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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.04.12 (Sun)

 

「八紘一宇」発言に対して、もう一度言う。

 

 

【産経系ブログ サイトにいたころのエントリーから】

日本 朝鮮 中国                     2010/08/25 18:10

閔妃

(「大辞林」の説明のほうが良いと思うので、こちらを とります。)

(1851-1895)朝鮮李朝、高宗の妃。明成皇后。大院君をしりぞけて実権を握り、開国論を唱えて 1876 年日本と江華島条約を結ぶ。壬午(じんご)の変以後は清に従属、84 年甲申の変で独立党を追放し一族の全盛期を現出。日清戦争後、大院君一派と日本公使三浦梧楼の謀略により宮中で殺害された。ミンビ。ミンピ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%94%E5%A6%83

 

八路軍(のちの人民解放軍)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D

 

清朝も そうだし、李朝末期の頃も、日本、朝鮮、中国が、陰に陽に、良くも悪しくも、どれだけ密接に関連し合っていたことか、あらためて実感する。

 

中国に残っていた日本兵が、一転、八路軍に加わった人も多いという話は聞いていたが、他の国でも、こういうことはあったようだ。

論じるならば、こういうことも踏まえたうえで、論じなくてはならないと思う。

 

 

魯迅の『藤野先生』を思い起こしたことである。

 http://www.zusi.net/meisaku/fujinosen/sendai.htm

 


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カテゴリ: コラむ 

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慟哭                              2010/09/19 00:21

戦後65年 埼玉防空の兄の遺体、27年後に陸軍機とともに発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100918-00000521-san-soci

■救えなかった引き揚げ孤児…蔵所禮さん(82)=山梨県富士河口湖町

 戦後まもなく、サイパン島からの引き揚げ孤児の救済の世話をした。栄養失調と全身湿疹(しっしん)の4、5歳の子供たちをドラム缶の風呂に入れ、温めた水筒を軍隊毛布で包んで湯たんぽの代わりにして、一緒に寝たり、夜中にろうそくの明かりで見回ったりした。配給物資の食事、カロリー計算、傷の手当て。一日も早く元気になってくれるように努めたが、次々に死んでいく。

 私が担当した10人の子供のうち、1人の男の子が口も開かず心を閉ざし、いつも右手を強く握りしめていた。夜中にそっと毛布をめくるとその子も冷たくなっていた。その右手を開くと髪の毛を握りしめていた。目の前で母親が兵士に殺された子供と聞いた。朝早くみかん箱に入れ、骨壺を作りリヤカーに乗せ、小高い丘の上の火葬場に泣きながら運んだ。やがて煙突から小さな煙が出ると急いで骨を拾って山から下りる、そんなことが幾度続いたことだろう。深く心に焼き付いている。
 

 

ずいぶん以前に読んだ新聞記事で、いまだに忘れられない衝撃を受けたことがある。

終戦時末期の混乱のなか、母親と、生まれたばかりの妹と共に、大陸から日本へ帰国するさなか、母親は死亡、親戚に連れられて、やっとの思いで、乳飲み子の妹を抱えつつ帰国したものの、飲ませてやるミルクすらない。

仕方がないので、周囲の大人のアドバイスに従い、フスマか何かなどの粉末を、どろどろに溶かしたものを飲ませてやったらしいが、あかちゃんには消化しきれるものでなく、いつも か細く泣きながら酷い下痢をし続け、やがて泣く声も嗄れ果てて、間もなく、これも、儚く こと切れてしまったという、幼い頃の つらい出来事を語っておられた婦人の話が載っていた。

 

先日のエントリーで紹介した、アメリカ同時多発テロ事件の体験者も訴えておられたように、やはり、風化などさせてはならないのだと、あらためて思う。
それは、想像力の問題でもあるのだろうと思う。

 

「焼き場に立つ少年」 長崎1945年 ジョー・オダネル撮影
(下記の良ブログさまから お借りしました)
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-132.html

 


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(先日の、このエントリー『「八紘一宇」薄倖一ううっ()――【続き】』に書いた話を、旧ブログの記録から)

命の「アイスクリームもどき」                  2010/09/19 01:00

これも、当該記事を読んで思い出した。

私が、まだ実家にいた頃なので、だいぶ むかしのことだが、やはり新聞記事にて、
帝国ホテル総料理長を務められた村上信夫氏の、シベリア抑留時の回顧談だったと思う。

 

日本に帰国が叶う少し前、いよいよ容体が悪くなり、恐らく、故国に帰りつくことはできないかと危ぶまれていた或る兵士が、

「せめて、ひと口、アイスクリームを食べてから死にたい」などと切望していると伝え聞いた村上氏、どう材料を調達し、どう工夫したのか、ご本人も記憶が薄れているようだったが、とにかく、いっしょうけんめい「アイスクリームもどき」を拵え、その、死にかけている兵士に届けさせたことがあったという。

 

後日、くだんの兵士が、帰国を前に、見違えるように持ち直して歩いているのを見かけ、どうなっているのかと尋ねると、

「実は、あのアイスクリームもどきを食べたとたん、こんなうまいものを再び食すことなく、こんな異国で死んでたまるか」という執念が、むくむくと湧き起こってきたのだとかいう話だった。

恐るべきことである。

 


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