2021.07.17 (Sat)
誰しも、睡眠中に見る「夢」ってのは、インパクトに満ち満ちた、インスピレーションの尽きせぬ泉でしょうね。
どんなに荒唐無稽なイメージやストーリーも、難なく得られる。
そして、それは、ただ はかない幻影のようであって、まさに現実のうちに ある。
『東京の空に巨大な「顔」が… 目を疑う光景が問いかけるもの』
7/16(金) 12:50配信 最終更新:7/16(金) 13:41毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fc2f7ccb1cf13fb24ab45f4d64cd2bdff63a487
とあるマンガで、そういう内容のものが存在するということは全く知らなかった おかげも あるのか、
私個人的には、全然、「生首」だぁ;といった印象や不快な感覚は持たなかった。
そういう連想よりも、むしろ、この顔の表情のほうに興味を惹かれた。
まずは、
おや?こんな所に大仏つぁん??
ちゃうわw誰の顔なんだろう?実在している人の顔なのかな?
日本人?どこの国の人?
世界じゅうで公募していたなんて、ちっとも知らなかったなあ、
などということを思い、それから、
これは、記事本文を読んでみて、なるほど、やっぱりかなと思ったのは、この「顔」は、何かを凝視しつつも、どこか疑問を持って考え込んでいるようでもある表情だなと感じていたから。
最終的に、この「顔」に決めたというのが、『新型コロナ禍』発生の あとなのか どうかということも、少々気になるところだ。
これほど巨大なスケールの作品をば、「ヤフゴミん」らが主張するように、美術館内で やれだとか、なかには、自宅で やれ、などと、できない話を平気で するのもバカバカしいとしか言いようが ない。
私なんかは、このテのバカげたコメントを したがる者こそ、その殆どが「ネトウヨ」で、例の『表現の不自由』展あたりを積極的妨害せんものと、凶悪行為も辞さず暴走するヤカラなんでは?と睨んでいるのだがw
で、あらためて、くだんの作品について、私個人の感想を言えば、まずは、オモシロいと思ったよ、好き嫌いは無関係に。
だから、まあ、中立だね。
次いで、
先述したように、どこの誰の顔か、リアルなところを見るに、実在の人の顔かといった疑問や興味を持ち、そして、その顔の特徴的な表情に興味を抱いたわけだが、
その間、「生首」に見えたということは全く、なかった。したがって、「グロ」などとも思わなかったわけだが、
ただ、この「顔」が、それこそ血まみれとか、悲惨さ陰惨さを滲ませているようなものであったら、さすがに私自身、敢えて「グロ」好きというわけじゃないどころか、
よっぽど、どこかしらに「美」「耽美」性が、そこはかとなくでも感じさせられる場合を除き、だいたいにおいては、頼んでも いないのに、公共の場で、不特定多数に向かって突然デカデカと、醜悪しか感じられないようなシロモノをば、メシがマズくなるだろうがー!!と、激怒するほうの性格なのでw「ヤフゴミ捨て場」でブーブー言ってる連中以上に激しく糾弾したに違いないと、自分で思うww
かと言って、
事情も知らずに、いきなり目撃したら、そりゃビックリするだろうし、えらく巨大なうえ、しかもリアルなんだから、恐怖感を持つかもしれないよね。
周囲に誰も いなくて、たまたま、自分一人だけで いたのだったら、まさに悪夢の光景さながらで、恐いとまで思うのも無理は ないだろう。
実際、こんな巨大な、リアルな顔が、突如として上空に現れるといった夢は、悪夢のパターンで出て来そうだとは、「首吊り気球」とかいうマンガの存在など一切知らない人でもチラッと思いそうでは あるけれど、
しかし、このプロジェクト『まさゆめ』アート チームのメンバーであり、この作品の原型を真っ先に考案したという人が、ご自身の学校時分に見た夢の記憶からであることを説明しつつ、その夢を見たときの感覚としては、ブキミどころか、むしろ、「すごいこと」「勇気を もらった」といった感じで、いたって明るい印象だったように おっしゃってるのだから、
