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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2022.11.15 (Tue)

『サクマ式ドロップス』を製造していた会社が、来年早々に廃業予定、というニュースが出ていた。

この缶入りドロップには、私個人的にも、幼き日の想い出が ある。

幼なじみらと、缶から一粒ずつ取り出したドロップの、何色が出てくるか「おみくじ」感覚で予想したり、互いに好きな色を取り合いになったり、

表面に まぶされている粉が取れて、それぞれの味の果物などの色が透き通るように光るのが見たくて、いったんは口のなかに放り込んだのを、わざわざ、手のひらに出して確認してみたり(汚いねw)

小学校に入学して初めての遠足の おやつに、母親が買ってきてくれたのが、この缶入り『サクマ式ドロップス』だった。

母親は、

「おかあさんが子どもの頃から あったんやで」

と、言っていた。

私らの世代では、日常的な菓子ひとつを とっても、種類豊富になっていたので、小学校も高学年くらいになると、このドロップスは、あまりにも定番イメージゆえ、他の様々な菓子のほうに目が行くようになって、いつしか疎遠になっていったのだが、それでも、あらためて聞けば懐かしいし、容器もドロップ自体も、なかなかオシャレなものだったなと思う。

いまのうちに、一缶だけ買っておこうかという気を起こしたものの、すでに、オークション サイトあたりでは、信じ難いほどの高値で出品されているそうで、いまどきらしい現象では あるのだろうけれど、いささか呆れてしまった。

 

さて、

野坂昭如氏の原作である『火垂るの墓』は、私は、たしか小学高学年か中学生頃に、あるマンガ家さんによって描かれたものを読んでおり、男性のマンガ家さんの手によるためか、なかなか迫力ある緻密な画風も手伝って、その凄惨な描写に大ショックを受けて以来、こんにちでは『ジブリ』アニメによって知られているという当該作品を、決して見ないし、野坂氏の原作そのものも読む気になれないでいる。最初に読んだマンガから受けた影響が強烈で、滂沱の涙どころか、まじで、ご飯が喉を通らなくなるだろうことが分かっているから。
それでも、あの時代の実際を体験したことがない者にとって、たいへんな勉強になったと思う。

 

戦時には、身内や親戚でさえも、どのような態度になるものか、
このへんのことは、とある(お名前は失念しているが、知名度のある人だった)女性の おかあさんが、戦時中も欠かさず書いて残されていたという日記のなかにも、同じような情況が述べられていて、
戦時の人心は、ほんとうに、いやらしくて、利己的で、殺伐とした世相になったことを嘆いていた くだりが あったそうだ。

 

 

話題を替えて、

ところで、

最近の当ブログで紹介した、美術方面を解説する動画にて、今度は、モローをテーマにしている回を視聴した。モローも、私の好みの画家の一人なので、彼の個人的な面でのエピソードも、少しは読んだりしていたのだが、あまり踏み込んだものでは なかったので、モローと、特に、その母親の関係性について、有名な『エディプス コンプレックス』という説も引き合いに出し、いろいろと解説されている内容に、へえ~と驚きも したが、

支配的な親に、特に経済面で君臨され、それでいて、子に依存し、子のほうも否応なく「共依存」的な立場に引きずり込まれるという情況は、私自身も経験してきている。その最大要因が、私の場合、あきらかに障碍ゆえであり、しかも、障碍を負う原因を つくったのは、ことも あろうに、親たち自身だったのだが、両人とも無自覚か無自覚を装っていたふしは ある。

私自身が、なかなか、そのあたりのことに気づけないままで、トシくってしまったわけだが、

たしかに、異性どうしである息子の母親というものは、娘の母親とは、多少の違いが あるのかもしれない。

たいへんな美青年の母親であった、むかしの隣家のオバさんを通しても感じたことが あったし(じつは、息子の嫁にと、私を望んでいたらしいオバさんは、私と しゃべっているときに、ふと、『息子の嫁に対しては、やっぱり、ヤキモチを焼くもんなのよ!』というふうなことを、真面目な顔で言い切ったことが あったのを思い出した)
また、私の母親と兄は、血の繋がりは ないのだが、母親は、私なんかよりも、義理の兄のほうを、何かにつけて拘って、そして必死だった。

もしかしたら、母親にとって、実の娘、どういうわけか、似ても似つかぬ異質な娘よりも、ダブル不倫でスッタモンダの あげくに ひっついた男の面影を宿す、若い分身、という感覚のほうが大きかったのかもしれない。

 

ただ、私は、かのフロイトの理論は、あまり、と言うか、少なくとも、全体的に信用は しない。

20歳頃だったと思うが、フロイトの著作を読んでみた当初から、かなり偏った考察だなと思って以来、こんにちになっても、その違和感は消えていない。

 

「なんと言っても義理だからこそ、親の責任というものを果たさなければ ならない。あんたは実の子だから、気楽に無責任にしておれるんよ」

などと言い放っていた、うちの母親。

 

そんなバカな言い分が あるかい!!emoji

と、いまの私なら、一刀両断に処すのだがw

 

くだんの、興味深い美術解説に対して言っておきたいことが ある、それは、

息子にとってであれ娘にとってであれ、

母親というものは、人生最初に出会い、終生に わたって つきまとう、「ファム ファタール」であるということ。

大多数の人にとっての母親は、

男女の別なく、われわれが しがみついて生きる大地の法則、この世の第一聖典、犯すべからざる女神、逆らい難き魔女なのである。

 

