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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2017.04.11 (Tue)

「限りある身の力ためさん」

 

人出の多い場所での花見は、たぶん最初で最後だった、母との花見のおりを思い出させる。

あのときは、有名な造幣局での観桜で、

「本来なら、一般の人が入れる場所じゃないけど、好意で見せてくれてるんやね」と言うと、母は、「そうそう」と応じた。
「桜の場合、遠目には、薄いピンクよりも、いっそ、思いきって濃いめのほうが綺麗に見えるやろ」とか言いつつ、向こうから歩いて来る家族連れの親に抱かれている幼い子どもが、退屈そうにウトウトしているのを見て苦笑しながら、

こんな自分自身も小学生頃までは、たとえばチューリップなんかのほうが よっぽど好きで、絵に描く時は必ずのように加えたし、
それに比べて、桜の良さなんか分かってなかったなあと思い起こしていた。

 

爛漫の桜花の下を そぞろ歩いていて、私は、どうやら、もともとは、山桜の系統で純白の花が好みなのだけれど、

よく目にする類の桜とは異なり、そこでは、『鬱金桜』または『御衣黄』とか名付けられていただろうか、少し緑がかったようなのやクリーム色の花びらの桜が、特に私の気に入った。

 

 

さて今年は、珍しく、同じ場所での花見が2回になった。

最初の日は、よく晴れて、うっすら汗ばむほどの温かさだったが、まだ七、八分咲き手前くらいだった。

2回目の昨日は、ちょうど満開だったものの、雨こそ降らないでいてくれたけれど、どんより曇って、肌寒い風が、かなり強く吹き、いささか震えながらの花見になった。

 

この両日に、このような花見客を見かけることは なかったが、

私は若い頃から、桜の下のドンチャン騒ぎが、好きになれない。

そもそも、お酒を飲みたおしては、見苦しく騒ぐ輩の気からして知れないのだが、

そんな人間どもに われ関せずという風情で、静かに並んで立ちつくし、静かに咲き、静かに散っていく花の下で、よりによって、なんとも無粋なことよ、と、反感すら もよおしてしまうのだ。

 

まあ、はかないものの前で、殊更に浮かれ騒ぐ人間の心情に対しても、理解できぬではないのだけれど。

 

 

過去のブログ エントリーでも述べたように、

私には、桜ならではの、むかしから浮かぶ想像の光景が ある。

それは、

人の足が踏み入ることのない深山の、そのまた奥で、ひとり咲き誇っている一本の桜の大木だ。

もとより、煩い人間どものために咲くわけでない。

人間には知りようもなく、そこに住む草木や獣たちだけが、再び経巡ってきたことを察する。

人知れず、誰に愛でられもしないことを、桜は、無関心に、ただ ひっそりと爛漫に咲いている。

そうして、やがて、音もなく静かに、はらはら はらはらと、とめどなく散らしていく。

 

 

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