2015.01.25 (Sun)
『イスラム国「人質動画」コラ画像に海外反応 仏メディア「日本人もまたシャルリーだ」と評価』
J-CASTニュース 1月23日(金)19時1分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150123-00000006-jct-soci
おまえら、そうやって、あまく考えてヘラヘラ笑ってるうちに、ひどい目に遭うぞ、みたいに、先方の「イスラム国」が凄んでた、ってな話があったらしいけど、
そのとおりになっちゃったみたいだな。。。
ま、何でもかんでも笑いのめしておけばいいというもんではないな。
イスラム系の人々というのは、特にアラブのほうの人々は、やはり、根がクソ真面目な気質らしいという印象を、あらためて持った。
たまたま先日、
「ユーチューブ」の動画で、愛嬌たっぷりな中国人女子留学生の司会のもと、日本国内にて勉学中の仲間たち数人を集め、納豆やらレトルト カレーといった、日本の庶民的食品を食べ比べてみる趣旨の、ほほえましい集まりのようすを紹介しているのを視聴したが、
台湾出身の青年にしても、東南アジアの何国だったかが出身の女性にしても、冗談を言い、ふざけ合って大笑いしている屈託のない姿は、日本の青少年たちと何らの違いはない。
しかし、一人まじっていた、パキスタンだったかイスラム系の青年だけは、他のアジア出身の若者たちとは真面目さの度合いが異なっているのが、あきらかに感じられた。もちろん、彼も好青年だったし、良いとか悪いの話なのではないよ。
われわれ日本人から見れば、まさに「狂信者」としか言いようのない先方「イスラム過激派」から見れば、日本人てのは、想像以上にイカレてて、よっぽど、とち狂ってるわい(呆)と思えることだろう。
ただ、ふと思ったのだが、
まさしく「武士」「さむらい」の時代であれば、これと同じような事態の渦中に置かれたとき、たとえ、血を分けた親であっても、お国の、お家のためとならば、どうぞ、わが子の命を犠牲にしてやってくだされとか、敢えて、言うのだろうなあ。そういう内容の伝統芸能の演目もあるもんね。
さきの戦時中なんかも そうだったか。
でも、いまどき、そんなのが美談になる時代じゃないし。
それと、フランスにおける「自由」の徹底した主張ぶりについて、
とくに、現地に住んでいる個人のブログ等を参考に、いろいろな描写や報告を通して思ったには、
要するに、「何は ともあれ、自分は どう思うのか発言せよ。それが一番大事」
というので、その際、傍の誰が傷つこうが感情を害しようが、そんなことを気にしていては いけない、カンペキ無頓着でGO!ということなのらしい。
ここまでになるとねえ、
じゃあ、あれか、よっぽど、自分の意見を表明するのが、本来は苦手な民族・国民性だったのかあ?おたくらは、と怪訝に思えてくる。
われわれ日本人の習性じゃあるまいに(苦笑)
もう一度、紹介しておく。
『黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚』
プラド・夏樹2013年12月13日
http://webronza.asahi.com/global/articles/2913121300004.html
人権の国、フランスで人種差別が広まりつつある。そのことをはっきりと認識したのは、10月25日、アンジェ市を訪れた、黒人であるクリスチャーヌ・トビラ(Christiane Taubira)法務大臣が、11歳の女の子に
「このバナナは誰のでしょう?雌猿のです!」と野次られた事件を通してだ。
~
それと、フランス在住という女性の個人ブログ。
やはり、現地で生活しておられるだけに、「シャルリーエブド事件」について、つよい実感を伴った鋭い批判を展開しておられる。はっきり言って、この前のエントリーで とりあげた、フランス文学者たる鹿島センセイの お説よりも、よほど腑に落ちる。
私自身は、フランスに行った経験の一つもないけれど、おおかた、こんなことではあるまいか?と思っていたこと、ほぼ、そのとおりだった。
『しつこくシャルリー』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-702.html
『しつこくシャルリー②』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
あちらの小学生への教育内容。これよ、知りたかったの。
『血塗られた歴史』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
『フランスでも、「行き過ぎた風刺」は論点に 表現の自由は、無制限の自由ではない』2015/1/24
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%a7%e3%82%82%ef%bd%a4%ef%bd%a2%e8%a1%8c%e3%81%8d%e9%81%8e%e3%81%8e%e3%81%9f%e9%a2%a8%e5%88%ba%ef%bd%a3%e3%81%af%e8%ab%96%e7%82%b9%e3%81%ab-%e8%a1%a8%e7%8f%be%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%af%ef%bd%a4%e7%84%a1%e5%88%b6%e9%99%90%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%a7%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84/ar-AA8wtFH?ocid=FUJITSUDHPあくまでプライベートのこととして、個々の宗教に関し、「公の場には出さないこと」という方針の観点から考えれば、
一般に流布させる出版物も、また「公」のものであるのだし、ならば、
いっそのこと出版物においても、宗教にかかわる話題やテーマを一切、扱わないこととし、とり扱い禁止、ということにしたらいいじゃないかしら?