そう、
この世で最も、しまつ悪い存在なのよ、母親という、およそ「産み落とす者」はねww

『キリスト』教の説話に おいて、罪深き存在と決めつけられているのも、しかたない、ような気もするwww

 

キリスト教もさぁ、マリアは、イエスは、性欲や性交なんぞには無関係で産み、生まれてきたから尊いのだということにしておきたいのなら、
今回アメリカに おける「中間選挙」で、争点の一つになったという「人工妊娠中絶(堕胎)」を禁止するどころか、

いやらしい、恥ずべき性欲やら、醜い計算やらを めぐらして産むくらいなら、むしろ「人工妊娠中絶(堕胎)」を晴れて大いに認めるほうが、お説に かなうと言えるんじゃないの?wどうよ?原理的キリスト教徒さんや『共和党』の人たちww

あるいは、
人工的な出生方法を奨励し、発展させ、いずれは、性欲も性交も一切ナシ!そういう出生方法でしか認めないということにしていくとかさwww

 

日本なんか、この先、子どもが生まれなくなり過ぎて、人工的出生方法に頼るしか なくなりそうだもんね、『皇室』とか、すでに。

「自然に まかせて」いたら、「やんごと ある」になってしまいそう(苦笑)

 

【続く】

 

 

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Updated   
2022.11.07 (Mon)

【続】秋の深みに寄せての続き。

 

うちの母親のほうは、と言うと、これも また変わっていて、

書く、描く、両方とも苦手なんだと、プライドの権化みたいな性格のわりには、めずらしく、自分で認めていた。

親父と同様、母親も、学校の優等生で、どの科目も よく できたそうだが、なかでも、音楽の才能は、専門の教師から太鼓判を押されていたという。

ところが、絵を描くことと、書道だけは、うまく できなかったと。

 

しかしながら、母親の書く字は、娘の私から見ても、ちょっと驚くくらい、荒々しい、男っぽい筆跡だったのだが、書道の場合は、そこが良いのだ、力強さが際立っていて良いと、そのように褒められるのだが、書くのも描くのもダメだと、自分で認めざるを得なかった その理由と言うのは、いずれも、

紙から大きくハミ出してしまうから、

ということだった。

 

あるていどの年齢になれば、ふつうは、書くにせよ描くにせよ、取りかかる前に、それなりの構図を考えるでしょ、目の前の紙のサイズを考慮しつつ。

うちの母親はね、ひとたび、筆を手にすると、

このままでは、もはや、この紙のサイズを超えてしまう~
と気づいていても、

ああ、また やってしまった、、、
と、紙の外にハミ出すまで、やめられない止まらないと。

 

ただ、色彩感覚は非常に優れていると褒められても いたそうな。

 

一言、申し添えておくと、

母親は、脳に、ある種の異常が ある人でした。

本人は、毎度のように、こういうことについてはハッキリと言わずに誤魔化してたけど、

いまの私の知識から察するに、恐らく、母の姉妹の遺伝的要素も鑑みて、たぶん、『癲癇』の傾向を持っていたのだと思う。振り返ると、思い当たる発作も、時々起こしていた。

もちろん、母自身は、関係ないことを述べ立てて、もっともらしく言い訳にしていたので、私も、なかなか、そこまでは気づかなかった。

本人としては、隠しておきたい、コンプレックスだったんだろうな。

 

親父は、自覚なき「アル中」だったわけだし、ふだんの睡眠中の寝言や動きも異常に激しいことが たびたび あった。こういうのも、脳の異常に関係しているらしい。

 

私は、両親の これらの傾向を、幸いにも、全くと言っていいほどフシギと受け継いでいないのだが、

しかし、
両人とも、脳に異常が あったということなら、実の娘である私自身も、、、かな?(苦笑)

 

 

美術から、次は文学の話題を少々。

幼い子どもの頃や学校時分に読んで、いまでも、時おり思い出すほど、つよく深く印象に残った童話や小説たち。

旧ブログか過去エントリーで述べたことも一部混じってるかもだが。

 

ワイルド『大男の庭』『若い王様』

なんとも言えない、ふしぎな、神秘的な感覚に打たれたのを憶えている。まだ、小学校1、2年生くらいだったと思う。もちろん、ワイルドの名すらも知らなかった。

 

 

アンデルセン『人魚姫』は、何も言えないまま、ただ「水の泡」になって消えてしまうなんて、あんまりだー!と、幼な心に、たいへんな悲劇性を感じ、ショックを受けた。

 

うちの母親は、『マッチ売りの少女』で泣けた泣けたと言っていたのだが、動物好きの私にとっては、むしろ、ウィーダ(ラメー)『フランダースの犬』のほうで、人間に つきあったがために、ひどい空腹のまま道連れになり、ついには凍死したパトラッシュのほうが、あまりにも かわいそうと思ったw

 

いずれも、現代に おける先進国のような、子どもを守るべきだの権利だのの概念が なかった時代。

幼い子どもに対してであろうとも、情け容赦が なかった。

 

 

