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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2023.03.15 (Wed)

大昔から、特に『中国』を中心に、アジアに おいては、「子どもは財産」という基本感覚が あると聞いていた。中国や朝鮮、もちろん、日本に おいても、「養子」という現象は、身分の高低を問わず多かったとも聞いている。

敗戦後、逃げ惑う日本人たちの子どもを、積極的に引き取った中国人の養父母が多かったことも知られている。

共通していることの一つは、やはり、労働力の補充という意味が大きく理由だったであろうし、殊のほか、「家」意識が つよいゆえでもあった。
一個の家のみでなく、地域・組織の存続のためも、また、現代のように、一人だけでも生活が可能なほど、便利でなかったことも大きいだろう。何事も手分けして しのぐための人手が多く必要だった。

 

近頃、大騒動となった()『統一教会』の教義になっていたのかどうか、私は詳しくは知らないけど、

べつに必要もなさそうなのに、信者の家庭間で、子どもを やり取りすることも奨励してきたということが明るみに出て、問題になっているようだ。

 

ところで、

最近、読んだ記事は、日本国に おける「養子」制度の長く根深い問題を取りあげている内容で、読みながら、いろいろのこと、あれや これやを想起していた。

 

わが大阪出身の、著名な学者であり、弟子にして同性のパートナーが いた折口信夫(釈迢空)氏は、最愛のパートナーが、徴兵の事態に直面し、いまこそ、彼に対する責任を取ってやらねば!と思い詰めて、この藤井(折口)春洋氏を、自分の「養子」ということにした。応召されていた春洋氏は、戦地で斃れ、折口氏は、みずからも亡くなったあとに、深く愛した春洋氏と二人で眠るべく設けておいた『父子墓』のことでも知られている。

 

しのぶと はるみ。(偶然とは言え、どっちも女の子みたいな名前ね 笑)

 

養子と言えば、

うちの親父は、母方の貧乏な伯母の所帯へ養子に迎えられと言うよりも、連れて行かれたというのが実態だったらしいのだが、このあたりの事情も、当ブログの ところどころで、おりに触れて述べてきているので、少し知っている読者さんたちも おられるかもしれないが、

もともと、親父のほうの実家は、非常に裕福で、先祖代々、『兵庫』県内の片隅のとは言え、武家による治世、「藩」の時代には最高位クラスの家柄だったので、その末裔たる、親父の実父すなわち私の実祖父は、当時の運輸系官僚に相当する身分となり、後年、実の息子である親父が生育することになった『千葉』県内へと、ある大掛かりな公共事業の指揮・監督者として出向くことになった。
まだ若く、独身の青年官僚だった実祖父は、初めて赴く土地で、自分と国家の輝かしい未来と将来性を賭ける気分で張りきっても いたことだろう。

あるとき、赴任した現地にて、経緯は知らないが、何かの切っ掛けで、とある若い女性と出会い、たちまち一目惚れしたという。

その女性が、後年、親父の伯母であり養母となるわけだが、

実祖父が、ひどく残念がったには、彼女には、すでに亭主が あったので、しかたなく諦め、その代わりに、彼女に妹が いるということを聞きつけ、あいだに入ってくれる人に、ぜひとも、その妹さんを紹介してくれろと、いっしょうけんめい頼み込んで、希望は叶い、

なにしろ一目惚れした女性の、血を分けた妹なのだから、期待どおりの別嬪に違いないと喜び、昔は、よく あったことだそうだが、多忙のせいも あったのだろう、さて結婚式に臨む当日になって、初めて、ご対面となった。

 

花嫁の顔を見たとたん、

花婿である実祖父は、しくしくと泣きだし、

式の始めから終わるまで、さめざめと泣き通したというのだ(苦笑)

 

 

ここで、テキトーな替え歌を どうぞ♪
(名曲『花嫁人形』のメロディでネw)

 

〽羽織袴に威儀ただしつつ

〽花婿どのは、なぜ泣くのだろ

 

 

後年、一代で のし上げた企業経営者となりながら、働き盛りの年齢で亡くなってしまった、親父の実父とは異なり、
未亡人となってのちも、並はずれて長生きした、若かった実父にとっては想定外の「猿顔」だったらしいw実母の葬儀のおり、

