2020.08.25 (Tue)
『「改善」できないなら、敗北だ。しかし』の続き。
これまでのエントリーでも言ってきたように、
私は、自殺や自死という行為について、「意志」というコトバは使わない。
また、
「安楽死」という呼称に対しても、以前から疑わしく思っていた。
それは、
ほんとうに「安楽」に死ねるのだろうか?
という素朴な懸念からであるし、
そこのところは、「消極的」と付く「安楽死」ならば、すでに、国内においても実施されてきているという、
ならば、
「消極的」とは如何なる状態なのか、
「積極的」と付いた場合と、どう異なってくるのか、
そこを知りたいのである。
少なくとも、
「消極的」というレベルを実行したために、かえって増大した苦痛に耐えなければならないのであれば、こんな酷なことは ないと思う。
ところで、私個人にも、医師という立場の人からは、まあ、いろんなタイプが いるのは当然として、基本的には、やはり、患者を治癒、そこまでは いかなくても、少しでもラクな状態へと改善させることに、使命感や、やりがいを持っているのであろうことを感じる機会は あった。
とある医師は、もとは、一時期の母親の担当だったのだが、周囲の知人などからは、
「あの お医者は遠慮会釈なく、ずけずけと厳しい所見を言い放つ、怖い冷たい医者だ」
という、もっぱらの評判だったらしい。
けれど、私自身も、自分の病気の症状が深刻化しつつあったおり、その医師の診察と処方を受けたあと、再度の診察時、
「だいぶラクになりましたぁ」
と告げたとたん、
クールを絵に描いたような その医師の頬が、反射的に弛み、いささか ほころんだ表情になったのを目にした。
やはり、これが、医師の「本能」とも言うべきところなのだな、と思ったことだった。
刑務官の役割とは違うのだから、
これが本当の「医師の本能」とするところであるなら、
やはり、「自殺幇助」などが本懐となるはずもなく、
「積極的」と付く「安楽死」ともなれば、患者にとって、そのほうが、今後も生命を持続させる以上のメリットが大きいと確信できるほどでなくては、これも、たいへん酷なことでは あるまいかと思われる。
社会や制度、現状を、いつになったら「改善」できるのか。
答えを出せないのなら、ただ議論を避けるだけで やり過ごそうとするのは卑怯というものだろう。
現に苦痛に苛まれている患者当人にとっては、残酷なことだ。
ただ、危険性は看過できないのも現実。
ことに、わが国でも、「シネシネ大作戦」煽り屋連中が跋扈している世相だ。
どうやら、先回エントリーで言及した西部氏と、その「お弟子さん」やら、周辺の「右翼」「保守」勢力の影響が あるのだろうか。
それに対して、
「左翼」とか「ヒダリ」が どうこう、という揶揄の類も相変わらずで「ヤフゴミ捨て場」には飛び交っている。
じつに くだらないし、
苦しんでいる患者にとって、こんな虚しい話もないだろう。
「改善」できないのなら敗北だ。
しかし、
ケースによっては、乗り越えることが できない患者の苦しみは今、起きている現実である。
いつまで待てばいいのかも答えられない。
思い切って議論を開始するにしても、右や左の思想だの机上の理想論、偏った方向へ傾くことへの警戒を重々意識しつつ、
いろいろな側面や段階にての支障が あるようで、非常に困難な問題の一つでは あるが、
すでに実行している『スイス』などの国々における実態や起きている問題点なども調査して炙り出し、慎重に吟味する要が あろう。
ここも また難しい点だろうとは思われるが。
手を拱いているうちに、また次の類似事件が起きる恐れは、念頭に置いておかなければ ならないだろう。
このままでは、悲痛な犯罪の歴史が、また1ページ増えることになる。
「改善」できる社会への希望を捨てないという輝かしい旗を、どこまでも高く差し掲げて進む人々の姿勢は理解できるし、私個人としても、基本の足場は、そこに置きたい。
しかしながら、その旗だけを見上げていて、足もとに横たわっている人の苦痛を、視野から締め出したくは ない。
だいたい、どこか矛盾を来しているのでないかと思えるのは、
現社会の「負の面」に呑み込まれてしまう危険を、つよく警戒するばかりであるならば、
本音では、この社会を信用するには足りないと思っている疑心が、
そして、自分たちが敗北するかもしれないという、自信のなさが あるからでは ないか?
諦めない希望と裏腹な、その疑心と自信のなさは、どこから来ているのか。