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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2020.07.31 (Fri)

【最終・2】最新の事件簿~「枯らすは黒いの続き。

 

どういうものだか、
人並み以上に活発な、活動的だった人ほど、この病気になるのかな?と思うくらいだ。

長年、医師として お勤めだった人が、『筋萎縮性側索硬化症(ALS)』患者となったという、
ある意味で、非常に得難い経歴と体験を持つ人も いらっしゃるそうで、その お一人である女性が述べておられた内容についてなのだが、それは、

発病し、このような状態になっても、自分の持っている価値は、以前より低くなるわけでは ないのだということに気づいた、

といった趣旨の御指摘。

これについては、彼女のキャリアが、とても立派であり、プライベート面も、同じく充実していたであろう、それに見合うだけの自負やプライドも、もとより自覚的に持っていらっしゃっただろうということ。

それと、

しかも、
今回の「嘱託殺人」事件で亡くなった女性にせよ、先述した、医師だった患者のかたにせよ、雨宮さんというかたの御指摘と同じく、総じて、非常に恵まれた状況の人たちであるということ。

 

この事件によって亡くなられた女性も、発病するまでは、たいへん活動的かつ華やかなキャリア ウーマンの人生だったそうで、ならば、病状が進んでも、何らかの かたちで、キャリアを活かす道は可能だったのでは ないかと思うのだが。

 

こう言っては なんだが、

生活上の全ての作業を、周囲の人たちに かたづけてもらうわけなので、その分、純然たる思考活動に専念できて、そこにエネルギーを注ぎ込める、というふうには受けとめられないだろうか。

そのなかで、新たな生き甲斐や楽しみを見つけられなかったか。

 

この病気の特徴として、いわゆる五官や意識、思考能力は、発病以前と殆ど変わらないというのだから、むろん、それ自体によって、苦痛を自覚させられもするだろうが、

もともと高度な知性とキャリアを持っている人ならば、かえって、その分、可能性は高いと思える。

 

 

けれども、

先日も言ったように、

一般的には女性のほうが、男性の患者よりも、ストレス度は、もっと高いのでは ないかなとも思う。

 

それと、やはり、本人自身の家庭というものを築いていなかったことも、どこかで影響していたのだろうか。

とりまく人たち全員が、他人。

家族や身内が相手なら、ほんとうの愚痴や本音を漏らすことで、少しは、気持ちが  おさまっただろうか。

もっとも、私の場合は、親や家族こそがストレスのもとだったけど(苦笑)

それでも、愚痴や文句をタラタラ言うには、いかに、わりきった介護専門スタッフとは言えども他人に対するほうが、もっと気を遣うもんだろうし。

 

 

なので、ここまでの報道記事を いろいろ読んでみて、

なぜ、いたって平凡な経歴とか女性の患者さんに、話を聞いてみないのかなと、もの足りなくも思った。

各社の記者さん、どうなんですかね?そのへんは。

敢えて避けてるのかな?

 

 

こないだのエントリーにおいては、先述した雨宮さんというかたの御意見について、

「このような困難な状態にある人が、それでも、明るく前向きな姿を示すことが」云々、
けれど、誰しもは、、、と述べておいたが、
それと似た感想を、ここで再び持った しだいである。

と言うのも、

私などは、人が苦手という意識が少なからず あるし、

何よりも重大なのは、

親から徹底的に「自己肯定感」というものを叩き潰されるような扱いで育ったうえ、身体障碍も背負わされている。

 

障碍の面では、親だけでなく、もちろん、他人からも嘲笑され、はっきり「迷惑」呼ばわりされたことすら何度か ある。たとえば、最も多く、分かり易い例では、呼んでいるのに、返事を しないといったことで、この原因を つくった当の親からでさえ、おまえ、わざとだろ!と責められたものだが、

学校時分には、聞こえているのに、わざと無視したと疑われたせいで、暴言を吐かれ、仲間ハズレにされたことも あった。

 

大概は聞き間違えとか、特に、社会に出て、仕事に就いてからは、電話の呼び出し音が聞こえないせいで、普通に対応できないなどのことでだが、

そもそも、親の主張に従い、障碍のことを押し隠して就労したのだから、バレて咎められても仕方ないことでは あった。

 

しかしながら、最初から、そのことを知らせておいても、基本的コミュニケーションに関わる障碍なので、健聴者らに混じっていれば必然として、疎外感は、どうしても ある。

かと言って、

これも親の意向で、障碍とは違うのだという方針で通して来ていたから、聴障者として必要な訓練や道具にも全く慣れていない。

あるていど年齢を重ねてしまっているほどに、いまさら、同じ種類の障碍者のなかに入っても、やっぱり疎外感が つきまとう。

あまりにも、自分の生きてきた過去と、他の人たちの それは、違い過ぎて、「健常者」であろうが なかろうが、どうしても、どこか浮いてしまうことが多いのだ。

 

それと、

後年に至って、福祉関係の人でさえも、支配がましく見下す態度を とることが ままあるのを知ったので、

これは、プライドが高い人は勿論だろうし、そうでなくても、自分の からだが思うようにコントロールできず、くやしい思いを しても、どうすることも できないという、この なさけなさは、私自身も、障碍によって、深く、身に沁みている。

 

これでは、
自分の からだが自分の思うように機能しないという重い障碍が、全身にまで及んだとなると、とてもじゃないが、前向きに明るく乗り越えていける自信は、私には全く ない。

 

まあ、これらは、「精神的苦痛」であるとして、現行ではルール外のことと見做され、あっさり弾かれることらしい。

 

 

精神面は勿論のこと、薬剤の効果ですら、個々で異なる。

 

私なんか、他の人は概ね効く痛み止め薬が、自分には全くと言っていいほど効かない、ということが実際に あった。なので、七転八倒の苦しみを味わったことも ある。

 

 

私は、深刻な苦痛を緩和するための薬剤投与が、残る生存期間を大幅に短縮することになっても、それは認められるべきだと思っている。それも、あくまで本人の意向しだいと思うけれど。

しかし、

いわゆる「消極的安楽死」というものは、そもそも「安楽死」になるはずが ないのでは?という疑問も持っている。

 

「胃瘻」という処置以降は、それを止めることで、栄養摂取の方法が絶たれる。これが、苦痛なしに、穏かな死へと導いてくれるのだろうか?分からない。

 

私は、若い頃に、極端な食事制限を試みたことが あるのだけれど、

普通は、水分だけでも、数日から一週間ていど、もつと聞く。

だが、私の場合、ものの2、3日もしないうちに、ベッドに横たわっていても苦しくなり、まざまざと死の危険を感じた。

その前に、からだが動かなくなってしまう兆しを感じた。

なんとも言いようのない、独特の苦しさだった。

このままでは動けなくなって死ぬと感じて、必死に起きあがり、台所へ這って行き、まずは水分と、少々の食物を口に放り込んでから、気絶したように眠り続け、やっと回復した。

 

 

かりに、治療を中止することとイコールなのであれば、どうしても、以前に起きた、「透析中止」による酷い苦痛のなかで亡くなった人の事例を連想するのである。

 

なので、

治療の中止による大変な苦痛が伴うのであれば、これは もう、「積極的安楽死」とセットにならざるを得ないはずなのでは なかろうかと思うのである。

 

【続く】

 

 

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