生家の兄弟姉妹たちとの会食の席にて、

身内のなかでは、よく知られているらしい、かつて、彼らの両親の婚姻の席で起こった、あの哀しい涙の出来事を持ち出して、ウハハ♪と、
うちの親父一人が大笑いしてみせた。

そのことに激昂した、実の姉妹たちが口々に、

「◇■ちゃん!!(←親父の愛称)emojiあんたは、自分だけ千葉に養子に出されて、この家で育ってないからって、それでも、あんたにとっても、産みの母親やんか!実の母親を、よりによって、葬式の日に笑い者にするなんて、あんまり酷いやないの!!」

このように責められたことを、帰宅した親父は、私ら家族の前でも再び笑いながら披露していたのだが、

母方の伯母の所帯へ養子に行った経緯について、親父の女房である私の母親はと言うと、

まず、私の実祖父が、非常に裕福であったことから、
そこのところで、なにがしかは含んでいたに違いないと、
いささか冷たい視線で憶測していた。

 

うちの母親は、親父との不倫で産んだ私を連れて、いまで言うデキ婚・略奪婚みたいな経緯だったせいもあり、親父の実母からも白眼視されていて、いっさいの交流が なかったし、私自身は、ごく幼かったので、そのへんは何も覚えていないのだが、いちおう孫娘の一人に違いない私に対しても、親父の先妻の子らとは全く異なった態度で、冷たい対応だったのだという。

そんなわけで、

私の母親にしてみれば、プライドを いたく踏み躙られて、おもしろくない姑だったのだろうが、

私にとっては、ついに一度も会ったことがない、顔も知らないので、実の祖母とは言え、ほとんど他人も同然、冷たく あしらわれた、などという話を聞いたところで、べつだん、腹も立たないどころか、無関心なままである。

 

息子である親父にとっても、閉口する実母だったそうで、

戦後、例の「掛け算事件(または、タテヨコ事件w)」で、進駐軍の兵士と大ゲンカしたあげくに、職を退き、

当初は、千葉で結婚していた先妻と子ら、ならびに、ほどなくして亡くなることになる養父を置いたまま、自分だけが、実父亡き後、もはや没落してしまった生家が残っている大阪へ出てきて、とりあえずの仕事と居を定めようとしていた頃、

さしあたって仕事の世話を確実に頼めそうな、これも会社を経営していた、姉の夫に向かって、

この息子(←うちの親父)は有名大学を卒業しているだの、国家資格を持っているだの何だのと、自分の手を離れて育った息子の再就職をば有利にせんものと気負ってか、さんざんにホラを吹いたもんだから、
なんとか就職できた後も、30歳代にして、小学生に混じって、そろばん塾へ通ったという親父は、実母のホラの おかげで、恥を掻き、よけいな苦労を させられたと、これまた恨んでいた。

 

 

私は、

うちの母親が亡くなってから、実家に通っては食事を作り、食後の親父の繰り言や思い出話の相手をしている頃に、あるとき、ふと、

「せやけど、千葉のほうの、おとうさんの母方って、三人姉妹やねんから、わざわざ、遠い大阪へ嫁いだ真ん中の妹の息子やなくても、自分の地元で結婚した末の妹の息子が何人も近所に いたんやし、そっちから養子を もらったほうが、よっぽど早かったんと違う?」

と、疑問を差し向けた。

すると、親父は、しばしキョトンとしたあとで、

「あっ、、、そう言や そうだな!」

「おふくろ、なんで、わざわざ大阪まで、俺を引き取りに来たんだろう?」

「俺、おまえに言われるまで、ちっとも考えたことなかったわ」

と、首を捻りつつ言っていた。

(結局、見るからに俺が可愛かったからだろう!ということにして、一人で納得していたw)

 

 

あらためて考えてみるとフシギだ。

出産できない身体となったり、自身で産んだ子を持つことの できない人生だったのは、私の母方の叔母が そうだったし、親父の養母であり実の伯母が そうだった。

 

親父は、生家に おいては三男坊、養家に おいては跡取りである一人息子。

 

出産できず、子を持つことが なかった私自身も、親父にとっては三女なのだが、両親の あいだでは、一人娘でもある。

こういうこと、多いんですわ、うちの身内は。

 

【続く】

 

 

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