2014.07.20 (Sun)
まあ、なんだ、
「私の性器は猥褻ではない」
と言うが、司法、警察としての判断に、「私の」「あなたの」「あの人の」は全く無関係だってことなので(苦笑)
『差別の思想では表現は守れない』
赤木智弘2014年07月20日
http://blogos.com/article/90860/
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彼女は、男性器柄の靴下を履いていた。それは彼女の作品ではなく、一般的に販売されているものではあったが、それを履いていることに対して、「これには男性器を踏んづけているという意図がある」とおっしゃっていた。
ろくでなし子の表現は「自分の手足と同じように女性器を描く」ということで、そこにわいせつの意図(法的なわいせつの概念とは異なることに注意)がないということは、大変わかり易く明らかである。一方で、この女性の表現は男性に対する暴力性や差別性を含んでいることも明確である。ならば北原の考え方をそのまま女性に適用すれば、この女性の表現は当然、規制されるべきということになってしまう。
もちろん、僕はこの女性の表現が規制されるべきとは考えない。なぜなら、そうした暴力性や差別性を表現することも含めて、芸術の役割と言えるからである。また、そうした暴力性や差別性は法に触れない限りは許容されるべきである。暴力性や差別性という意図を規制することは、個人の思想の自由に、国家権力が土足で踏み込むことにほかならない。
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今回は北原の近しい人が逮捕勾留されたことから、北原に対して表現の自由を主張してほしいという意図で近づくメディアもあるだろう。しかし、彼女の意図することは、メディアの意図とは真逆の表現規制であり、また女性性を言い訳にした表現擁護、すなわち男性に対する性差別を積極的に行う人物であるということを意識する必要がある。
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「これには男性器を踏んづけているという意図がある」
パフォーマンスなのね。
あくまで私個人としては興味がないことだし、どうでもいいんだけど、
肝心の話題、「自分の手足と同じように女性器を描く」。
なぜ、今回、あえて手足ではなく、女性器だったか。それも、お金と交換に。
「寄付」なら寄付で、よけいな引き換えしなくていいと思うのだが。
すると、「寄付」金の集まりが振るわなくなるのだろうか?やっぱ、なんかヘン。
「暴力性や差別性は法に触れない限りは許容されるべきである」
つまり、法に触れさえしたら、許容されませんw
だったら、法を つくったもん勝ちだww
どんな人も大概は、自分は、まずまず普通の感覚の持ち主だと、なんとなく思ってるでしょうし、
(普通は大多数が)共感でき・納得できれば、法を設けられやすい、
そうでない場合、これを法とするとき、往々にして(広範囲に)暴力および暴力的なことが起きる。
「教育」だって、そうでしょ。
女性全体への暴力性という長い歴史の経緯と問題告発、
それに伴う、新たな、また様々な暴力性。
さっき、「ガザ」空爆に関連してイスラエルと、アメリカを中心とする国連の問題を論じたコラムの内容も連想した(苦笑)
『ついに、出たw』
「そうした暴力性や差別性を表現することも含めて、芸術の役割と言えるからである」
表現に及んだ時点で、それ自体で、たちまち暴力性を帯びるという現象は、あきらかにあるのではないか。
見るのも厭ってこともある。ごく繊細な人だと、吐いちゃうことすらあるでしょうし。
「児童ポルノ」にしても、こっそり秘かに一人で楽しんでいるうちは、そりゃ勝手、自由だよ。
でも、このことは、私の旧ブログでも指摘したことがあるけど、
男性は、どうも、特に視覚から受ける刺激に、たいへん敏感なようだ。
子どもは、真似をするのが大好きだ。
で、
子どもっぽい男ほど、はた迷惑な性犯罪に走りやすいのではないかと(爆)
ところで、えー、私の「宣言」としては、もう数年も前に、また、旧のブログででも言っちゃってるんだけど、、、
「芸術」「表現」ナンボのもんじゃい!つうw
「アーティストぉ?なんか偉いの?」つうww
ただねえ、
これも数年前、旧のブログにて取りあげた、
キューバの往年のプリマ バレリーナが、インタビューで述べた、
「芸術とは、人の心を豊かにするものです」
これこそ、端的な答えだと思う。
さて、私は、こういう絵を見るとき、いつも少し身構えてしまうんだけど(笑)
それでいて、この絵には、いかにも陰惨さ充満のなかに一種の美(それは、元になっている絵の古典的端正さから否応なく自然と引き継いでいる効果かもしれないが)、それゆえに抗い難い引力も感じるのである。
このように感じる人は、世に少なくは ないだろう。
なので、まちがいなく世界の名画の一つになっているのだと思う。
Francis Bacon『インノケンティウス10世像による習作』
2013/3/20 日本経済新聞 電子版