2020.07.22 (Wed)
〽十五で ねえやは嫁に行き♪
という童謡が あるくらいだ。
現代よりも、もっともっと幼さの残る、昔の新婦であったろうことを思うと、17歳あたりで出産したとて、どうってことは ないわね。
旧ブログや過去エントリーで少し述べたことが あるように、
私の父親違いの姉は、17歳で、男の子を一人、産み落としている。
私に勝るとも劣らぬ劣悪で複雑な家庭環境で生育したせいなのか、
学校の成績は良好だったらしいにも かかわらず、お定まりの不良コースまっしぐら、中学すら、まともに卒業していないままだった。
片親違い、とは言え妹の私から見ても、私らの母親のほうに似た姉は、いたって器用なタチで、手先の細かい作業や料理も得意で、頭の回転も良く、けっこう こまやかに世話好きなところも あり、
私なんかよりも、よっぽど、実母に似ている。
ところが、その母親と姉は、仲が良いとは言い難く、
初婚時に儲けた娘である姉は、その幼い頃に生き別れた母親の「ダブル不倫」が発端で、その後の不本意な境遇などのことが あるゆえに、実母を嫌う心情も無理ないことと、私は、全面的に姉の肩を持ちたい気持ちが終始つよいのだけれど、
母親も母親で、皮肉にも、自分に よく似た、この長女を、なぜか、どこか信用していなかった。
むしろ、
「(おとうさんに似て)出来損ない」「あんたなんか産むんじゃなかった」
と罵り続けてきた私のほうを、全面的に信頼していた。
と言うか、あれは「依存」だった。
母親の気性の激しさにも似たのか、なかなか気の強い姉と違い、およそ似てない、おっとりボンヤリしている私のほうが、いとも利用し易く、扱い易かったからに違いない(苦笑)
ある日のこと、おなかの子の父親という男を連れて、実母の家庭を訪ねてきて
(その ずっと前から続く、いろいろなスッタモンダが あったんだけれども、スペースの問題上、ここでは割愛)、
とにかく産むしか仕方ない事態にまでなっていたこともあり、とりあえず、その男との所帯を持たせ、あかんぼが生まれて しばらくのあいだ、うちで、母子とも預かっていた時期が ある。
その後、
これも ありがちなパターンだろうが、姉と、その あかんぼうの父親との生活はアッサリ破綻した。
このときも、またまた、うちの母親お得意の強烈ゴリ押しでもって、1歳にもならない子(当時30代だった母親にとっての初孫)を、相手の男の実家(そこも また、血の繋がりのない母親)へ押しつけて、姉らをサッサと別れさせ、
姉は、また、「夜の世界」へと戻った。中学さえも、きちんと卒業していなかった姉は、さしあたって生きていける世界が、他には なかった。
恐らく、うちの父親、つまり、姉にとっての義父、母親にとっての夫に対する遠慮も あったのだろう。
私らの母親は、病的なほどと言っていいくらい、気性が激しく、負けん気と勢いが異様に強いタイプだったが、
生来、いたって鈍い私も、ここまでトシくって、やっと察することが できるようになったのは、
うちの母親は、ほんとうは、コンプレックスつよく、男に弱い女だったのだ。
最近またぞろ、いわゆる「ネグレクト」によって、3歳の子を死なせてしまったとか、また、
よりによって、6歳の子の眼前で、母親である身の自分が、無残に殺されてしまったとか、
偶然にも同い年の24歳という母親らが引き起こした事件が相次いでいる。
私個人的には、それらの母親たちを同情する気には なれない。
容赦なく言うが、自分自身の だらしない行為が引き寄せた原因で、しかも、幼い子どもが辛酸なめるというのは、どうにも許し難いという本心も拭い難く ある。
しかしながら、
社会全体のシステム改善を図らなければという指摘は、もう、ずいぶん前からだし、
生殖能力だけは旺盛でも、子を養育する能力には欠けている親、というのを責めたところで、埒が明かない現実は確かに ある。
さしあたりの喫緊は、子どもの命と生活だから。
さて、
私の父親違いの姉が、17歳で産んだ子の父親との生活が立ち行かなくなった原因は。
相手の男が、独身の頃と同じく勝手 気ままで、母子の生活費を渡すことすら しないものだから、
生後数ヵ月の子を寝かしつけて、その隙に、住まい近くの喫茶店だかへパートに出て、姉自身が、いくらかの生活費を稼いでいた、
というので ある。
事情が発覚し、うちの両親とともに、初めて、当時の姉たちの住まいへ乗り込んだ、中学生だった私は、窓というものが ないマンションの部屋も あるんだと、なかば呆れたものだが、
(障子窓らしきものが あるので、まさかと思い、戸を引いてみたら、そこにあるのは、ただの壁だった!)
