2015.02.09 (Mon)
『政府の「シリア渡航阻止」に賛否両論 「事前に言う必要あったのか」の声も』
J-CASTニュース2015年2月8日(日)17時54分配信
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/jcast-20150208-227359/1.htm
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「台風の時に増水した川の様子見に行くなって...」
一方で、ネット上では、冷淡な反応も多い。お笑いタレントのガリガリガリクソンさんが「台風の時に増水した川の様子見に行くなって親に習わんかったんかいな。自由と勝手は違うって先生に習わんかったんかいな」と皮肉ったツイートは、一定の支持を受けていた。
そもそも事前にシリア行きを明かしていたことへの疑問の声もある。堀江貴文さんが、「この人スタンドプレーでしょ。黙っていけば返納命令はでない」と自らのサイトでコメントしたのを初め、ジャーナリストの安田純平さんも、外務省の対応を批判する一方で、自分の体験に基づいてこうつぶやいている。
「これは人によるけど、俺は出発前も滞在中もどこへ行くか、どこにいるかは帰国するか安全な場所まで出るまで公開しない。ネットで流れたら変な連中に知られて邪魔されたり危険なことになったりしかねないから。信頼できる人限定で取材過程を知らせるのは逆に安全対策になるけど、クローズドでやらんと」
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自殺でもそうだが、本気で死ぬことを履行しようと決心したならば、あとは、ジャマされないことを念頭に、ひっそりと決行するはず。
わざわざ予告するということは、どこか甘えと胡散臭さが漂う。
生活実感としては、抜粋した上記の幾つかの意見のほうが、実感があるだけ、よく分かる。
さきの、東北の大震災に伴う津波の際にも、そこまで大水が迫って来てるというのに、何を考えてか、いつまでもグズグズと、足を止めて、ノンキそうに眺めやっている男性(こういうときは特に、中高年男性に多いのかなという印象がある)が、残された動画記録のなかにて散見された。
ホラー映画等でも、迫る危険を察知できずに、ノーテンキにも、わざわざ、「飛んで火に入る」ナントヤラで、自分から飛び込んでいくような迂闊な登場人物に、かえってイライラ腹立ちさえ覚えたという感情は、少なくない人々が感じたことがあるだろう。
さて、憲法の宣言と言えど、まずは自国内に対してのものであり、ひいては、こう言えなくもないとは思うけれども、はたして「全人類」を対象にしたとまで言い切れるのかどうか、現実には、まったく異なるスタンスの憲法を持つ国々もあるわけだろうし。
ジャーナリストそれも危険地帯に赴いてまでの、となると、正義感や使命感のみならず、もともと個人的にも、知りたがりで教えたがりな性質の人たちなのだろうなと思う。
特に男性のなかには、殊更「ヒリヒリするような」極限状態、「イチかバチか」「伸るか反るか」を楽しむ性質の人も、女性一般に比べると、多くいるように思う。これには、もともと男性性というものには脆弱さを含んでいるゆえの性差が齎す心理的な面も絡んでいるだろう。
私自身は、現地に身を置いて知るということの意義、それが、どこの国の誰によって知られ、切り取られ、伝えられるかということの重みを理解しているつもりだけれど、
この、かつてなく、情報あふれる時代と社会、現場で何が起きているのかということが、何らかの形にせよ、ある程度は、否応もなく伝わってくる以上、いよいよとなれば、まずは、自分の身の安全を第一に図ってほしいし、それが、同胞としての、あるいは身内としての本音だ。
ましてや、あれらの泥沼の争いは、日本国として直接的に関与したことがなかったのであれば尚更のことだ。
むしろ、こうした事態を洩れ知ったとき、われわれが真っ先に考え、対処していくべきは、
どのようにすることが、あちらの国民のみならず、他の国々からも やって来て、ボランティアとして関わっている一般人たちのための確かな助けになるのかということだろう。
カビの胞子を撒き散らすだけのような空爆。。。
いまや日本人全体に、「どこにいようとも悪夢の始まり」を宣言されてしまった。
これ以降、ひとり“IS”のみの興亡如何にかかわりなく持続していく時代に入ったのかもしれない。
政権に対する批判は、国民の第一の権利であり義務だ。
一般国民の個々は力弱く、代表者である政府に託すしかない。
そのための政府、為政者なのだが、これまでの経緯を知れば知るほどに、彼らは、その務めを十全に果たしたとは到底、言えないようだ。
今回の事件を、「安倍退陣要求に利用している」との、まさにブーメランな主張を繰り返している連中自身にも、認めたくは なくとも、内心では多少なり分かっていることと察する。
すなわち、
安倍氏自身が、あの犠牲になった人たちと、これから犠牲になる恐れが高まってしまった国民全体を担保に利用したのであろう、ということを。
首長にあるまじき、この無責任、自己中心的な軽率ぶり、絶望的なまでの酷薄さ、
じつに、戦後最悪の首相だと思う。
今回の凄惨な事態は、安倍政権退陣に値するほどの大失態のはずなのだが、
どうも、野党や大手メディアの糾弾の声はイマイチ低いような気がするし、
政権側と、そのシンパらは、早々の幕引きをと大変に焦っているようだが、断じて許すわけにいかない。
一番大きな理由は、日本人一般に流布し、さしづめ西欧諸国にとっての「自由」のごとく信じられている「自己責任」なる概念、
これが、今回も、人質となって殺害された人たちへの冷淡さの理由になっているのだろうとともに、
この事件についての一連の時系列的経緯や、もう一歩踏み込んだ観察と見解については、ほとんどの人々が、毎度のことながら、深くは理解できていなく、とても皮相的な、通り一遍の見方しかできていないのが実際のところではないかと思われる。
まあ、いつものことだ。
いまどきは、ネットという「舞台」が、なんらのフィルターも掛けられないかわりに、いとも浅はかな捉え方しかできない阿呆どもを跋扈させ、助長させる始末の悪さがある。
日本国というものと、いまの政府に対する不信感が、これで決定的に募ってしまった私自身、なにも「外野」なわけではなく、
事実、犠牲者の同胞である一人の国民として、また、一人の人間として、心に傷を受けた。
これを逃げずに、曖昧に流さず、直視して考え続けなければならない。
それにしても、あの日本人ジャーナリストたる後藤氏は、その凄惨な死をもって、間違いなく、重い重い命題を、およそ哲学とも縁薄き、のほほん日本人たちに突きつけることとなったわけだ。
だが、このことの意味に気づこうとしない、または、目を背けている者が多過ぎる。
『「リべルテ」』