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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.06.02 (Tue)

【続】パターナリズム、思考停止、オポチュニスト

の続き。



同時に、

私個人は常々、
「障碍者の甘え」以上に、無自覚な「健常者」の思いあがりというものを、日常生活のなかで実感せざるを得なかったし、ブログでも指摘したことがあるが、

世の「健常者」のなかには、「隠れ精神異常者」や隠れ障碍者も、少なからず紛れ込んでいるのだ。

毎日のように報道される各種の事件を見ても、あきらかなこと。

 

特に、
ネットのように、ほぼテキストだけの世界では、よほどのことが ないと、
さだかに見分けられ難いだろう。

どんなに異常な精神の者でも、それらしく文字と文章を打てさえすれば、これでも立派な「発信者」として まかり通る。

 

私個人の経験上からも、

「精神異常」「き●がい」と激しく罵ってくる当人自身が、まさに、その病や障害を持っていた患者ということも めずらしくは なさそうだ。

そして、

実は、世間の各家庭や個々人の周囲に、そういう者が、そこここに存在しているらしいということも、私の実生活のなかで経験しているし、

そういう者の正体を見破れずに、言うことに従ったりすると、あとで、自分自身が追い詰められて困った仕儀に陥る。

ところで、
『在●会』系だか『チーム関●』だか、そのテの集団の街頭活動に おける、ある動画を、ひょんなキッカケで見たときに、
仲間たちのヤンヤの喝采に励まされて、大音量のマイクを握りしめ、
とても嬉しそうに演説していた男性は、どうも、知能面に問題があるのでは?と思えたことがあった、それは、演説の内容自体からではなく(このテの演説内容なんぞ、誰が がなろうと、いずれ大差はないw)、ほかの要素から感じられたのだが、
もしかして、こういう方面の障碍者をも誑かし、イイ気分にさせて利用しているのではあるまいな?ということにも危惧を覚えた。

 

 

世のなかの おエライさんの威勢や勢いのある政治屋、
そのバックにヘコヘコ控えている集団の言うことに、素直に従っていると、大変なことになる。

 

だいたい、どの分野でも、人の上に立って権勢を振るう、振るいたがる者には、「サイコパス」と分類される者が多いというデータもあるんだそうで、これは、個人的経験からも頷ける現象だ。

 

世のなかが、いつまでたっても、なぜだか、良くなり難い、
きみょうにも、問題の多い方向へと敢えて突き進んでいってしまうという現象の裏に潜んでいる原因かもしれない。

 

世のなか、ごく聡明な者よりは、思考停止のオメデタき愚か者のほうが、数としても断然、上回って多いことだろう。

だからこそ、「サイコパス」にとって、つごうよく あやつり易い愚衆だ。

 

少なくとも平均、それ以上の生活レベルに恵まれて、身体的障碍もなく、大学を普通に出ているということが、イコール自分は「人並み」か、それ以上であるに違いない証拠だと思えて

そんな自分の判断を、人並みか、それ以上にマトモなはずと信じている

そのことによってのみ、かろうじて、プライド、精神的に支えられているという自覚がない者は、、、

そりゃあ、それらの条件すらクリアできていない者を見下すわけだ。


同時に、そこには、

この自分でさえもクリアできているのに、こいつらは」

という、屈折した卑下意識が潜んでいるのではないだろうか。

 

ましてや、

『人並み』の条件すらクリアできなかった者」という存在が、

まぎれもなく「人並み」だと信じている自分よりも、何らかの有利な立場を得て満喫しているらしいと思えば。

さぞや業腹だろう。

この自分よりも、「人並み以下」な連中のくせに、と、ひどい理不尽だと思えるのだろう。


(ついでに再び言っておくが、病人にせよ障碍者にせよ、こういう存在がなければ、およそ医学や療法等の発達・発展もないw)