これまたオスカー・ワイルドでww『幸福の王子』。

耽美派ワイルドのことなんて、全然、知らなかったんだけどねw

ここでも やっぱり、
つきあわされた燕のほうが かわいそうじゃんかと思っていたww

でも、最後に、ゴミ捨て場のなかに放置された王子の心臓と、燕の骸を指して、

「最も尊いものが二つ、あそこに ある。あれを持ってきなさい」

と、雲の上で、神さまが天使に命じたコトバに、胸うたれました。

 

 

ひるがえって、日本の『ごんぎつね』(新美南吉)

いまでも、滂沱の涙なくしては読めません。

あほな「ごん」が いじらしくて、いじらし過ぎて。

兵十の辛さ、切なさが分かり過ぎて。

 

浜田廣介『泣いた赤鬼』も。

この作品には、必ず一緒に思い出す、ちょっとした個人的な出来事が あった。

 

私が入園した幼稚園は、私らが初代の園児だったらしいのだが、その創立に あたって、いろいろな準備活動に協力した うちの母親は、娘の私が小学生になっても引き続き、学校関係の活動全般に熱心だったのだが、

幼稚園が始まる少し前の ある日のこと、うちの家の玄関先に、大量の童話の全集が運び込まれた。

見れば、それらの絵本の、美麗な装丁、色彩も鮮やかなカラー刷り。
表紙を見ただけで、幼い頃から、本を読むことも好きだった私は、胸を わくわくさせ、これらは、てっきり、自分のためのものなんだと思い込んだ。

ところが、よくよく聞けば、私が入園予定の幼稚園に納入されるものであり、何やらの つごうが あって、とりあえず、うちで預かるために運び込まれただけ、というのだ。

それを聞いて、心底がっかりした私を見かねてか、母親は、

「あしたには、あんたの行く幼稚園に運んでいってしまうから、どれか、読みたいのが あるんなら、今晩のうちに、一冊だけでも、おかあさんが読んであげよう」

と、好きなものを選ぶようにと言ってくれたのだが、

ぬか喜びした ていの私は、とにかく残念で残念で、拗ねてしまい、意地を張って、いらない!と言ったように思う。

それでも、未練がましく、たぶん、やっぱり これ読んで~と、最後には ねだったのだろうか、

くだんの『泣いた赤鬼』を、そのときに、母親に読んでもらったらしいことを、うっすら憶えているせいか、いつも、つられて思い出すのである。
あのときの、美しい絵本たちが、自分のものにならない、がっかりした気分とともに。

 

 

『安寿と厨子王』。

よく知られている森 鴎外の『山椒大夫』では なくて、ここでは、子ども時分の私が読んだ、あくまでも小児(小学校低学年頃)向けの本が前提なのだが、これの執筆者名は分からない。

安寿が身投げした沼の前に、小さな ぞうりが揃えてあった、という描写に、それが何を意味するのかを初めて知り、なんとも言いようのない、つよいショックを受けたのを、いまだに、まざまざと思い出せる。

 

長い長い苦難の旅の すえ、やっと見つけ出した、目が見えなくなっている母親と遭遇、すでに出世していた厨子王が、海原を渡る大きく立派な船に、生き残った母を連れて乗り込み、いまは亡き姉と乳母を偲び、

二人の名を、声に出さず、そっと、口のなかで呼んだ。

このような表現に、子ども心にも深く感じ入ったものだ。

 

 

かくも平易にして、かくも香り高い気品。

「黙礼」というコトバも、初めて知ったのが、小川未明の『野ばら』。

やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。~

 

小川未明には、『赤い蝋燭と人魚』という作品も あり、小学生の頃の私は、作中の人魚の真似をして、自宅の仏壇の引出しに しまわれていた大きめの蝋燭を取り出し、学校の図画で使う水彩絵の具でもって、絵を描こうとしたものだから、兄たちに笑われたことを憶えている。

(窓のガラスに直接、大きな絵を描いて、母親が、外の道路からも見えるから恥ずかしいと、嫌がったことも あったw)

そして私も結局は、うまく描くことが できなくて、なげやりに、全体を赤く塗りたくった蝋燭が、その後も ずっと、仏壇の引き出しのなかに転がされたままだったことを思い出した。

 

 

そのほか、

芥川龍之介の一連の中国伝奇シリーズ。

『杜子春』。

物語の始めから、どこか茫漠とした不安感が漂っている。
それは、やはり、日本の風土には ない茫漠さだ。

春である。
春の夕陽に照らされる街角で、ぼけ~っと佇む主人公「子春」青年の、いかにも たよりないイメージだけが、最初に読んだ小学生の時分から こんにちまで、ずっと残っていた。

そうして、ふと思い出すたび、なんとなく、あの不安のイメージを、わが身のことのように感じてしまう、一種の心地悪さ。

なので、長いこと、読み返す気にもなれないでいたのだが、それにしても、あの結末って、どうなるんだったっけ?と、最近になって確かめてみたら、

意外にも、幾分の爽快さをもって締めくくられていて、ああ、そうだった そうだったと頷いた。

 

ほかにも、

先日のエントリーでも触れた、『奉教人の死』。

痛ましくも、ある種の甘美でさえ ある、あっと驚く意外な結末。

 

 

