2016.08.26 (Fri)
天皇・皇室、それ以外の人々全員も、いにしえからの血筋を脈々と受け継いできてあることに、何も変わるところは ない。女系か男系であるかが無関係ならばね。
その昔、女性にして天皇となった少数の人たち、
たとえば、持統帝は、皇女であり、実の叔父にあたる天皇の后ともなったので、その子息は、母も父も天皇に直接、繋がっている立場だった。
『二階自民幹事長、女性天皇を容認=認めねば「時代遅れ」』
時事通信 8月25日(木)17時28分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160825-00000093-jij-pol
「時代遅れ」と言うのなら、
法的にも矛盾が隠せない「天皇制」「皇室制度」という器を後生大事に温存して しがみつくほうが、どう見ても、よっぽど「時代遅れ」じゃないですかw
だからこそ、
敢えて維持していくうえでの、容認理由を据えなければならないのだ、賛成の立場であろうが反対の立場に くみしようが。
天皇さんも、その理由として、新しい天皇像すなわち「象徴天皇」の姿を模索し、長年にわたり突き詰めてこられたのが、先日の「お気持ち」表明のなかで吐露されていた。
タテマエか欺瞞であることが真相だとしても、皇室祭祀の主催者が男系子孫でないことにはマズイという特有の事情から、男系で続いてきたのだ、というのであれば、
そこにこそ、皇室ならではの家系の特異さが あるわけだから、
そこも とっぱらい、
女系も入り混じって いいことにするのなら、われわれ一般の家と差別化する理由なんぞ、何もない。
それでも、
「天皇」「皇室」という呼称だけでも存続させたいと願うのは、
それこそが、タテマエの権化なのであり、「ヤフコメ民」の誰やらが言った「天皇システムの奴隷」なる指摘は、まさに、自分たちへのブーメランであると知るべきだ。
なにを、そこまで、継続せんがためと拘っているのか?
という疑問は、「女系天皇」容認派についても同じことなのだ。
つまり、「天皇システムの奴隷」、無自覚な。
ちゃんちゃら おかしい。
それと、
小林?えーと、「ワシがワシが」と主張するので知られたウヨ派マンガ家?なのだそうだが、この ご仁が言ってたという「アマテラスは女性神だから」云々。
くだんの発言が、何を言わんとしていたのか、その内容を、私は全く知らないのだが、
「アマテラス」という、天皇家の女性祖神とされる公理的存在は、
イザナギという名の男神からのみ出生した、
という伝説だ。
すなわち、そもそも、異性が介在することなく生まれ落ちた、ということになる。
キリスト教の言う処女懐胎の男性版みたいだわな(笑)
また、ギリシャ神話『オルフェウス』の物語も そうであるように、
「アテーナー女神」の生誕物語とも酷似しているようだ。
もう一度、指摘しておこう。
女系容認にせよ、現代日本の憲法に則った「象徴」天皇にせよ、それらは、「新しい天皇像」として、ここから新たな「伝統」の第一歩を始めようじゃないか、ということなのだろうが、
その必要性たるは、いったい、何なのだろうか。
なかみがゴロッと入れ替わっていても、なおも「天皇システム」に拘る、その意味は何なのかを考えるべきだろう、と。
それは、たしかに、「安定的な持続」を願う現天皇の立場からでは、公的には言うことも できないのが、憲法上の基本的スジとなっている。
主権者たる国民が考えなくちゃならないわけ。
「側室」あるいは「妾」、現代では「愛人」とでも呼ぶか、
とにかく、「一夫多妻」の形態を復活させたのでは、いくらなんでも、現代の国民感情が許容できまいし、「象徴」として、一般国民の前で、お手本を見せる、あるいは演じ続けるべき存在として、良きイメージが まる潰れになってしまう。
ならばと、
旧皇族を復帰させるとなると、いま以上に、多額の税金を用いなければ ならなくなるのも、目に見えている。
比較的に無難なのは、人格識見等が適切であると見受けられ、ご本人自身も受け入れる姿勢が明確であるならば、お一人に絞り、「養子」という かたちで、皇籍復帰していただく、というところになるだろうか。
ま、それは ともかく、