もちろん、それを、すべてに押し通すとなると、純粋な学問や研究の方面で大きく支障があるのだろうけどね。
人数が増えるにつれて、発言権が増す、そうして、われらの祝日や食物(この点、日本人はマメと言うかサービス精神と言うか商売熱心と言うか、「ハラル認証」とかいうものに対し、こっちから協力する気マンマンなくらいじゃないの?w)なども、公式に認めろー、という要求が出てくる、
じゃあ、それらも一緒に、公的に認めてしまっていいんじゃないの?細かい すり合わせは、なんとか調整して、、、と思うんだけど。
ただ、各々で異なる祝祭日となると、何かと「皆一斉に」という方針が根強い習い性にもなってる日本人は、抵抗あるかもなあ。それとも、新たに祝祭日が増えるだけ、ということでオッケーにしちゃうかな??
『私がチラ見したイスラム世界(シャルリー・エブド事件によせて)』
2015年1月15日 11時23分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20150115-00042264/
「テロだ」「テロ」と叫ぶけれど、
中東地域における猛烈な空爆によって、やはり、一般の住民たちまでが殺されるハメになってしまった。
彼らの身の実感にしてみれば、西側諸国が「テロ」と呼ぶところのものと、なにほどの違いがあろうか。
(続く)
2015.01.23 (Fri)
こういうセンセイの授業を受けてる学生だったら、私なんか、手を挙げてツッコみまくりだろうなあw
『仏紙襲撃事件は、強烈な普遍主義同士の衝突』
東洋経済オンライン 1月21日(水)6時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150121-00058478-toyo-int
~
4つの類型のうち、「直系家族」は「自分たちとそれ以外」と考える。思考パターンはそれしかない。これを拡大していくと、「日本人とそれ以外」と考え、「日本人と外国人は違う」と、なる。ドイツ人や韓国人もそのように考える。「直系家族」のグループ同士はぶつかりやすい。ドイツ人とユダヤ人、日本人と韓国人がそう。
これに対して、「平等主義」のフランス人の考え方は、人間はホモサピエンスであるから、同一であると考える。そのことに比べると、「人種」「言語」「宗教」などは微細な違いでどうでもよいことでしかない。「男女」の差異すらも大きいことではない。これは例えば、フランスのフェミニズムと米国のフェミニズムの違いに現れている。フランスのフェミニズムは「女性という性」をまったく強調せずに、ただ、同権を要求するだけだ。こうした考え方が「一にして不可分」ということであり、フランス人になってしまえば、皆同じということ。
~
トッド氏の「家族類型」説は、私も以前、どこかで読んだときに、なかなか興味深いものだと思った。
でもね、あまりに何にでも当てはめて、それこそ「信じる」ようでは、無理があるかもよ。
そういえば、このトッド氏、日本も核兵器装備したらいい、とか言ってるんですってねw日本国民として喜んでいいのやら、よくないのやらww
だって、
しかし、日本とドイツは、同盟組んで仲良くしてたんじゃないんですか?(笑)
実質、植民地だった、「2等国民」扱いだった朝鮮の人たちには、彼らのハングルを、こちらから逆に学ばせてやったと恩に着せる反面で、日本語を厳しく強制したともいうし。どっちやねんw
