2016.06.24 (Fri)
『男に追いかけられた女性が語る 釧路通り魔』
日本テレビ系(NNN) 6月23日(木)18時25分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160623-00000077-nnn-soci
この事件を起こした下手人が、本当に、精神科の患者だったのかどうか知らないが、
私の知る幾人かの精神科方面の患者たちは、
もちろん、それぞれに長所や得意とする分野を持っては いたけれど、
それらを ゆうに上回って、と言うか、
台無しにするほどに、欠点も凄まじく大きかった。
要するに、
始末の悪い事件や犯罪を起こすことも ままあったという現実。
少なくとも、警察沙汰にまでは至らない場合でも、身近の、立場の弱い者を犠牲にして泣かせつつ、それを誤魔化し、眼を背けながら生きていた。
10の輝かしい美点が あっても、たった一つの欠点が、すべてを帳消しにすることもあるわけ。
逆に、
10の欠点や弱点があっても、
非常な美点が、それら欠点や弱点を帳消しにするほど大きければ良いのだろうが、
たいがいは、そうは いかない。
とにかく、
彼ら彼女らの持っている長所や何がしかの得意なことなどは、
彼ら彼女らのように、他者に酷い迷惑を かけるまでに至らず済んでいる人々のなかにも、じゅうぶん持ち得ている程度のものだった。
それなくしては、人類が困るほどの才覚では なかった。それが現実。
だから、そういうコトバでもって、「免罪符」のように扱っては ならない。
何らかの機能不全を補う作用で、
何らかの機能が代替的に突出して発達する可能性は、よく取り上げられる話だけれど、
全く当てはまらない場合も、また多いという、それも現実。
世間で よく聞く話では、
目の見えない人の、聴力の高さ鋭敏さという事例。
私の場合は、逆に、聴障ゆえ、もともとは視力の高かった目を酷使したすえに、いまでは、視力も めっきり衰えてしまった。
だいいち、身動きすら自由でない日常を過ごす重度の障碍者なら、常人程度の可能性にも制約が大きいかわりに、凶悪事件も起こさずに済むだろうけれど、
では、
何らかの才能や天才を一つでも備えている者でさえあれば、他者を不幸に陥れてもよいか?
私には、とうてい、そうは思えない。
「天才」や才覚の名のもとに、すべてを許してもらう口実にされて たまるかっての。
先行エントリーにて取りあげたコラムの筆者さんも述べておられる「理解と共感」、これに著しく欠けが あるからこそ、それこそが「障碍」と呼ばれるわけで。
はたの者が難儀することになるほど、「理解と共感」の欠けが酷い場合は、まず、隠蔽するのでなく、周囲との共有が大事。
この共有ということには、私のように、自分の障碍に関して、ある程度の自覚を持ち得ているならば、自分自身の努力によって、そうとうカバーできることも あるが、
最も始末が悪いのは、周囲は勿論のこと、肝心の障碍者本人に、自覚が殆ど ない場合だ。
傍らの特定の者が、不審を感じながらも一人で犠牲になっているとき、
その周囲は、まさに「われ関せず」の利己的心理だし、
当の障碍者自身も、いつまでも、なんら改善も向上も していかない。
なので、まずは、障碍者自身で気づくことから始めないと ならないし、
その力もないほど重度となると、保護者・養育者が、なるべく早い段階で気づいて、適切な指導なりトレーニングを開始しないと ならない。
けれども、
結局、成人する頃まで、本人は もとより、養育者も誰も気づかなかったということは、それだけ軽度で済んでいるわけでも あるだろうから、気づくことを始めるのが、実は最も困難とも言えよう。
私の場合は、聴覚障碍の存在自体を、
(多少の知識を備える現在は、私の考察と分析によって、ある種の発達障碍だったこと、人格障害でもあったこと、先天性の脳機能障碍および癲癇の傾向があったことも分かっている親)両親らに、完璧に抑えつけられ、捻り潰されていたから、
必然的に、こちらの人格の問題とされて攻撃され、
ほんとうに大変なストレス人生だったけれど、
みょうな「生き辛さ」であるとか、周囲との不可解な齟齬を感じているのは、当の障碍者本人であろうはずだから、そのことを、素直に訴えることが できる環境であるか どうか。
実際、世間で、「人の上に立っている」ような存在、
たとえば経営者等、出世して、何らかの権力を持っている立場の人には、「人格障害」者の範疇に当てはまる人が少なくないということも聞くし、
医師なんかは、ある種の「サイコパス」でないと、勤まらないともいう。
私個人の周辺でも、頷ける事例が多い。
なかでも「自己愛性人格障害」者の大きな特徴として、
「他人を利用する」ことに殊のほか長けている、
ということが挙げられるが、さも ありなん、というわけだ。
他人どころか、実子でも利用する。
だが、世間では、「やり手で有能」「立派な人」で通っている現実。
しかし、同時に、
そうした人の誰もが、「人の上に立って」いられるわけでもない。
何度も言うのだが、
発達障碍だ精神障碍と言っても、その現れかた、態様は、その人や場合によって いろいろなのである。
そういった方面の障碍を持っていれば、即、何らかの才能の証だなどという考えは、自覚なき劣等意識の反転したものであるとも見受けられるし、
たとえば、黒人だから、歌やダンスが上手いはず、と決めつけて思うのと同じようなもので、悪しき単純からの「神話」ともなりかねない。
もう一度、問うておく。
発達障碍であれ何であれ、何らかの才能だとか「天才」とかが なければ、生きている価値はない、ということなのか?