幼稚園から小学生ごろまでに読んだのは、ザッとザッと、こんなところで、中学生になってからは、ロシア文学やフランス文学を中心に、翻訳もの小説が多くなっていった。

もちろん、洋の東西を問わず、ジャンルも問わず、まーだまだ、たくさん あるのだが、制限字数が尽きそうなので割愛。

 

いずれも、死ぬ前までには、いつか読み返したいと思っている、主として、幼稚園から小学生の頃に かけて読んだ絵本や物語。

胸が いっぱいになって、苦しくなってしまうかもしれないけれど。

 

 

Updated   
2022.11.07 (Mon)

秋の深みに寄せての続き。

 

私は、以前から言ってきたように、美術鑑賞や、自分で描くことも好きなんだけど大好きなんだけれど、哀しいことに「ヘタの横好き」だという自覚は辛うじて あるからw先述の動画を視聴していて、ルソー本人も、自分の描き方に困難や問題が あるのを自覚していたのなら、きちんとした指導やアドバイスを受けてみようという考えは なかったのかいなと、そのへんは怪訝に思ったのだけども、

こういう人を、なぜか、堂々とアカデミックな場で、絵の教授に就けてしまうという、その流れのフシギさw

ルソー自身の、ある種の「強運」も あったのだろうが、

こういうところは、やっぱりフランスならでは、なのかな?と、

日本では、まあ、あり得ないだろうなとも思った。

 

でも、日本人は、どういうものか、昔から、ルソーの絵が好きらしい。

言われてみれば、私自身も、部屋に飾りたいほど好きとまではビミョウだけど?けっして、きらいじゃないわw

 

 

うま過ぎて、名声とどろき、名を残す。

ヘタ過ぎて、大笑いされ、名を残すw

 

つまりは、うまいとかヘタとかを超越した、独特の世界観に満ちている場合も あるわけでね。

 

 

これも、日本人が特に好む『印象派』。

フランス国内に おいて最初の展覧会で発表したとき、当時の専門家らの怒り心頭を誘い、くっそみそにコキおろされたっていう、定番の話が あるじゃん?それが真実、正確なところかどうなのかは、かなり怪しいらしいけど。

それは さて置き、

まあ、まじで怒りを誘うってことならば、それだけ、ある種の脅威を感じさせるからでも ある。

だからこそなのだろうけど、

その点、むしろ大笑いを誘う場合は、まあまあと、大目に見られ、許され、受け入れてもらいやすい、ってことなのか(苦笑)

 

じつはね、この動画の直前に、ヴェラスケス(なかなか渋い、いいオトコよねemojiディエゴ)の『ラス メニーナス』についての解説を聞いた そのすぐあとだったので、

「遠近感覚の計算もバッチシのベラスケスとは どえらい違いやったんやなあルソーって、はははw」

と、私も大笑いしてたの。

 

たとえば、近代アメリカの画家であるサージェントあたり、私も特に好きな画家の一人なのだが、
その筆遣いを見たら すぐ分かるように、ヴェラスケスの影響を受けてる画家は、時代を超えて、世界的に多いだろう。

 

同じスペインの偉大なる先達として、かのゴヤも また、ヴェラスケスを大いにリスペクトしていたからこそ、自身も また同じく宮廷画家として、あの『ラス メニーナス』に比肩し得る作品を ものしようとし、やっぱ無理だ、かなわないと諦めた経緯が あったそうなんだけれど、これはねえ、描かれている対象の人物たちの、実際の風貌とか人物的魅力如何も影響してるんじゃないかと(苦笑)

あの可愛らしい、幼い王女と比べられたら、、、ね?()

 

ちなみに、ヴェラスケスからゴヤに至るまで、百数十年も あいてるんだね。

まあ、現代人の私なんかから見たら、どちらにせよ大昔の、錚々たるの古典的な大家のイメージだから、そんなに年数あいてたの?と、少々意外だった。

 

さてさて、

作品とは別に、ルソーのようなタイプの人って、たまに、いや、けっこういるみたいね。まあ、もともと私自身も、他人事みたく、えらそうに言えるクチじゃないかもだがw要するに、「いい人なんだけど、独り善がりとか無神経」だったりというw

これが、わかりやすいようで、わかりにくいのよね。

単純なタイプの人なのかなあと思ったら、いやいや、けっこう複雑かも、いや、やっぱり、ひたすら単純なんだww

だからこそ、次に どう出てくるやら、けっこう、予測しにくいんだけれど、そのときが来てみたら、やっぱり、いつもどおりの単純さwww

 

ルソーに関しては、うちの過去エントリーで、少々触れたことが あったけど、

私が なんとなく想像していたのと、そう大きくはハズレてなかったみたい(苦笑)

 

ただ、ルソーの色彩センスは、これも独特のようでいて、さすがフランス人だなという感じ。

 

ルソーは、典型的なフランス人かつ男性ならではの「天然もの」()

 

飛ぶ物が大好き、動く物、好きなもの、関心を持っているものは、とにかく真ん中に大きく大きく描きたい()

 

反面、ヘンなところで拘って、こまかーく執拗なまでの描き方を せずに いられないw

(じつは、私が、若い頃に、小説の筆を折った理由の一つが、これww)

 

けど、苦手なところは、いっしょうけんめい隠すww

隠してるのがバレバレなのも気づかずにwww

 

実際、ルソーは、ごく若い頃に、犯罪を しでかしてるそうなのだが、こういうところも、単純な衝動性ゆえでは ないかな。

 