いま、何かと衝突しがちな中国の問題もありますがね(苦笑)かの国では、家族や仲間と見做せた、ごく限られた関係者以外には、まず、本心から気を許すことはない民族性だか国民性があると、あちらの人の話を読んだこともありますよ。
フランス人が、「人間はホモサピエンスであるから、同一であると考える」のは、私自身も基本的には、そういう傾向なので、他の日本人たちから、「あなた、日本人離れした思考だね」とか「日本女性らしからぬ性格だ」とか言われることがあるのだけれど、
「人種」「言語」「宗教」などは微細な違いでどうでもよいことでしかない。「男女」の差異すらも大きいことではない。
本当に どうでもよいのなら、気にせず流すでしょうにw
むしろ、すごーく気になってしょうがないからこそ、とことん差異を消し去らせて、しかも、自分たちに同化させようとするんじゃないんですかね?
それと、私は、フランス語は、英語以上にサッパリ分かりませんが、聞くところによると、この世のありとあらゆるものに、男性名詞・女性名詞と、性別分けしたコトバで名付けてあるというじゃありませんか(笑)
そうそう、余談ですが、あちらでは、ちょっと道を尋ねた警官にいたるまで、女性へのナンパが激しくて、もう油断も隙もないと聞いたこともありますがw
さて、前回のエントリーでも、再度、この疑問を述べた。
『センセイ、質問です。「人を殺しては、なぜ、いけないのですか?」の続き 』
私は、これも、先日のエントリーで言ったように、
イスラム教の教義からくる問題云々以上に、現にフランス人としてフランス国内で生育しながら、ああいう事件を起こしたという経緯や原因のほうに関心がある。
それでも なお、今回の事件では、犯人となった兄弟が、孤児院育ちであったということで、ということは、イスラム系としての個々の家庭内ではなく、よりフランス公共の精神に近い場にて生育したわけだから、本当なら、彼らの同胞たちより もっと、イスラム的なものから脱していてもいいはずじゃないのかと思えた、その疑問は氷解しきれない。
それと、
日本人にとっての不快な記憶としては、先ごろの、わが国 東北方面の大災害において、原発事故に伴う被曝問題をネタにした、品性のカケラもない「風刺画」が、いっとき問題になったけれど、これについては、当該記事における指摘が、どう当てはまるのだろうか。
しかも、
同様に、わが国の被曝者のことをネタにした「風刺」の問題は、イギリスのテレビ番組においても見られたという、これも、いっとき、話題になっていた。
イギリスといえば、こんにちまで尾を引き続けるイスラエルとパレスチナの厄介極まる問題を引き起こす原因を つくった国なのだと、学生時代の歴史の授業で習ったことは、印象に つよく残っている。
まあ、日本とは、伝統的宗教観のありかたも根本的から異なっているのであろうし、多分に、日本の宗教なるものが、そもそも「宗教」の域に達し得ていなかったという見解もある。
他国では、一般個々の生活・人生の背骨を成すほどにまで一体化した重い規範として営々と続いた存在感を、明確な「宗教」という存在に求める人が少ないほうである日本において、ある激烈な個人崇拝の続いた特異的時代を通り過ぎてからは、いよいよ切実さにも欠けることとなった「政教分離」なる看板に、いまだ、あくまで上っ面だけの面が残るのは、私も、過去から何度かは言及してきたことだが、
