2023.03.15 (Wed)
『【落とし穴】日本の養子制度』の続き。
というわけで、
親父の母方の伯母(のちの養母)は、戦前の まだ不便な時代に、千葉の片田舎から大阪までも、列車を乗り継ぎ乗り継ぎ、鼻の穴を真っ黒にして、よれよれクタクタの貧しい姿で、大都会『大阪』の どまんなかに大邸宅を構えていた妹の嫁ぎ先を訪ねてきて、まだ あかんぼうの親父を、ほとんど もぎ取るように、連れ帰って行ったという。
その頃は、三男坊だった親父だが、いまだ乳飲み子であり、自分よりも気の強い実姉に押し切られた ていで、あかんぼうを奪われた実祖母は、しばらくは泣いていたそうだが、
うちの母親の
「貧乏な末妹の息子よりも、大金持ちに嫁いだ妹の息子を養子にしたほうが、何かと有利に決まっとるからなぁ」
という、
冷静というか、いささか意地悪く穿った推測に対して、
親父は常に、断固、否定していたのだが、
たしかに、私の母親が言うとおりだとしたならば、もらわれていった親父が、貧乏な伯母の家で、終始、何かにつけて不自由したまま、進学の希望も叶えられなかったという理由が分からない。
最初から経緯や事情を熟知している叔母たち親戚も身近に いるわけで、
ほんとうは、実の子じゃないんだよと、こっそり遠まわしに伝えてくる者も いたそうだが、当の親父は、なぜか、気にしたことが ないらしい。
ただ、そんな親父が言うには、
養母は、大阪の生家に対し、千葉へ連れて帰った子のことで、経済的援助を乞うなどのことだけは、頑として やらなかったのだと。
そうこうしているうちに、養母が病没し、やがて、大阪の実父も病没。
双方とも若死に。
親父は、まだ小学生にも かかわらず、友だちと遊びたいのもガマンして、
毎日、残された養父のための買物を して回り(昔の田舎だから、すごく不便)、つたないながらも食事を作り、
小学生の男の子が拵えた、その食事が みすぼらしい、マズイ、なんだコレは!と、
養父に文句を言われては、お膳を引っ繰り返され、殴られる日々。
学校一の優等生なのに、疲れ果てて、宿題すら できかねるし、進学の希望を一蹴されるに決まっている状況のなかで考え詰め、
あの時代、出世する可能性を最も狙えた士官学校に志願し、合格して入学したわけだが(県内では、合格した者は僅か数人しか いなかったらしい)、
とりあえず跡取りの一人息子だからということで、戦地には出されずに済み、近衛連隊の青年将校として、『天皇』や その一族の護衛として、宮城に詰めたりしていたわけ。
親父の実の兄たち二人は、その下に、まだ末弟が いるからというわけでか、応召後、戦地に配属された。
で、二人とも、相次いで戦死してしまった。
本来なら三男坊である親父に、生家を継ぐ役割が降ってきたはずなんだけど、幸か不幸か、養子に出ていたため、言わば、命拾いしたようなもんなのである。
私としては、
うちの親父こそは、戦死が確実な激戦の前線へと配属されるべきだったのに、チッ!
と思ってきたw
で、
田舎者にしては、なかなか ととのった容姿だったという親父の養母はシッカリ者で、実の妹ながら、似ても似つかぬ猿顔の、ちゃっかりタイプだった実母以上に、キッツイ性格だったそうですw
うちの息子にしたいと つよく望んで、実妹から奪い去るように迎えた甥である親父に、けっして、愛情がないわけでは なかっただろうけど、
躾が厳しいというよりも、ほとんど虐待に近いというので、それを見ていた末妹の息子(親父の従兄弟)たちは、自分たちに お鉢が回ってこなかったことを安堵していたというくらい、ヒステリックで、キツかったらしい。
いつも、こめかみに、頭痛よけの膏薬を貼っていたそうな。
それらの話は、私の母親が、法事などで、親父の田舎へ一緒に出向いて行ったおりに、そのイトコたちなどから聞いたと言っていた。
それでも、当の親父自身は、養父のことは憎んでいても、伯母である養母のことだけは断固として庇っていた。
私自身の母親も気性が激しかったし、大らかという以上に、だらしない面とともに、たいがいキツイ面も あったから、
「もし、おとうさんの母親と、うちの おかあさんが、ふつうに嫁姑で暮らしてたとしたらサ、毎日毎日、『□▼子さん!!(←うちの母親の名前w)なんですコレは!?』って、すごい剣幕で、お互いに衝突し合ったやろなあ」
と、私が言ったら、さすがの親父も、
「そうだな」