要するに、

あのピカソが羨ましがったというほど、おとなの男性というよりも、幼い男の子のまんまなんだ()

だから、ある意味、どうにも憎めないんだろうね()

 

で、

さすがに、ルソーよりは、私のほうが、もう ちょっとは、らしく描けるぞ?wとは言っても、

ヴェラスケスなどの偉大な画家は勿論どころじゃないが、
さりとて、ルソーのようにも、世界的高名な作品を残せるわけでは全然ない。

なぜなら、
天才でもなければ、天才すらブッ飛ばすような、ある種の突き抜け度も ない、ただの中途半端な「横好き」でしかないからだw

 

ただ単に好き、それだけ。
そこだけが、ルソーと私の、辛うじての共通点だろうww

 

 

どんな分野でも、特に芸術分野では、要は「スタイルが ある」か どうかが、大きな分かれ目だと思う。うまいとかヘタとかいうこと以上に大事な。

 

その人の作品でしか表現し得ないものが確かに ある。

つまり、余人を以って代えがたい、掛け替えが効かない、オンリーワンってことね。

 

 

ところで、うちの親父は、これも、以前のエントリーで話したと思うけど、

かのピカソが大キライでねw

さっきの先行エントリーでも述べた、正面顔と横顔を同時に描いた作品なんかを特に嫌っていて、

私が、乏しい知識でもって、

「あれはね、理論的な、実験的な作品で」云々と、せいいっぱい説明してみても、

親父は、

「なんか知らんが、おれは嫌いだ!」

の素朴な一言で却下w

 

そもそもピカソは、本来的に、ふつうに描いたら、それは それで、非常に技量の優れた具象画を多く残していることを知らないようだったし。

でもね、

ルソーのほうは、親父が、その存在を知ってたかどうかを、私は確かめたことは ないんだけど、

ルソーの絵を見たとしても、親父は、大嫌いだったピカソの絵を見たときのように、まじで怒ったりは しなかったんじゃないかなと思うw

もちろん、褒めもしないだろうけどww

 

親父自身、若い頃は、育った養家が貧しかったせいもあって、ふつうの黒鉛筆だけを用いて、モノクロ写真のような写実的な絵を描くのを、ささやかな趣味にしていた。

 

そんな親父がリスペクトする絵は、日本画は別格のものとして、西洋の絵画であっても、基本的に、バリバリ正統派な、端正な具象が一番。

好みの一例を挙げれば、『グレー』シリーズで知られた浅井 忠とか黒田清輝とか、そのあたり。

(ちなみに、『湖畔』のモデル女性は、うちの母親の若い頃の風貌と少し似ている。なので、複製画集をプレゼントしたことが ある)

あと、東山魁夷の作品も大好きで。

 

 

実の娘である私は、もともと、こういうタイプの子では あったんだけど↓(苦笑)

【続】「芸術」って?やれやれw追加だよww

まあ、それでもね、少なくとも、ルソーよりは、もう ちょっと、マシな()絵を描けるんじゃないかとは思うわけよw

学校時分の美術の授業では、自分のアタマのなかのビジュアルを、紙の上に再現できるだけの技量が追いつかないもんだから、時々、
「なんだコリャ?」
と、先生やクラスメートたちから嘲笑されることも あったけれど(苦笑)
それと同じくらい、褒められることも あった。

たとえば、文学作品、詩の一場面の光景を、自分なりに想像して自由に描くとか、テキスタイルとして想定した図案とかは、おもしろがられたりした。技術としての陰影の つけかたも、美術教師に褒められたのよ。

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.11.07 (Mon)

気温の上下の落ち着かなさも、やっと おさまってきたようで、
すでに、この秋も深まってまいりました。

暑いのも厭だが、寒いのも厭だ。

こないだ、ニュース一覧の見出しのなかに、「寒いのをガマンしていたらボケる」とか認知症に繋がるとかいう警告のようなコトバが あったので、思わずギクーッemojiとしつつも、

「んなこと言われたってさ、この冬の暖房は節約!節約!でキマリなんでしょ?どないしてくれるんや!!emoji

と、つい、ムカッときてしまいました。

 

まだまだ騒ぎが続いている、例の『世界平和統一家庭連合(旧 統一教会)』問題ですが、これに関して、「信仰の自由を侵害する恐れ」云々ということで、団体側を擁護するかのような指摘を する人が絶えないようなので、ちょっと ついでに言っておこう。

 

まずね、

すでに、この国では、ていの良い やりくち、と言えるのかどうか知らんが、れっきとした民主主義憲法に保障されているフリしておいて、その実は陰に陽に、特定の宗教(もどき)を押しつけられてますがな。

そう、『皇室』がらみでね。

しかも、その『皇室神道』とやらの元締めさんは、彼らの大切な「祭祀」というものを、きちんと やらないでおくのなら、いったい、なにが「伝統の重み」なんだ?という、
まさにアクロバット的存在矛盾と滑稽さが避けられないと きてる。

私が常々、「女系『天皇』」など論外であると指摘してきたのは、そこの問題でもある。

まあー、言わないのよね、なぜか。

あの家の「祭祀」は、男性でも女性でも、何の不都合は ありや なしやを、肝心の元締めさん自身がね、言わない()
そりゃ言えないわな(大嗤)
言ったら、なにもかもが大変なことになるんだものwww

