京・銀座の日動画廊副社長、長谷川智恵子氏(71)。発言を受け、橋本昌知事は会議で「医療が発達してきている。ただ、堕胎がいいかは倫理の問題」と述べた。長谷川氏は「意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などとした。
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(文字強調部分は、当ブログ主による)
しかし、この長谷川さんという「教育委員」は、カネの問題を最重視しての発言なのか。
さすがに、その後、撤回したということだそうだが。
思えば、
「選択」でき得るという可能性については、医療等の発達・発展に代表されるように、古今東西の人類が常に希求し、手に入れようとして、もがくようにしながら、ハードルを一つずつ乗り越えるごとく飽くなき努力を重ねてきたことには違いないだろう。
私も、そういう選択の余地を許すことに、全く反対するべきとまでは思えない。
私自身、乳幼児期からの、単純でない内部障碍を持っているので、ただでさえ、筆舌に尽くし難い苦労を することが多い人生だったし、大学受験のときにも難儀したし、社会に出たら、仕事で支障があったときなどに、どう説明してもと言うか、
そもそも、理解を期して説明しようとすること自体がワガママ、傍迷惑だとまで言われたこともある。
世のなかの人々も いろいろで、
親切な人も、たまには いるし、優しいから気を回し過ぎて、的の外れた親切が空回りしてしまう人もいるし、まあ、どちらにせよ、あたたかい気持ちは嬉しいかぎりだけれど、
やはり、圧倒的多数は、偏見的で、無理解だし、
必ずのように一人や二人は、不可解なほど、底意地の悪いことを仕掛けてくる人だって いる。それも、あかの他人だけじゃなく、身内にすら いるのだ。
わが子が障碍児であった場合に、受容できるか否か、
どの程度なら、ある程度は受容できるか、それとも、全く受容できない、受け付ける余裕が ないか、
体力的にか、精神的にか、
親のほうも、その人によって様々だ。
なにしろ、うちの親なんかは、みずから、自分の子に障碍を もたらすような行為を冒したし、
こういう面では特にハッキリとしたネグレクト剥き出しで、
結局、子の行く末について無責任そのものだったし、
私は正直、「生まれぬが幸せ」と、
子ども産む者は、根本がノーテンキ、人間以外の動物並みに思考停止、ひらきなおりの極致とも見える楽天的それは言い替えればアホだから、とまで思いたくなることも往々にしてあるw
たしかに、
親であれ本人であれ、まさに当事者になってみないと分からない苦労が多々あるはずで、
それは、障碍が「重い」か「軽い」かを比べても、あまり意味がないし、
私のように、あるていどは自力でコントロール可能というか、それが可能なら、ほぼ全く、自分一人だけで対処しきらないとならない、
それだけに周囲が冷淡で無関心でも、
それを苦にして自暴自棄になったり、他者に八つ当たりしたりせず、ぐっと こらえるだけの理性を維持することが できる障碍なら まだしも、
サポートする側の苦労もハンパでない難しい種類の障碍者となると、
むしろ、本人以上に、周囲が大変だということは理解できる。
そう、
愛情ある誠実な親ですら、わが身が産み落とした子の人生に、
結局のところ、最終責任とれない。
それが現実。
そして、この国には、生き辛い面も大きい。
ま、くだんの長谷川イインさんを含めた大多数の人は、
改善するべき方向性を、根本からカン違いしてるんだわね、多分に。
ところで、産経さん、
この部分↓しか目にしていないけれども、
「当事者でない他人事」
と言えなくなる事態は、誰も排除しきれないでしょ。
誰しも、まさに その「当事者」となって直面せざるを得ないときが来るのを排除できるとは限らないよね。
よしんば、先天性の障碍児を極力排除できたとして、
では、
私などのように、ごく幼い頃からと言えど、後天性である場合を考えると、
寿命が長くなっただけに、誰もが、はたして、その全人生を通して防ぎきることができ、排除しうるのか。
それにしても、
「一億総活躍」だってw
もう一度、言っておこう。
事実、障碍者や病人こそは、医療・療育全般の技術発展や研究に貢献しているのだ。
排除していくならば、その分、
長いスパンでは、こういった分野の拡大発展可能性は多かれ少なかれ狭められることになるのを覚悟せねば ならないだろう。
もともと、多数層ではなく、全体的には少数存在である。
これを、もっと減らしていけば、より少数となり、
ニーズ減少と共に質も下がり、
したがって、
もっと無視や蔑ろにされやすくなり、
ますます生き辛くなる。
それは、やがて、世のなかの広範囲に、
「当事者」でない者にも、行く末に影を落とすことになるだろう。
現代人の長命と、昔なら、まず不可能と診断されるほど困難だったような人でも生き延びる可能性が飛躍的に高まった。
それと共に増加した難題。
ただ排除するという対処方策によって解決しようというのならば、
ことは、それこそ、障碍者や病者の予備軍たち、つまりは、
いまのところ「当事者」ではないと言える人々の、それぞれ個々の人生においても、いずれは、情け容赦なく切り捨てられる日が来ることをも覚悟して受け入れなければ なるまい。
「あすは我が身」。
【続く】