2018.05.15 (Tue)
重く厚い扉を滑らかに開く大鍵
今し差し出された幼い手に余る三方の
その上に丁重に載せられた鍵
春の日の「大 大阪」の面影
はや先月のことになったが、
『淀屋橋』方面にて所用を済ませたあとも、まだノンビリした昼下がりの時間帯、よく晴れて、じつに久しぶりの『中之島』とて、こちらでは、道端の桜も終わりかけの春の一日、大阪市役所隣接の『中之島 中央公会堂』などを、ぶらぶらと見てまわった。
ほんとうは、相変わらずの不眠ぎみと体調不良で、だいぶ疲れていたのだけれど、
親の介護と仕事を両立させるの日々のあと、疲れが嵩じると、かえって、どこかのネジが外れて飛んで行ってしまったかのような、奇妙な状態に陥る体質に、急激に なってしまった私は、ほとんど ひらきなおりの気分になり、
じつは、大阪生まれの大阪育ちとは言え、まだ、ここの内部に入ったこともなかったので、
まずは、ヨーロッパの都市の街角に佇んでいる錯覚を起こしそうな、重厚な壁、窓、扉を、ひとしきり眺め、立派な街灯の台石などに、そっと触れたりしつつ、地下に併設されているレストランに通じる出入口への煉瓦の階段を降りて行った。
公会堂内部に入ると、古い教会にあるような、簡素な木製なのに、腰が しっくりと納まる椅子、つやのある木のタイルを敷き詰めた、歩きやすい床。。。全体に、『アール ヌーヴォー』の趣きが満ちる内部の部屋部屋を横目に通り過ぎて、ここを建立した、志しある「大阪商人哲学」を体現したような人物を偲ぶ一室へと、いざなわれるように差しかかった。
かつて、ここの宴の場にて使用されたという華やかな銀器類、大ぶりで垢抜けしたカトラリーの類を見、
春の一日を楽しむ花見へと、家人たちを送り出したあとに、自身は、
「その秋を待たで」
…と詠んで自死したという、その年齢の若さに、あらためて驚き、
故人の遺児である令嬢が、4歳の幼い手で、三方に載せた、公会堂の鍵を、付き添いの婦人に介助されつつ、当時の市長へ差し出す写真を眺め、しばしの感慨に耽ってから、その展示室を出た。
ひんやりと小暗い公会堂を出てみれば、なお まだ春の陽ざしが照りつけて、なまぬるい街かどの喧騒に混じれば、異なる時代への短い旅から、今しがた戻ったかのようだ。
いいかげん、このへんで帰路につこうと、川沿いの道を、もと来た地下鉄駅に向かった。そろそろ痛みが激しくなってきた足を なだめながら歩いていて、ちと驚いたのは、
老若男女の人々が、なぜか、一列になって、川のほうに向いて立っており、一様に、スマホのカメラを差し掲げている。
何を、ことさら熱心に撮っているのやら、私には分からなかったが、中国あたりからの旅行客も含んだ一団だろうか。
川にカメラを向けている人たち以外に、そこ ここで佇んでいる人たちも、やはり、それぞれの手にしているスマホを見詰めながら、頻りにチマチマと指を動かして操作中。
やっと降り立った駅のホームでも、ものの見事に、ベンチに座っている人たち全員、スマホの画面に目を落としている。
いや、なかに一人だけ、愛用品らしき赤いカバーを被せた小ぶりな本を開いて読書している中年女性が混じっていて、その姿が、いまどき妙に珍しくも奥ゆかしいものに感じられた。
電車に乗り込んでも、やっぱりスマホ、スマホ、どの人もスマホ。手にしていないのは、ほぼ私だけじゃなかろうか。
こうも一様に、握りしめたスマホを見詰める老若男女の群れを見ていると、なかなかにブキミ悪さすら もよおしてくる。
近頃、私の自宅周辺の通りでも、車の往来が頻繁な狭い道を、自転車に乗っている人が、けっこうなスピードを出しながら、完全に、目は、片手に握ったスマホの画面だけを凝視して走っている、
それが、子どもじゃなくて中高年のオッサンだったりするのだから、甚だ危険を感じると同時にホトホト呆れたものだが、あそこまでいくと、完全にビョーキとしか思われぬ。
昔日の小さき手のひら差し出せし鍵かろやかに放てる扉
人々は眼(まなこ)貼り付け握りしめ閉じこもるスマホの窓の内