 

で、まずは、
『世界平和統一家庭連合
(旧 統一教会)』みたいな団体を、いわゆる「宗教」団体と認めていいのかどうかですわね。

本国『韓国』に おいては、あの団体は、宗教組織とは思われてないとか、むしろ、商売やってる団体と思ってたとか、一般の人たちは言っていたそうじゃないか。

 

何を信じようと、それ自体が「宗教」であり「信心」というものなのだから、そこを侵害しちゃいかん、という見解は、違うと思うぞ。

だって、

たとえば、何かの薬剤を服用することで、困難な病気や障碍が治癒すると信じ込まされてる人たちが いるとする。現実にも、あり得る話だわね。

その薬剤が、じつは、治癒どころか、健康を蝕み、肝心の病気や障碍を悪化させてしまうシロモノなのに、本人が、それを服用することで治癒できると「信じ」ているからといって、それを放置していいのか?

ダメでしょ、「国民を守るべき」はずの行政や国の怠慢でしょ。

ましてや、
そりゃ、本人だけが服用して満足してるだけなら まだしも、そのことによる弊害は、当人個人の損害だけで済むほど単純な話では ないし、

なによりも、
執拗な、覆面的勧誘や政治面に及ぶことで、多くの他者にまで悪影響を及ぼすようでは、言語道断でしょ。「自己責任」レベルを超えてるよ。

 

あの『オウム真理教』なみの事件までは起こしてないから~って、なにをバカなこと言ってるんだ。

あんなレベルになるまで野放しにする気か?emojiっての。論外やろが。

 

ところで、

先日来、このことも言っておこうとして、言いそびれてたことが ある。

それは、いわゆるネトウヨどもが、口を揃えて、

「日本は、韓国に乗っ取られているのだー!!」
(アメリカに
と言うなら ともかくw)

てなセリフを、近年、頻りに言いふらしていたこと。

ここの読者の あなたがたも憶えてるでしょ?

 

なぜだか、
最近になって、旧『統一教会』問題が白日のもとになってからは、殆ど言われなくなったというか、実際その状態になっていたこと、少なくとも、なりかねない寸前まで来てしまっていたということがハッキリしたからなのだろうが、

私はね、あのセリフを言うネトウヨどもが、なぜか、みょうに勝ち誇ったような口調に感じられてならなかった。

だから、過去エントリーで、一度ならず、

「むしろ、日本が、韓国、韓国人あるいは在日朝鮮人たちに乗っ取られているのだ!と宣言めいたことを言えるのが、ほんとうに悦ばしく思っているみたいだな」

と指摘した()

かつ、

だから、「左翼」どころか、いわゆる「右翼」やら、「安倍政権」ならびに『自民党=ジミンだっぴ統一売国党』を支持するネトウヨどもこそ、本当の「反日」じゃないのかね?と。

 

どうやら、これらのことも図星だったんじゃなかろうかw

 

まあ、一般大衆に はたらきかける力が最も大きいのは、なんと言っても、宣伝・広告業界や芸能界・芸能人たちだ。

その方面も昔から、じつは「在日」が多いということは、ひそかに知られているわね。

その事情すらも また、日本自身が招いてきたと言える側面は あるのだが、

ま、こんにちでは、ネット上で最もタチの悪いコメント欄になっていると、あちこちから指摘されている『ヤフーコメント』欄を見てごらんなw

ここの経営者は、もともと、どこがルーツですかな?

彼の御先祖筋も また、この国にやって来て、どんな商売を されてきたのですかな?

 

ことわっておくけど、私は、差別意識から指摘しているのでは全然ないよ。

 

先日のエントリーで、

てい良く、更なる情報収集みたく「携帯電話番号を登録せよ」とか言うよりも前に、おたくとこのコメント欄を廃止すりゃエエんじゃないかい、という旨、くだんの『ヤフージャパン』運営に申し入れしておいたと言ったことに続いて、昨日一昨日も、

きちんと管理できないのならコメント欄を設ける資格は ないぞ」との申し入れを しておきましたわ。

 

 

いやはや、

たいがいは怒りで締めくくることになりがちな政治や経済の話ばかりも なんですし、私自身、うんざりしてるので、

ともあれ、「芸術の秋」ということで、話題を切り替えましょう。

 

私は、幼稚園児から小学校に入学するあたりの年齢で、すでに、自分は、ことのほか、絵を見るのも描くのも大好きだという自覚は あったのだが、

当時、特に好んで描く題材に選んでいたのが、ケーキの絵でね()

ええ、ゴージャスなデコレーション ケーキです。ほら、誕生日とかクリスマスのときのような、蝋燭が たくさん立ってるやつね。

あとは、やっぱり、多くはチューリップなどの(←描きやすいからサw)花とか、かわいい女の子(←自分の理想像かなw)なども描きちらしていたけど、

人物の場合はね、鼻のない顔を描いてましたわ。

実際、周囲の子たちからも おとなたちからも、そのことを指摘されて、ちょっとフシギがられたり笑われたりも したし、

こういうのって、「小児の心理的に」どうだとかも言われちゃいそうだけれど、理由はカンタンなのよ。

(特に、正面を向いている顔の場合)うまく描きにくくて難しいので、
メンドクサいから、はぶいて済ませてただけヨw私は そういう横着者ww

 