言わずと知れた「天皇制」のこともあるので、否応もなく譲歩しておくものだという、わが国では、一種の習い性にならざるを得ない面はあるのだろう。
これを敢えて真正面から突きつけ、喫緊の問題化しようとしたら、どういうことになるか、その隠然たる影響の存在は、日本国内で生活しているのであれば、ほとんどの者が、なんとなくながらでも分かっているからだ。
反面で、
そのへんにだけは触れないよう、それこそ「スルー」しておくことで、よけいな深入りせずに、気楽に気ままにやっておれるという現実もある。
日本の、これも表面には出てきにくいが、水面下には横たわり続けてきた、こうした問題は、私は特に、そうなっていくであろうことを見守るしかないと見当を つけているように、
また、
日本的「パターナリズム」的父性の面影を慕うような側面と共通しているかとも思われるイスラムの問題にせよ、
その他の各国が抱える、長い時代を経て、いろいろと根の深くなっている諸問題の多くは、一気呵成には困難なので、急激なショックや、一般民を巻き込む多大の犠牲を可能なかぎり避けるためには、時間を かけながら、理想に近づいていくという根気も必要なのだろうと考えている。
だから、その過程では、「優先順位」の見極めも必要になってくると述べた。
けれど、イスラム系移民にも見られるという、往々、発展途上国系民族に顕著な人口拡大のスピードは、多数の移民層と、まさに、いま現在を かかわっている国々においては、時間を かけて徐々に、という余裕を失わせるほどのものがあるのかもしれない。
そういう切実さも、いまのところ、わが国では、自国自身の大きな悩みとまではなっていない。
しかし、なんですわね、
あれ以来、当の「シャルリーエブド」社は商売繁盛、あちこちからの寄付や援助金も集まったそうで、まるで「焼け太り」状態じゃないですか?w
彼ら自身が、この状態を「風刺」してみせることは恐らく、ないのだろうし、かわりに、どこかの誰かが、「シャルリーエブド」顔負けに、思いっきり品性下劣を厭わず「風刺」してみたら、どんな反応があるものだろうか、見てみたい気もするww
『黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚』
プラド・夏樹2013年12月13日
http://webronza.asahi.com/global/articles/2913121300004.html
人権の国、フランスで人種差別が広まりつつある。そのことをはっきりと認識したのは、10月25日、アンジェ市を訪れた、黒人であるクリスチャーヌ・トビラ(Christiane Taubira)法務大臣が、11歳の女の子に
「このバナナは誰のでしょう?雌猿のです!」と野次られた事件を通してだ。
~
2015.01.22 (Thu)
『センセイ、質問です。「人を殺しては、なぜ、いけないのですか?」 』
そこで思い出したのがw
まあ、麻生さんの例の「ナチスの手口に見習ったら」云々だが、
あの発言だって、表現の自由のうちということになるだろうけど、
もちろん、私は遠慮なく罵りの表現させてもらったよw
でも、当時、あの発言と麻生さんを大勢でトコトン擁護してたのは、どっちかつうと、「(ネト)ウヨ」と呼ばれちゃうようなネット民とか、自民党支持者とかに多数だったようなんだけど、ああ、あと、何かの「オタク」系もかね?
