2019.05.03 (Fri)
5/2(木) 20:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190502-00026841-forbes-bus_all
「~教育分野で目新しい問題ではないが~」
そのとおりで、
まあ、およそ「教育」というものに つきまとうジレンマみたいなものかな(笑)
ただ、アメリカでも、こういう問題が あるんだというのなら、日本なんかは、骨の髄まで、というレベルだからねえw
ま、国の違いに関係なく、一般大衆とは、そういう傾向なんだろうな。
だから私は、「民主主義」だから「多数決」だ(←違うよw)、
「国民投票」やるべ、というのは反対なの。
こんだけ教育レベルが高い、先進国なんだ、と言いながらも、
相変わらず、アホが多過ぎるからw
なので、私は、一般大衆や民衆というものをも、あまり信用してない。
「~米国人はただ自分が支持する側の人々を擁護し、議論の対象となっている問題については考えない傾向にある~」
へえー!
だって、アメリカって、「ディベート教育」が盛んじゃなかったっけ?
「~現在の米政界では、真実を述べたり追求したりすることがあまり重要視されていない」
いやぁ、むしろ、あちらさんでも認めてるように、日本政界の、とりわけ、安倍ちんらの真似しとるんでしょうよww
日本では、政界でなくても、「真実を述べたり追及したりする」と、袋叩きや迫害に遭う恐れが高いからね。
「空気読め!」
長芋あいや「長い物には巻かれろ!」
「水を さすな!!」
っつう定番のコトバもある、
「忖度ソンタクるるるるるん♪」の国柄ですからw
それでこそ、特別の才能は持ち合わせぬ、凡庸な者でも出世できるシステムだもの。
おりしも、『天皇・皇室』崇拝やってる連中を見てたら、そのことが あらためて実感できるわなww
ただ、個人的実感から、算数・数学に関してだけは、あとあとを考えると、ある程度には、「落ちこぼれ防止」策は重要だと思う。
この分野は、まず正解が決まってるもんだしね。
私個人の場合、国語や現代文とかって、いっさい、勉強なんか したことなかったよ。
もともと勉強ぎらいと言えば それまでなんだけど、国語系の科目に関しては、どうやって勉強すれば いいのか自体、わからなかったもの。
漢字の書き取り練習とか、文学年表の暗記とかなら ともかく、とは言え、漢字の書き取りも、ほとんど やったことが ない。小説でも何でも、漢字が出てくる文章に、日常から接してたら、それだけで覚えていくもんだし。
しかしながら、
私は、たとえば「この詩の作者が、いちばん言いたかったことは何か?」といった問題の答えを外したことは、まず ない。
たいがいピンと来るものが あるので、それを そのまま答えたら、常に、トップ クラスの成績を維持できていたから、ますます、勉強の必要を感じない。
だいたい、詩作品と論文とでは、異なってくるから。
ビジネス文書が「ポエム」では、そりゃ困りますよ。仕事にならねえし。
私個人的にも、すごく困る(爆)
けど、
詩において、論理だけ追及したって しょうがないでしょw
それこそ、「行間を味わいつつ読む」ってものが あるんだし。
私は、その「行間」ってやつを、読み取るのも、自分で書いているときも、かなり苦手なほうなんだけど(苦笑)
それでも、
少なくとも、ガッコの国語のテストや何かで、正答をハズシたことは、まず ないなあ。
京大や東大の過去の入試問題を見たことあるけど、たしかに、ほとんど「いじわるクイズ」みたいなもんだったwこれ作成した人は、よほどのヒネクレもんか、性根が悪いんだろうなあと思ったw
ひるがえって、算数や数学はね。。。
このことも、旧ブログや、その他で述べたことが ある話なんだけど、
私の場合、周囲も、そして自分自身も持て余したのが、
「公式の意味」
を解説してくれろと言い張り、教科担当の先生でさえ、納得のいく解説を してくれなかったら、そこでブチ切れちゃう、みたいな感じでw
クラスの友だちも含めた周囲からは、
「あんたさぁ、公式さえ暗記しといたら、それ使っただけでスイスイ解けるようになるんだから、ね?」
と勧められても、納得いかないと、頭に入れられないんだわ、これが。
われながら、困ったもんだと思うんだけど(苦笑)
そういうわけで、
せっかくの公式を使えないから、自分なりに工夫wしてww、むしろ、文章題だと、いちおう正解を出したりしてたwww
でもさ、ある数学の専門家が言ってたには、ほんものの数学的才能が あったら、「公式の意味」なんて、それこそ、ピンと来るものなんだって。過去エントリーでも紹介した話です。
ところが、『集合論』だけは、難しいと思ったことが ないの。
クラスの優等生たちが、呻吟してたのを横目に、なにが難しいんだろか?と怪訝に思っていたものだ。
まっ、なにごとも、想像力を培うことが大切なんだろうと思う。
想像力の「引出し」を増やす。
それは、学問の世界だけじゃなく、人生そのものにも重大な影響を及ぼすほどのことだ。
さて、例によって、「ヤフゴミ溜め」のコメントを流し読みしてたら、
まさしく、あの「カルト連」の、なかんづく、「ストマック」なんたらいうハンネで、『汚気・愚』に出没してたオジンを ひっさしぶりに思い出したw
そうそう、「形式論理」とかってやつww
よく知らないが、まあ要するに、「文字で書かれていることが全てである」すなわち、ここでは、たとえば、あるコメント投稿者が出してた事例では、宮沢賢治の『やまなし』ですか、私は、この作品は、全体を きちんと読んだことは ないのだが、これに登場するという「青いもの」は「青いもの」と書いてあるんだから「青いもの」でしかない、という、単純過ぎる受け取りかたね。
これは、しかし、問題も限界も ある。
「青いもの」とは、いったい、何なのか。
それを追究していくのも、学問だし、
作者本人が、「青いもの」の正体を知っていながら、敢えて、「青いもの」とのみ記したのか。
あるいは、
それが「かわせみ」であることを、少なくとも、その時点では知らなかったから、単に「青いもの」としておいたのか。
作者が、正直に書くとは限らないのよw
そして、わざと曲解させるように仕向けることも あるだろうよww
ま、
「青いもの」は「青いもの」でしかない!
それ以上でも それ以下でも ない!
という受け止め方は、「アスペルガー」的でも あるのだろうが、
実際、生活上の問題としては、アスペルガーの人にとって、これは猛烈に苦手な示し方だろうなあw
うん、そうだ、フランスの映画にね、『まぼろし』という名作が ある。
これ、むかし、例の『汚気・愚』で回答するときの題材にしたことが あるんだけど、
ちょっとネタバレみたくなってしまいますが、ご容赦ください。
最後のシーンで、亡くなったらしい(自殺の疑いが濃厚っぽい)人が現れる、これを、実は死んでなかったから、そこへ戻って来て立ってたんだ、と解釈するのか、
そもそも、この作品の題名になっているように、主人公の願望から来た幻視みたいなものだったのか、
とにかく、向こうのほうに立っている、夫の姿を している人の所へ行こうと、主人公は一目散に走りだすのだけれど、場面は、そこまでで終わる。
答えは一つに絞れない。
だからこそ、いわゆるクロウト筋のあいだでは名作とされているんだろうけど、そして、私自身も、そう思うけれど、
世の一般大衆の評価は高くないらしい(苦笑)
『まぼろし』とは、最後に見えた人影のことなのか、
あるいは、
それまでの全てが「まぼろし」だったのか。