2018.01.27 (Sat)
さしづめ、この植松などは筆頭モノだ。
こうした犯罪が起きると、正直言って、私でも、死刑制度の廃止に、少なからぬ躊躇いを覚えてしまう。
『植松被告、差別むき出し今も 相模原殺傷1年半』1/26(金) 6:30配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180126-00023477-kana-l14
むろん、この者自身、
ふだんから私が言うところの「極端」性というものを、内部的、すなわち、ある意味で知的な面での障害とさえ呼んで しかるべきでないのかという疑いは濃厚である。
一言で言って、植松の如きは、思い込みの激しい俗物の極みなのである。
その俗物根性の裏側にあるのは、俗物ならではの価値観に毒された劣等意識だ。
その「モノサシ」たるや、自分で つくりあげたものでもない。
単に、俗世間の地下を流れ続けている伏流のような濁り汚水のなかから、これが恰好と拾いあげ、もって、日々、これに磨きを かけ続けて、
ついには、自分自身と、その人生のみならず、他者の生活、社会の安寧を汚染しただけに終わっている。
この愚かさ、醜悪さときたら!
ほんとに、こんな者が、かつては、よりによって、教職を目指していたとは、恐ろしいなんてもんじゃないよ。ど厚かましい。
いずれにせよ、自分自身が、こんな犯罪を やらかす者でなかったことを幸いに思うしか ない。
だいいち、この愚物の名付けた「心失者」とは、誰を指して言うのか。
「意思の疎通」が できないとは。
いずれも、当人自身にこそ指摘さるべき、まさに「自己投影」から発しているものだろうに。
あの凶悪事件のなかで、辛うじて一命を とりとめた被害者の一人が、彼の御両親と共に、何度か、テレビ画面に出ておられるのを見たとき、
少なくとも私の眼には、その被害者の表情、全体の ようすから、無言でありながら、どれほどの恐怖と辛さを味わったかが、ひしひしと伝わってきたし、
しばらく日数が経って、再びテレビ画面に登場されたときには、いわゆる「日にち薬」というやつなのか、事件から間もないときに比べると格段に、穏やかな表情を取り戻されつつあるのが見てとれた。
ふだん、身近な者たちから、「おまえはニブい!!察しが悪い!」と怒られることが少なくなかった私ですら、だ。
ましてや、かつては施設職員として日常を接していたという植松は、入所者たちの何を、どこを見て勤めていたのか。
ちなみに、
こういう投稿も あった。
…それは違うと思うぞ。
そんなもん、逆恨み以外の何ものでもないわ。
このコメントの内容が事実なのかどうか、テレビも見てないし、私は知らない。
だが、
担当してる入所者が浴室で溺れかけてたって?
植松は、当時、職員だったんでしょ?
むしろ、植松のほうから謝らなきゃならなかったかもしれんじゃないか。
親さん側から責められたってフシギは ないよ。なぜ、目を離してたのか?と。
親や家族から、とくには何も言われなかったのは、むしろ、職員に遠慮して、何も言えなかったんとちゃうか?よくある話。
ここで、何度目になるのか、あらためて言っておくけど。
重度だろうが何だろうが、病者や障碍者は、「世のなかに何ら貢献せず」とか、それどころか「お荷物になってるだけ」という見解は、はなはだ料簡違いだよ。
むしろ、まず、医学・医療の発展に寄与している、
その寄与は、いずれ、いまは無関係と思えてる一人ひとりの将来的に、メリットになり得るものであることを理解できてない人が多過ぎ。
それなのに、植松の考えかたは理解できる、だなんて、、、
なさけないったら ありゃしない。ほんものの低知性だ。自覚しろよ。
ムリか。低知性なんだもの。
しょせん、政治のレベルが、国民・民衆のレベルに見合う如く、
自分と似た者のレベルしか、理解できないんだものな。
「昔は、産婆さんがコッソリ締めて」とかいう話も、それだけ、生存条件が厳しかったからだ。
生活全般も厳しく、
なかんづく医学なんてものは、現代ほどには、とうてい、発展してや しなかったでしょ。
では、次のエントリーにて、
植松の言い募る「偽善」という批判について、答えてやろう。