だけど、いま ここへ来て、
「表現の自由」が一等大切なのだ、表現の自由に一切の制限を つけるべきでないと力説してる人々には、今度は、どうやら「サヨ」系も多いみたいなのが、ちと興味深いww
麻生さんと、その発言を擁護してやまなかった向きが、「シャルリーエブド」事件では一転して、あの表現には悪意があり、「表現の自由」にも限度がー、とか言い始めてるとしたら、
それと、ふだん、「在特会」なんかやヘイト スピーチを擁護してる連中ねw
また同時に、
それらと真逆の向きの人たちにも、主張の転倒が起きているとしたら、、、これまた滑稽だなあと思うw
ま、徒党を組めば、「数の力」というやつで、どんな愚かな主張でも、横車を押すだけの力には なり得るのが現実だ。
やがては、政治さえ動かす力にならないとも限らない。そこを警戒させるからこそ、いまだ少数派に留まっているいまのうちに叩き潰しておこうという考えも起きてくるのだろうし、
このコラムでも、そのあたりを含めて指摘されている。
『仏紙襲撃テロに見る「表現の自由」と「宗教の価値観」尊重のバランス 国際政治学者・六辻彰二』
THE PAGE 1月22日(木)9時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150122-00000001-wordleaf-int
~
「強者の支配を強化する原理」としての表現の自由
しかし、表現の自由には二面性があります。表現の自由は時に「弱者に異議申し立ての機会を保障する原理」になる一方、別のシーンでは「強者の支配を強化する原理」にもなり得るのです。
~
私は、これも、先日のエントリーで言ったように、
イスラム教の教義からくる問題云々以上に、現にフランス人としてフランス国内で生育しながら、ああいう事件を起こしたという経緯や原因のほうに関心がある。
ところで、
「自由」という概念も、「神」と同様、あくまで人間が勝手に拵えて掲げている、まさに抽象的概念に過ぎないのではなかろうかね?
私は、先日のエントリーでも表明したように、そもそも「自由」だの「自由意思」だのいうものが、ほんとうにあるものだか疑わしいという考えだ。
いや、自由はある、と言い切るのなら、それも また、一種の信心、宗教みたいなもんだと思うのだがね。
だが、「権利」の概念と同じく、「自由」も、あるに違いない、という意志と、意志の継続が必要なのだろう。
そして、そういう意志や継続も また、信仰や宗教との共通性があるのだろう。
さてさて、
「人を殺しては、なぜ、いけないのか?」
という、もはや定番のような疑問や質問にも、いたって現実の生活感覚や法的な立場から以外、哲学的には答えきれていないのではなかろうか。
生活や現実は、そりゃ、重い。
机上の空論では済まないさ。
されど、
「鰯の頭も信心から」
「鰯の頭」で殺されるのか。。。
2015.01.22 (Thu)
あ、そうそう、その前に、サザン桑田さんの「紫綬褒章」の件だけど。
私が桑田さんだったら、その紫綬褒章、頭の てっぺんに高々と乗っけるか、おでこに貼り付けて、ステージに登場したと思うw
そもそも、そんなものを受け取ろうという気が起きなかったかとは思うけど、
「いっぺん やってみたかったのw」というつもりで受け取っておいたかもwww
ところで、
先ごろのフランシスコ法王の発言について、イギリスのキャメロン首相が反論したという、その発言に対しても、もう一度、私は付け加えておく。
ことに心理学においては、養育者である者が、子どもに向かって、幼い頃から、しょっちゅう揶揄したり、その感情を積極的に害し、侮辱発言を続けたとしたら、その場合の絶大なる効果のほどは、すでに よく知られていることだろう。
養育者たる者、子どもには、身をもって手本を示さねばならないはず。
いかなる場合においても自由に自由に表現し尽くさせることが望ましいのであれば、
それこそ、殊には、ある種の障碍者にとっては、つごうよく、悦ばしいことだろう。
けれども、いずれは、可能なかぎりの躾は施されなければならない。
人間社会で生きていくうえで否応なく必要になるからだ。それが現実。
これについて、いくら盛んに異論を唱えようとも、自分自身の生活において、敢えて妥協なく実践できている人は、ごく少数だろう。