その、窓ひとつない狭い部屋に、あかんぼうを寝かせて、辛うじて働きに出ていた、ほんの数時間のあいだに、どのようなアクシデントが起きても、ふしぎは なかったであろうことを、いまの私は、つくづくと思う。
姉だって、最悪の場合、新聞沙汰や警察沙汰になるような事態を招かずに済んだという保証など、全く なかったのだ。
私にとって甥である あかんぼうは、実祖母と義理の祖父に あたる、うちの親らが、当時の姉の夫を前に、激しく責め、いよいよ声を荒げている さなか、火が ついたように泣き出した。
「こんな父親が怒られているのが悲しいのか、よしよし」
と、抱き上げた孫を、私に渡して抱かせ、しばらくのあいだ、外へ連れて行くようにと母親から指示されたので、甥を連れ、窓のない部屋を出て、かと言って、行く当てもないので、なんとなく、マンション屋上へ連れだしたりして、日光浴させつつ、あやしているうちに、自分の父の容貌に よく似た あかんぼうは、悲しそうな顔したまま寝入ってしまった。
あのときの、ぷくぷくした あかんぼうの重さ、いまでも、私の両腕が憶えている。
しばしの時間、そうやって過ごして、そろそろ いいかなと、あかんぼうを抱いたまま、慎重に、もと来た階段を降りていったら、ちょうど、下からは、姉が、どういうわけだか血相を変えて、迎えに来ていた。そして、
「どこに行ってたの?!」と、咎めるような口調で言うが早いか、私の腕から、まるで奪うように、もぎ取るようにして、自分の子を抱き取り、抱きしめて、大急ぎで、先に戻っていった。
おそらく、この直前、
あかんぼうを先方に引き受けさせ、相手の男と別れるという話へ、多分、私らの母親が、有無を言わせぬ勢いでリードしていったのだろうと、今にして思う。
他所の男(私のほうの父親)に奪われた先妻の代わりのように、娘に依存し、親として無責任なくせに、ストーカーのようだったという、姉の実父。
そして、
「ダブル不倫」の果て、先夫に渡したまま、長らく音信不通となっていた実母。
姉は、一人の生活に戻ってからも、何人かの男たちと つきあったようだが、
熱心に請われた人と、40歳を目前にして再婚したものの、子どもは二度と産むことは なかった。
「自己肯定感」を徹底的に潰され、子を産んで育てる自信も欲も持てず、そうこうしているうちに、結局は産めない からだとなった私としては、
もう一人だけ、姉には、女の子を産んでおいてほしかったなあという本音も あるのだが(ちょうど、母方の、やはり、子のない叔母が、私に全てを託そうとしたように 苦笑)
長い年月ののち、
電話か何かで話しているときに、ふと、
「産まなかったら よかったんよね」
と、自嘲気味に、私に語っていた姉。
「おまえなんか産むんじゃなかった」
と言われ続けた、自分の幼い頃を思い出し、
「子どもには何の罪も責任もないのに、あんなこと言って」
と、姉の、その言動を問題視し、母親に告げると、
「子どもを持ったことが ない おまえには分からない」
と一蹴されたことが あったと憶えている。
すっかり、おとなの男になっているであろう、
自分の子を持っているであろう甥に、
記憶のカケラにも残っていないであろう、存在すら知らないかもしれない叔母の私から言えることが、もしも、あるとしたら。
漏れた母乳で、胸もとを濡らしていた、17歳だった姉。
姉は、あの子を愛していた。
それは、間違いなく そうだったと思う。