2015.07.14 (Tue)
の続き。
アベノイカリについてなんだけど。
上記のリンク記事に付いた「ヤフコメ」の一つに、「怒り」というものについての指摘が混じっていたので、それについて思うこと少し。
喜怒哀楽の一角を成す以上、怒りは自然な情動の発露なのであり、むりに抑え込むほうが、ときとして、問題が大きくなるとさえ、私は思っている。
「もの言わぬは腹ふくるるわざ」。
自己コントロールが過ぎるほどの人というのは往々、別様の問題を生じていたり、不自然な痛々しさを漂わせていることすらある。
ひどいときは、なんとも陰湿で底意地の悪い性格を形成していたりして、こっちが辟易することもある。
正当な、または、真っ当な怒りもあるし、怒るべきときというものもあるだろう。
ただ、
私利私欲が心底の動機とか目的である場合の怒りは、少なくとも、公人たる者の示すべき怒りでない。
私利私欲、個人の都合の算盤勘定、こんなものは、公人たる責務にある者が持つものではない。それが不満なら辞めるべし。
まあ、安倍朕の場合、どうも、このひとの感情面が落ち込むことなきようになのか、周囲が、やけに、腫れ物に触るような調子でもって采配するようにしているのかなあ?と思えることはある。
安倍朕の気分アゲアゲを持続させるために、ひたすら持ち上げてるのか?という印象もある。
どうしてだろうか。
ものすごく、メンタル脆弱なのか?首相ともあろうひとだけれど。
そのくせ、あたかも幼児的万能感みたいな、
いかにも自信たっぷりなようすを ひけらかすみたいな感じもする。
ところで、
浅井基文氏のコラムで述べておられたところによると、
近ごろ、頻りと懸念されるらしい日中の諍いに関し、アメリカの態度には、見分け方法があるそうだ。
何ほどのこともなく、いたってシンプルなのだが、
言われてみれば、なるほど、と思った。
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2014/615.html
直ちに分かることは、日中いずれの側の主張に対しても判断を示していないということです。しかし、このこと自体が実は特別な意味をもっています。つまり、アメリカのこれまでの対応パターンは、①中国の主張に非があるとする材料があるときは中国を非難する、しかし、②中国の主張に歩がある場合には中立の立場を装う、とハッキリと色分けできるのです。特に6月12日の記者会見では「それ(中国の防空識別区)に関するかどうかについて私は知らない」とわざわざ言及していることは正に「語るに落ちた」ということです。アメリカ側の以上の対応から、「中国脅威論」を喧伝するために、小野寺防衛相及び防衛省が「中国軍機異常接近」を作り上げたことはほぼ間違いないでしょう。
(文字強調部分は、当ブログ主による)
はてさて、そうすると、日本側の勇み足も、だいぶ ありそうなのだが、
アメリカは、裏にまわって、間接的に関与とか、ぜったい してないだろうか?
よくよく聞けば、「安保」だろうが、アメさんが、日本を「守る義務」なんざ、ありもしないらしいがね。
だったら、
日本は、パーソナル ディスオーダーの「見捨てられ不安」よろしく騒いでいるわけ?
それと、
こないだのエントリーでも言ったけど、
「抑止力」、ね。そんなもん、一発撃ち込まれたら御破算よ。
安心だからとかいうよりは、賭けみたいなもんだ。
余分のシガラミは常に請け負ってにゃならんのに。
それから、
ウヨが飽きもせず繰り返す、「武装解除させられたから、竹島とられた」。
なんで、武装解除させられたのかという根本は考えないのかよ?
理由もなく、武装解除させられたのか?
あと、
中国国内における迫害・弾圧等の問題も、国家対国家間の戦争とは別分野の話。
中国に言わせれば、国内問題なわけ。
もちろん、私個人としても、人道・人権の問題について無関心ではなく、民主主義国家の一員である わが国からも、可能なかぎり、注意喚起やアドバイス、声明、最大限のコミットメントは継続実行してほしいと思う。
前々から呆れてた現象のことを、最後に一句。
バカサヨよブサヨと罵るウヨたちが
「ネットウヨク」の略称に激怒
ウヨは一事が万事そんなこったから、
とことん自分棚上げ方式の感情むき出しタイプにしか見えないのよw
「人権」を目のカタキみたくに忌み嫌ってるらしいのに、
それこそ北朝鮮や中国のような国にシンパシーを感じているはずなのに、
ほんと、わけのワカラン。。。
かと言って、「極」の付くサヨに対しても同じくらい、肩持つ気には なれない。
過去には、こっち方面の連中からも、ワケわからんイチャモンつけられたことがあったしな。
極端なイデオロギーとか宗教とか、なんにせよ、私個人にとっては、どれも鬱陶しい人工物。