他者の生命を傷つけ、損なうこと必定のテロ行為は、これこそ絶対に、賛成できることではない。
テロ行為の実践と、風刺的表現行為とを同列に考えることは できないというのは尤もなことである。
ただ、単に表現、コトバといえども、これにも、暴力性やテロ性はある。
直接的ではなくても、人を殺すこともでき得る。
今回の「シャルリーエブド」事件を鑑みれば分かるように、「風刺」あるいは「表現の自由」が、結果的に、人命を損ねたことは事実だ。
いま、日本人が二人、「イスラム国」に捕えられたとして、莫大な身代金を要求されているという。
これについて、総理の安倍氏が、外遊先での その発言に、わきの甘さや行き過ぎがあったのではないかと、問題視され始めているようだ。
『日本人拘束 安倍首相のバラマキ中東歴訪が招いた最悪事態』
日刊ゲンダイ2015年1月22日(木)9時26分配信
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/gendai-20150122-236768/1.htm
だけどさ、首相が外遊先で発言する内容って、事前に、外務省あたりが、緻密に検討しておくもんだと思ってた。。。
私、新年早々から、安倍さんが、今度は、中東方面各国を まわる予定と聞いたとき、なんか腑に落ちないというか、唐突な感じが したもんだけど、
まあ、ここでは、それは置いとくが、
とにかく、人質になってるという人たちの、いま現在の安否確認が真っ先に必要だよなあ。
それが不明である以上は、身代金の払いようもなかろうに。
先方は、どういうつもりでいて、連絡は とれているのかどうなのか。
話を戻して、
宗教でも何でも、学術的などの意味における真摯な批判であれば ともかく、
悪気までは なかったのだけど、つい無神経なことをとか、
ただの見識不足ゆえ迂闊に、とか背景事情を知らなかったせいで、とかいうことは、われわれの日常生活でも多々あり得るけれど、
今回の「イスラム教」開祖の姿を描いた且つ風刺だか捻じ曲げて決めつけたのだか、こちらには、あまり、事情が よく分からないが、
それを やったらば、間違いなく、先方を激怒させ、ヘタすると最終手段に訴えることも辞さないであろうということは、ある程度にせよ、せんから ご承知のうえだったには違いない。
そのうえで、敢えて やってたわけだそうだ。
ただの一般個人に過ぎない私なら、もしも、目の前のイスラム教徒に、
「それ、われわれイスラムの教えにとってタブーであるから、やめてくれ」と言われたとしたら、
「ここはイスラム教の国でもないし、わたしゃ異教徒であって、ムスリムではございませんので」
と、ぴしゃっと言ってしまうかもしれないw
でも、
もし、異教徒を見つけたら殺してしまえという教義なのであれば、そりゃあ、とりあえず身を守ることも余儀なくされるわな。
ましてや、自分以外の者にも、危害が及ぶかもしれないとなると。
しかし、実際のところ、相手が心底から嫌悪しているというのであれば、渋々でも譲歩してしまうのだろう。それが、私個人の「弱さ」と言えば弱さなのだろうけれど。
やはり、ここでも優先順位はある。
いずれにせよ、個人でも国際間でも国家的レベルでも、優先順位は考慮せざるを得ない。
また、
必ずしも、相手方の「文化を尊重」しておきさえすればいいとも思わない。
(続く)
2015.01.21 (Wed)
であれば、私は、べつにいいじゃないかくらいにしか思ってない。
という以上に、
こういう方面にこそは、ときとして容赦ない批判的視点を持っていて しかるべきだろうとも考えている。
私が、悪趣味を不愉快に思いもし、場合によっては糾弾も辞さないのは、弱者の(すなわち、選択権を剥奪されている)立場に立たされている存在への嘲笑や攻撃のことだ。
(諸外国のそれについては知識がないので)日本の勲章について言うと、それほど内容が伴っていなかったり、かなりイイカゲンな選出を してるという話を、新聞等でも読んだことがある。
だいたいさ、
「サザン」の桑田さんが、なんで「紫綬褒章」なのよ?と思ってた私、そもそも、「サザンオールスターズ」自体を、ほぼ全く聴いたことがないのだが。数回程度、聴く機会があったときにも、あまり印象に残らなかった。残ったのは、ただ、桑田さんのオチャラケた姿勢の印象だけ。この人は、こういうのが好きなんだな、としか(でも、御本人の素顔は本来、いたって真面目で保守的なほうのタイプかもねw)。だからと言って、べつに嫌いということはないんだけども。