と、認めて苦笑していた。
これも、ちょっと今、思い出したんだけど、
私がハイティーンの頃に、生まれたときから可愛がってくれていた、もともとは母親の知人である夫妻が、ある晩に訪ねてきて、早速、毎度のように、にぎやかな酒盛りが始まった。
おじさんのほうは、飲み進むにつれて、ますますキゲンが良くなり、饒舌になって、若い頃の下積みや苦労話のなかで、たいへんな重労働にも耐えてきたことなどを誇らしげに披露しながら、こう言い切った。
「そういう仕事を やり遂げてきて、結果、いま、ワシが思うに、世のなかに、重労働というものは ないんだ!と」
このように宣言した。
横に座った私が、おみやげに もらったチョコレートを齧ったりしつつ、耳を傾けていると、
杯の手を しばし止めた親父は、ポツリと、こう言った。
「ま、そもそも重労働とは何か?ってことだな」
と。
けっこう哲学的な返しでしょ?(笑)
そんな親父の愛読書の一つは、
『山本五十六』に並んで『どんと来い!税務署』www
(ごじゅうろく、ってwヘンな名前!と言って、「いそろく、と読むんだよ、偉い人なんだぞ」と、諌められた私w)、
ちなみに、
おじさんは、肉体労働を中心に頑張って生き抜いた人だけど、
親父は、まあ、曲がりなりにも、いちおう頭脳労働者だった。
うちの両親と、おじさん・おばさん夫妻は、全員、1920年代から1930年代の生まれである。
つまり、戦前に生まれ、戦中に育ち、あるいは親父のように、ごく若くして軍隊に入り、敗戦後は「高度経済成長期」時代に、ばりばり働いてきた。
もちろん、じゅうぶんに報われたとは限らない。
むしろ逆のことも多かったろう。
親父なんかは、幾つかの中小・零細を相手の企業経理やってたから、経営者と、その会社の内実と問題を、経営者たる本人以上に、つぶさに知ってるわけだから、自分の報酬を、もっと上げてくれとは言いにくいどころか、いちばん後回しだし、
同時に、
個人経営者と、その一族が、税務署の追及を かわす裏で、どんだけの狡い、だらしないことを やってるかも知っているから、不本意ながらも、それを手伝ってる立場であり、ものすごい苛立ちや葛藤も あったんだろうと思う。
クライアントのなかの、とある同族企業の社長とは(『芦屋』育ち、フランスの混血ボンボンです)、税務署を上手いこと やり過ごしたことの祝いに(?)wお酒を酌み交わしている途中、経営状況のことを話し合ううちに、いつしか、どつき合いの大ゲンカとなり、翌朝、親父の顔を見たら、大きなタン瘤が できていたという話も、過去エントリーで述べたことが あったけど、たしか、あのゴーンさん逃亡事件のときだったかな。
てなわけで、
これが大企業だと、さぞかし、、、推して知るべき、ってとこですかな?
まあ、大企業クラスを担当する経理マンともなれば、うちの親父どころでない、大規模な誤魔化しや法の抜け道もガシガシ利用してるんだろうかねえw
母親から聞いてたけど、
「決算期に入るとな、おとうさんの体重、ガタッと減るんや」
と。
だからか、この時期は、親父のために、乏しい家計のなかから、お刺身や肉料理を精いっぱい並べていたのを憶えている。
さて、それでね、ここからが、私の推測、憶測なんだけど。
実祖父は、そもそも、親父の伯母のほうに一目惚れだったのだというでしょ。
それを、妹でガマンしてwご対面、そして、泣きながら結婚(爆)
それでも、子どもは順調にズラズラと生まれた。
それが、世の男女の現実よねw
で、
甲斐性のない男と結婚した分を、女房である自分の細腕で稼ぎつつ(結い髪とか縫物とか、とくに習ったわけでもないのに、いろいろと器用で、田舎の女性には珍しく、技術を持っていたそうだ)、
親父を もらう前に、ある女の子を一人、一時は養女として迎え入れていたらしいんだけど、何の事情が生じたのか、結局は戻したという。
ちなみに、
親父は、だいぶ後年になってから、その女の子の消息を知る機会が あって、それ以来、「あねさん」と呼んで、交流を続けていたようだ。
昔の女性にとっては屈辱的で、ほとんど致命的なほどのことだったという。
けれど、自分には、実の子は一人も できない。
言ってしまえば、姉である自分の身代わりとして嫁いだ、ブサイクな妹は、まさに「棚から牡丹餅」だ。
都会の お屋敷住まいで、子どももスムーズに何人も生まれている。
かつて、あれほど、自分に一目惚れした男との。