なるほど、「男系」にのみ拘っていては、「天皇家」「皇室」の存続さえ危うい、それも そうなのだろう。
しかし、私個人は、自然に任せておれば いいものを、と思っている。
「伝統」の なかみが入れ替わってしまうのに、呼称だけ存続させられれば それで よし、で済ませるのは、いよいよ形骸以外の何ものでもないと考えるからだ。
そうなると、どのみち、先行きは細る一方、と覚悟するしかない。
ただ まあ、
たとえば、和服に譬えてみれば、
形骸そのものでしか なくなってもいい、とにかく存続を!と焦る人たちの心情も、理解できなくは ない気がして くるのだ。
和服というものも、もともとは、渡来文化の影響が最たるものだった時代から始まり、王朝爛熟文化の華やかなりし「十二単」を通過し、それからも、長いあいだに幾度も、形状を変化させてきている部分は あるわけだ。
現代人の私から見て、むしろ、室町時代以前は、下着扱いだったという「小袖」スタイルのほうが、着付けも着心地もラクそうで、だんぜん、合理性が高いように見えるのだが、
現代では、豪奢な振り袖に代表されるように、ますます大仰なスタイルへと ぶり返し、したがって、日常に用いる人は皆無と言っていいほど廃れてしまい、業界や和服通の人たちが、あれこれの工夫を発表し、一般へ普及に努めても、もはや、特別な行事の日でさえも、和服を着用することは、年々減少している。
それでも、
では、「時代に合わせて変化し続けてきた」和服そのものが なくなってしまって平気か?
と問われると、やはり、消滅は してほしくないわけで。
本当を言えば、なくなっても全くと言っていいほど、困らない。
ある種の業務などに携わる人たち以外は。
それでも、
遠くから眺めるだけでいい、視界から完全に消えてしまうのでは、やはり残念なのだ。
私自身、生前は和服好きだった母に着付けてもらえるから、お正月くらいは着用していた。
それも、年々、めんどうくさくなり、実家を出たり、母が亡くなりしてからは、もう どれくらいになるのか、正月だろうが なんだろうが、全く、和服を着ることは なくなった。
プロに髪結いと着付け料を支払ってまで、一日じゅう苦しい思いを するのは、あまり、気が進まない。
それでも、
自分のは勿論、母や叔母の形見で譲り受けた大量の和服のうち、処分しきれずに、手もとに残してあるものが、なお多く残る。
けれど、
天皇や皇族は、和服じゃない。
物じゃなく、生きている人間であり、
人権面での不全を強いて犠牲にして、形骸化を承知で、矛盾を曝け出してまでの、何の価値を、彼我ともに、そこに見ているのだろうか。
天皇家特有たる祭祀の後継者資格を、従来のように拘る必要はない、また、それよりも、あくまで現憲法に則った「象徴」なる天皇の姿を構築し続けていくことを最優先すべきである、
と お考えであるのなら、そのように明言なさるべきでなかろうかと思うのだが、
現実、「政教分離」のはずの わが国でありながら、皇室祭祀に、莫大な国費を費やしていることの是非は、誰が判断しているのだろうか。
天皇ご自身は、言うまでもなく、天皇家内の神道の頂点であり、言わば、世襲教祖と目されるべき存在だ。
それだから、このことについては、天皇その人にしか、判断は下せまいはずなのだ。
国民の大多数は、それの信者でさえ ないのだから。
皇室祭祀に、実のところ、伝統の重みも薄く、実質の意味は ないのならば、
いや、ないであろうのは、とうに分かってるが(笑)、
そうとハッキリ認め、形骸でしかない程度に、思い切って縮小してしまえば いいのだけれど、
天皇ご自身が、じつは、、、と、皇室祭祀の無意味を明らかに述べてしまわれるのは、さすがに、気が進まれないのだろうか。それを言っちゃあ おしまいよ、とて(苦笑)
いずれにせよ、
まさにその時代の「国民の お手本」たる姿を維持できないと、猛バッシングされるのは、芸能人と変わらないでは ないか。
なぜ、特定の人たちだけが、否応なく、選択の余地なく、それを引き受けなければ ならないのか。
日本の国民の知的レベルも、それほど高くは ないと認めざるを得ないが、
いいかげんに、無知のまま、やすっぽい情緒だけでは おさまらない時期に来ていることを自覚するしか あるまいに、と思うわけ。