「権威」というものに対して、あるいは また、他者が、こよなく大切にしているものに対し、私自身は基本的には尊重するし、相応の敬意を はらうものだが、
はっきり言ってしまえば、
一般に「神」と呼ばれているところの架空存在は勿論のこと、そういった存在を空想するにせよ妄想するにせよ、「自由」だの「自由意思」などについても、ほんとうに存在するのだか、根本的に甚だ疑わしいと考えているクチだ。
ここ最近は、主に「シャルリーエブド」事件に関連したエントリーをアップしてきたわけだが、
さて、
いわゆる欧米圏の人々は総体に自己主張が激しいというのは、彼らの歴史上の経緯も手伝って確立され、近代から特に目立つ傾向なのだろうと、不勉強なりに思ってきたのだが、先日の当ブログ エントリーでも触れたように、なかんづくフランスで長期滞在を経験した日本人、特に女性に、精神を病んで帰国した人が多いという事例と、「フランス人」として生育しておりながら、今回の事件を起こした犯人たちとの、一切の共通点がないことはないような気もするのだ。
アメリカでも、ある日本人女性、
彼女は、一般にも名を知られているパフォーマーで、その関係で、長期渡米していたそうなのだが、いまでは、すでに高齢と言っていい年齢になられているだろうし、現在の彼女の消息は、私個人は寡聞にして知らないでいるのだけれど、この人も、そうとうに重いノイローゼになってしまい、アメリカから帰国したのだそうで、ご本人が述べていたには、あちらでの生活で、すっかり まいってしまったことの大きな原因の一つに、そのへんの一学生やら無名の一般人にいたるまで見られるところの、徹底した自己主張の強硬さ、競争意識の激しさのことを挙げておられた。
まあ、おとなしく繊細な感覚の日本人ならば、たちまち気圧されてしまうということなのか。
そのアメリカでは、とある高齢の、よりによって牧師で、何やら過激きわまる下品な差別的発言を繰り返すことで知られた者もいるそうで、ところが、それでも、少なくない支持者もいるし、もちろん、傷ついたり、不快に思っている人々はいるのだが、しかし、当局は取り締まらない。
なぜなら、
ここでも やはり「言論や表現の自由」ということがネックになっており、、、という現実を、数年前、新聞の記事で読んだこともある。
『「表現の自由」の美名に隠れた憎悪も糾弾せよ』Charlie is Heroic and Racist
理想を貫いたシャルリ・エブドの「殉教者」たちは勇敢だったが、差別的な風刺画は擁護できない
2015年1月15日(木)17時04分
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/01/post-3517_1.php
こないだ、ちらっと見かけた記事では、
イギリスのキャメロン首相が、フランシスコ法王に反論とばかり、
「他人を不快にする、感情を害する権利はある」だとか言い切ったそうなんだけれども、これに対して私は一言。
「では、あなた自身、どういう方針のもと、いや、積極的に、他人の感情を害して不快にすることは好ましい良いことなのだと奨励しつつ、お子さんを教育されましたのかね?」
キャメロン首相に、実際お子さんがいるのかどうか、私は知らないのだけどさ。
まあ、さすがは、その昔、ローマ教皇と争って袂を分かち、以降、独自の路線を歩んだという歴史を持つイギリスであろうか(苦笑)
他人や周囲の人々が何を言おうと、厭味や暴言をまで吐かれようとも、ネットでは合言葉みたくなってる「スルー力」というものを身につけることが必要だという現実はあるし、
純然たる哲学、思想からの観点としても、完全に自由に、ものを言い切れる、それを一切咎められることなく受容され、また同時に、対する容赦のない反論も当然のこと自由なのだ、という社会は、一つの理想郷と言っていいのかもしれないとは思う。
だが、私は再び言う。
弱者の立場を余儀なくされている存在への嘲笑や攻撃は、やはり、ゆるし難い。
アンフェアの最たるものであり、常に、むなしい争い事の連鎖を生む源だ。
…まあ、そうしてみると、つくづく、「如是我聞」というコトバの聡明さなんかを思うわw