あるマンガのことを連想させられたと指摘する人たちも含め、非常にネガティヴな、不快な感覚を掻き立てられたという旨の感想を述べている人たちが、「ヤフゴミ捨て場」に おいて圧倒的人数であると見えるところを鑑みても、人の感じかた、解釈の仕方というのは、その背景にある事情や経緯と絡んで、いろいろなんだなあと、あらためて思ったことだ。
明るく楽しいという感覚は、人間どうしの共通性として、概ね分かり易く、最も高い共有度を齎すものだろうけど、
芸術もイロイロなんだよね。
醜悪であろうが不快であろうが、何かしら喚起させ得る力こそは、芸術の原点、アートの力と主張する向きも あれば、
画家のルノワールや、キューバ国立バレエ団を率いるプリマドンナであった故アリシア・アロンソのような考えかたも ある。
私個人的にも、この世や人間は じゅうぶんに「醜悪」で、もう、おなか いっぱい、たくさんだと思ってるし、
だからこそ、せめて、というルノワールの主張のほうに共感する。これは、画家の作品自体に対する評価とは別だ。
もちろん、好きな画家の一人だけど。
だいたい、
無理やりにでも何か喚起してもらわなきゃならないほど、そこまでニブい感性じゃないと思ってるしw
うちの父親なんかさ、かのピカソの、独特にデフォルメされたスタイルの作品群を激しく嫌悪していたので、もしも、街なかの至る所で、ピカソの、そういう作品が掲げられているのを見たら、怒り狂うことだろうw
また、もう何年前になるのだか、村上、、、村上 隆さんだっけ?いかにもアニメ作品に登場するようなフォルムや雰囲気を持つ作品群を、フランスの『ヴェルサイユ』宮殿だったかで陳列した展覧会を催したところ、多くの不評を招き、なかでも、『ブルボン』王家の末裔と名乗る男性が、宮殿の壮麗さを損ねたといったふうに嘆いているという記事を目にした記憶が残っているのだが、
ところが、子どもたちには、とても好評で、すごく面白がっていたという。
じつは私も、村上 隆氏の作品は、良いともオモシロいとも思えたことが ない。と言って、これはキライだとも思わないし、
ただ、やたらゴチャゴチャやかましい感じの作風だなあくらいに思うのだけど。。。w
うちの親父の、ピカソに対するアカラサマな態度のように、えらくムキになって、大キライだー!!と叫ばんまでに猛反発する気もない。
もっとも、興味や関心が ないからこそ、そのアーティストの全ての作品を見たわけでないのだから、親父の、ピカソ作品に対する徹底的なほどの忌避や排斥意向まで持つのか どうかは、自分でも分からない。
早い話、そこまでムキになる情熱すら持てない、
つまり、響かないから無関心、ということだろうか。
私は、いわゆる「ブランド信仰」的な傾向が希薄なほうで、好きなタイプの製品メーカーや人が作りだしたものであっても、その全てが気に入る、逆に、気に入らないと かたづけられるわけでは なく、
これは大いに好みなのだが、そっちは、あまり、気に入らないとか、良いとは全く思えないといったことすら、わりと よくあるので。
もちろん、もともと、自分の好みに合っているものを作りだしている人やメーカーだけあって、あぁやっぱり、ここの製品だったんだなと、最初から思える場合が少なくないのだけれど。
それにしても、
あらゆる分野の組織やプロ、専門家、識者と呼ばれる人たちの存在の重みが、かつてなく揺らぎ、たえず疑われている昨今。
あの東北の大災害時に おいては、まず、原子力の専門家たちが、一般の疑念と懸念、どうも頼りないぞ?という不安を招いた。
今回の『五輪』では、しょっぱなの段階で、美術・デザイン業界の裏側と実態に対する嘲笑と顰蹙を招いた。
その影響も残っているのか、「首吊り気球」なるマンガ作品からパクったんじゃないか?という揶揄のコメントも幾つか見かけた。
そして、いまは、
「勇気と感動と希望」そんなイメージで固められていたはずの『五輪』の裏側、実態の全てが疑われ、凝視されている。
政治屋なんぞの実態と存在意義は何を今更で、
とうの昔から、言わずと知れていることだが。
【続く】