かわいい系イラストなんかだと、あえて、鼻が ない女の子の顔なんか、めずらしくもなく、よく見かけるよね。

 

で、ケーキの絵に戻るんだけど、

まずは、円形のケーキを、やや上から真横にかけて見た角度で描いてみるのだが、

いつも困ってたのが、立てた蝋燭の描き方。

と言うのは、蝋燭そのものを描くのが難しいのじゃなくて、蝋燭がズラッと並んで立てられている状態を描くのが難しかったの。

自分でも、どう克服したらいいのやら、さっぱり分かんなくて、悩みながら描いてたw

 

でね、
その頃は、夏休みとか、まとまった休暇の季節には、母と二人で、東京の叔母の家に滞在することが多かったんだけど、ある日、いつものように一人遊びを していて、たまたま、玄関先の敷地内に居たところ、隣家の お屋敷(大企業の重役の御家庭)の2階から、私と同年齢くらいの女の子が、窓から顔を出していて、手をヒラヒラ振りながら、私に向かって呼びかけていることに気づいた。

どうやら、

「あなた、うちに いらっしゃいよ、こっちで一緒に遊びましょう」

と、誘ってくれているのだった。

それからは、夏休みの あいだじゅう、そこの おうちの姉妹や、彼女の友人たちに混ぜてもらって、ほぼ毎日、一緒に遊んだわけだけど、

あるとき、お絵描きを していて、
私は相も変わらず、蝋燭を立てたケーキの絵を描こうとしていたw

遊びましょうと誘ってくれた女の子のほうも、なぜか、そのときは、デコレーション ケーキの絵を描いていて、ケーキ上に立ち並んでいる蝋燭も、ちゃんと立体的に、然るべき位置と角度で描かれているのを見た私は、そこで初めて、自分が描いてきた蝋燭の描き方が、どのように改善されるべきだったかということに、がぜん、気づいたわけ。

 

土台のケーキ自体は、そこまでは上手く描けてるとして、そのケーキの上に立ち並んでいる蝋燭たちを、私は、なんと、放射状に描いてたのよwわかるかしら?

要するに、
円形のケーキの縁(ふち)で、火が点いている蝋燭たちは、それぞれのアタマの先を、いずれも、ケーキの外側に向けて、ばったり真横に倒れ伏してる状態なのよwわかる??

 

つまりは、横からと真上から俯瞰した視線が同時なわけで、

あのピカソのね、正面顔と横顔を同時に描いた肖像画とか あるでしょ。ちょっと まあ、あれのケーキ版みたいなもんよね()

 

このことを思い出した切っ掛けが、とある動画を見ていてなんだけれど、これです↓
【ルソー】あなたはいくつの違和感に気がつく?【天然ヘタウマ】

 

この解説シリーズ、画家自身の人物像や人生も踏まえていて、とってもオモシロいのよ()

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.11.01 (Tue)

いつもの気まぐれで読んでみた、どっかの(ネット)記事で、名門『コロンビア大学』教授だったか、経済学の専門家という人が、インタビューに答えて、もっかの日本の経済政策について、ああすべきだ、こうすべきであると、滔々と論じておられたのだが、

読み始めから、誰かを連想するなあ?と思ったら、

そうそう、いまでは すっかり雲隠れの(?)、あの「リフレ浜田大先生」も、『イェール大学』とかの名誉教授だっけ?と、思い出したw

 

さて、

とっくに国内でも(例のケケ中さんみたいなw)アメリカからも聞こえていた(なんだか「ジャパン ハンドラー」たちが言ってそうなw)お説であり、どシロウトが僭越ながら、目新しさなど一つもないのみならず、日本国内に特有の過去から現在までの経緯や事情を無視しているようにさえ感じられた内容だった。

 

まあ、ここらへんを無視して、なんぼ高邁なる学説や理論を垂れられても、このような立派な教授や専門家たちよりも、この点だけは、恐らく、私のほうが、現実を詳しく知っているだろう。
一人の日本国民かつ社会人・労働者として生きてきて、真っ先に疑問を申し上げたいのは、まず、

「雇用の流動化」を図らなくちゃならんのだ!
と、そう おっしゃられましてもですね、

私なんかは、かの「小泉・竹中」コンビの当時から、ハッキリと、えらいセンセイがたや錚々たる専門家たちが唱えているような、あらまほしき道を、この足で歩いてきましたのでね。

その結果から申し上げると、

日本では、転職すれば するほど、どんどん不利になっていく、って現実が あることを御存じないのですか??

