2014.10.13 (Mon)
で、また「人権」の問題だ。
これも先日のエントリーで述べたことだけど、
人権というものは、徹底的に及ぶ及ばせるものあって、
たとえば、加害者だから例外、とできるような安直な概念ではないよ。
まあ、哲学的なセンスの一切ない、簡単に「自己責任」だの「自業自得」で済ませてしまえる日常レベルの思考だけで満足できてる人には、おいそれと理解し難いものだとは思うが。
どうあっても、許さない赦さないなら、それも自分の好きにしたらいいことで、許す赦すも許さない赦さないも、心のなかのことは、他者の強制できることでは ない。
ただ、「感情」や「感情論」を蔑む資格は、誰にもなかろうと思う。
およそ人間社会を 成り立たすルール、法というものは、人々の素朴な感情を基にしているはず。
現実として問うべきは、妥当性だ。
「自分が、同じ経験をしてみたら」と言うけれども、これも考えようで、
むしろ、自分が、ある事件の直接被害当事者ではないからこそ、
「目には目を」のつもりで、つい、
「目」だけでなく鼻も耳もと、先祖返りの世界にならず、
冷静に、妥当な判断ができる、そこを期待しているからこそ、
そもそも「無関係」なはずの第三者に委ねて裁判するのであって。
もちろん、「第三者」とは、最も、当該関係の情報に欠けているわけで、
だから、綿密に調査・検証を行なわねばならない。
そもそも人間的な想像力に欠けているような第三者では困るけれど。
さて、
自分の判断と行為で自分を守れない幼い子どもは、自己責任を持てないのだから、強制的教育を施すのは、基本的に、自分の判断と行為で自分を守れる養育者側としての責任となる。
ならば、他者の人権を尊重できる能力なき者、幼児並みの判断力の者も、同様としてしかるべきだろう。
「もうコリゴリだ」
と思わせるためというのが、刑罰の目的であるのならば、それも また、強制的教育のうちだ。
性犯罪を例にとって考えたら分かりやすいが、
幼児自身が主体的に起こす性犯罪などあり得ないだろう。
しかし、精神や知的のレベルが幼児並みだとしても、肉体としては人並みであれば、やはり、性犯罪は起き得る。
だが、性犯罪を性犯罪として認識できない者に、それを理由に処罰したところで、
反省するどころか、かえって、被害意識を募らせ、「歪」を拗らせてしまう懸念のほうが大きいのではないかと、これも先日に述べておいたことだ。
「被害者意識からくる報復によるものなのだから許しが必要なんだよ」
それ以上に大事なことは、未然の防止。
このことは、
ある意味、最大の不幸者である加害者自身の不幸というものを考えてみれば、
ただ野放しにしておいて、事が起きたら赦しておけばいい、では済まない。
なぜ、そうした「被害意識」を持つに至ったのかを的確に分析する必要がある。
真の「責任」を負うことは、予防のためであり、畢竟、社会全体にかかってくる。
再犯に対して滅法無力では困るので、厳罰化を主張する声も多く出るのだろう。
しかし、これでも到底、追いつかず、本当の予防にはならないだろう。
私なりのヒントは、先日も述べたことだが、
例の佐世保で起きた「同級生殺害・遺体損壊」事件の加害者宅へ、詳細は分からないけれど、
定期的に訪問を繰り返していた担任教師が、とにもかくにも無事でいられたという事実だ。
(続く)