たとえばだが、

配偶者の不貞を、酷く恐れるあまり、とうとう妄想の域まで嵩じて、現実には貞節そのものな配偶者であるにも かかわらず、自分を裏切り、隙を盗んでは、他の誰かと親密に交わっているに違いないと疑い、ついには信じ込んだ者が、実は、

相手の不貞で裏切られることを恐怖している、その当人の内側にこそ、自身による裏切りと不貞願望を秘め持っているのだという説がある。
要するに「
自己投影」だ。


私の見解では、
こうした類の人は、むしろ、その焼け付くように苦しい妄想のイメージによって掻き立てられ、飽かず「マスターベーション」に耽っているかのように思える。

また、

あまりにも依存している対象には、愛情というよりは、むしろ、憎しみが背中合わせに貼り付いているようにも思う。

つまりは、

心底で、ある意味、相手側に、自分自身の生殺与奪権を奪われたごとく支配されきっていると感じてしまっているので、

万が一にも、重要この上ない相手によって、この上なく可愛い自分が裏切られるなんて、あってはならないこと。


そんなわけで、いつしか、怨み・恨みにさえ似た思いを抱くに至っているのかもしれない。

要するに、被害意識へと繋がっていく。

なにも恋愛関係等だけでなく、親子間にもあり得ることだ。


それは さて置き、


排外」的になってしまうのは、心理的に恐怖心が絡んでいるからという。

ならば、これまで何度か言ったように、国家と自分個人とを重ね合わせ、投影・同一視し過ぎてしまう者は、どうだろうか。

いま、日本は、日本人の全体的な空気として、「排外主義」に陥り、
かつ、自信を失っているようだという。

その大きな理由としては、やはり、経済力のことだろう。

 

特に、国家権力と、男性の「マッチョ」思想とは、パターナリズムと同様に結び付き易いもののようだ。

実際、世間一般的にも、男性の自信は、主として経済力に左右され易い傾向を見受ける。

これが危ういと、今度は、ドメスティックバイオレンスに走ったりもする。


結局、

日本には、経済力、カネの力しか、信じられるものは なかった、

なのに、
それが、昨今、揺らいできていると感じる向きが増えているらしい。


かつて、アジアの各地域で、暴力を振るう、鉄拳で殴ることを好む性質だと思われてきた日本人、

直接的暴力を振るうことが禁じられたのちは、手に握った札束で間接的に張り倒すことを覚えた。


いま、それも危うくなっているということで、いたく、自信を失っているらしい。


やっと、せっかく手に入れた安定」を奪われるのではないかと、

努力を尽くさぬ怠け者の「格下」どもと見做していた連中、

羊を人間にしてやった」はずが、
そう遠くなく取って代わられる恐怖に怯え、

「打つぞ撃つぞー」と威嚇しながら、ちっぽけなプライドはズタズタ。


近隣国の嘲笑や悪口、挑発に、神経をピリピリ尖らせ、
国内では、社会的弱者に対して侮蔑の唾を吐き、恩に着せたか放題、
無理難題、イチャモンを吹っ掛けて見せ、
その反面で、
めいっぱい、自分で自分を持ち上げ、ウットリと自慰に耽る。

褒めてくれる相手には大喜びして縋りつき、
「ボス」からの お達し、お叱りに一喜一憂。

これが、

分断統治」策を練る為政者にとって、扱い易い愚民の姿。

 

戦争によってこそ安定すると詭弁を のたまう、戦争のせの字も知らぬに、無責任なボンボン育ちの愚かな為政者に引きずられるがまま、

カネの力を頼めないとなれば、たちまち、武力に頼らねばなるまいと、あっさり先祖返り。

 

パターナリズムに育てられたオポチュニストたち。

やっぱり居心地が良いのらしい、
慣れ親しんだマッチョ思想とパターナリズムは。


先日も指摘した、これが、しょせんエコノミック アニマル」なれの果て。


アメリカ等の白人映画で昔から描かれる典型の姿、
狡猾で出っ歯のメガネの胴長短足ちんちくりん。

相変わらずの姿。

この70年来は、いったい、なんだったのだろうか。

 

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