ってことなんですわ。

しかも、転職の理由は、やっぱり、待遇や報酬の酷さが第一なんですけどね、転職して、そのへんが改善されるのかっつうと、なかなか どうして、そうは問屋が おろさない。

 

大企業には、組合組織というものも あるけれど、もちろん、そういう所の正社員は、待遇や報酬のことで、それほどには悩む必要もないんだろう。わたしゃ、見てきて知ってるわよ。

かく言う私、日本で生活しているなら誰でも頷くような、天下の大企業でも勤務しましたけど、同じ大企業に在籍していても、正規と非正規では、「殿上人」と「下人」ほどのw待遇差が あります。

それだから、当時、直属の上司が、なぜか私を、正社員のみ参加する会議や出張にまで連れ出そうとして、部長から止められてたことも あるw

もう一つ、

「即戦力」
すなわち、入社して即から、できてアタリマエを要求されるような時代に入り、

もちろん私も、(ほぼ独学で身につけた)いちおうの専門スキルを持っていたけれど、日本の会社って、そういうのは、じつは昔から、どっちかと言うと嫌うのよね。特に女性社員には、契約内容に ない、専門外の業務も、あれこれ、こまごまと、やらせたがる。これは、日本で殆どを占めている中小・零細、かつ、いわゆる同族企業の特色と言っても過言で ないだろう。

そういうなかで、

能力を適正・公正に判断できる、その能力、識見、アイデアにも乏しい人たちが、えてして、上司やトップの地位に就いてることが多いんですよ。

たぶん、私なんかが考える「能力」そのものの判断基準というか価値観が、どこかで大いに異なるんだろうなと思う。

 

「ヤフゴミ捨て場」では相変わらず、まともに会社勤めもしたことなさそうな連中が、バレないとでも思ってるのか、コメント読んだらバレバレな愚かしいことを言い募ってるけど、その代表的キーワードの一つみたいに頻出するのが、「努力!!」ってコトバと並んで、「無能」ってコトバ。

 

たしかにね、仕事が異様なまでに できない社員って、どこの職場にも一人や二人は いるもんだよ。たいがいは、何らかのカクレ障碍みたいなもんだろうけど。

でも、そんなのは、ごく少数。

さすがに、大多数は人並みか、中の上くらいの能力は備えている。
日本人って、そういう人が多いと思う。

 

で、「箸にも棒にも」な、どうしようもないほど無能では あっても、無理にでも探せば一つくらいは、「そこにいてもイイよ」と言ってあげられそうな長所も、まあ あると思うのよw

たとえば、クソが付くほど生真面目とかねww

なので、単純な作業内容であれば、なまじっか、怠け者の私みたいにwイイカゲンな手抜きなど夢にも考えたり せず、コツコツまじめに やり遂げようとしてくれる、少なくとも、そのつもりくらいは持ち合わせている。そのかわり、時間をも異常なほど要するけど。

 

もっとも、私の場合、その人たちよりも不利な、あきらかにハンデを抱えた新入りだから、本来の仕事量が、他の同僚たちの2、3倍こなすことを要求されるうえ、その、「異様に仕事できない」さんたちの分をも引き受けさせられたから、しまいには逃げ出すしかなかったのだけど。

言っとくけど、私だって、優秀どころか、どんくさいマイペース タイプですよ?それを こらえる、本来の自分の天然・自然を曲げに曲げるストレスよ。そうして、こなせば こなしたで、ねたまれるんだよw

しかも、給与とか、何らかの手当だって、私よりも、ずっと先に入社してる分、その人たちのほうが、いくらか多く もらってた。

つまりは、

仕事できない、無能な社員だとしても、その人たちの分をも、「ロハ」でカバーできる「スケープ ゴート」が一人いさえすれば、必ずしもクビにも ならずに、置いといてもらえることが多いのよ、「温情ある」日本の会社では。その頃はね。

いまのシステムは どうだか知らんけども。

 

 

だいたいさ、おかしいでしょ。

たとえば、前回のエントリー
【続】「人類の進歩と調和」は どこ行った?wでも述べたように、

「内部留保」に拘り過ぎるほど拘るのは、将来的リスクに怯えてのことだけが理由じゃなくて、

内部留保すなわち、その企業の信用度に影響するから、と言ったって、

まともな報酬も出さずにコキ使ったり「ヤリガイ搾取」するような「ブラック企業」の「信用」って、なんなのよ?と、私なんかは思うの。

まともな報酬、給与ってのは、基本的一般的なレベルの生活費が賄えるってことですよ?
個人的事情等で、あえてパートを選択したとかなら ともかく、少なくともフルタイムならね。

 

「働かざる者、食うべからず」ってな主張は、それこそ、現実を無視した愚者の言うことです。
実際は、働かずにゴチソウざんまいな人も いるわけだしねw

はっきり言ったら どないや?w

言いたいんでしょ?言いたくて たまらんのでしょ?ほーれほれww

そ、病気だろうが老齢だろうが無関係に、

「働かざる者は、死なせるべし」と。

「姥捨て」を、この現代に甦らせようぜえ!!www

世界じゅうから大顰蹙を買うけどね、気にしない、気にしないっと()

 

働こうが働くまいが働けなかろうが、食わないと、生きていけないのは、誰しも同じ摂理だからねえw

ましてや、働いてるのに、ろくに食えないって、なんじゃ そりゃ!だ。

 

専門的な見地だか理論だかでは、売り上げに応じてのはずでなければ ならない従業員の給与をアップさせるために、内部留保を用いるのは、ダメぜったい(←株主さまが激オコになっちゃうから?w)、ということになってるそうなんだけど、いったい、誰が言いだしたんだろ。

そもそも、
こんにち、その内部留保を異常なほど積み上げてくれた要因の大なる一つが、従業員の報酬を抑えたり下げたり、人件費全体を大幅に削減した おかげだということじゃないですかemoji

なんとも虫のイイ、ご都合な話じゃんね。