2015.11.01 (Sun)
数年前、あの金 賢姫が、日本に招かれて、拉致問題の解決方法について問われたとき、「北朝鮮のプライドを生かしながら、、、」といった内容を述べたという記事を憶えている。
当時の私は、北朝鮮のプライドだってえ?と、多少、鼻白む思いだったのだが、こないだ、この記事に付いたコメント欄を見て、あ、そうか、と思ったしだい。
『特定失踪者の中島修一さん 国内で発見』
日本テレビ系(NNN) 10月27日(火)22時8分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20151027-00000102-nnn-soci
そういうことか。。。
でもさぁ、横田めぐみさんの場合も、すでに亡くなってるという宣告でしょ。それが飽くまでも事実であるならば、やっぱり、この方法では どうにもできないわなあ。生きてる本人を返してもらえないことにはね。
もちろん、生存している人の場合は、ここまで せっぱ詰まってるからには、一考の価値が大いにあるのではと思えるのだけれど。
いずれにせよ、真相究明の調査団のなかに、日本側からの、あるいは、日本側の立場に立って参加できる人員が、ある程度以上の配分で混ざれないことには、どうしたって、先方の つごうによる言い分しか聞こえてこない。やっぱり、道は一つしかないように思えるけども。
とは言え、その「道」が可能なら、こうまで膠着する苦労はないわけだが、さて、可能になるには、どうなったらいいのか。
それにしても、
先代の金 正日が、当初、訪朝した当時の小泉首相に向かって、「部下が勝手に」的な定型的言い訳を したということだったが、その若い息子の代に移ってさえも、危惧していたとおり相変わらずの状態が持続しているとは、どうしたことか。
まあ、あの渦中のとき、北朝鮮との事前取り決めを、日本側が反故にしたようなものとは言え、当方にしてみれば、それだけ、あの国の言い分が信用し難かったからでもあると思うものの、
まだ残している人たちを取り返すために、もっと他の方法で上手く押していく取引方策も、小泉政権のとき、あり得たんじゃないかと思えなくもないのだが、多分に、当時の安倍朕からの強硬主張が影響して、って話。
とりあえず、その場の約束を一方的に破ったのは日本側、という かたちになっちゃってる。
で、安倍朕は相変わらず口先だけで、どうすることも できないままだ。
そもそも、自民党は、この拉致という象徴的事件を見ても分かるように、日本国民を、それも、国内の日常生活圏内にいる国民をさえも守れてないってことさ。
2015.10.23 (Fri)
の続き。
三木 清という人が、このような人が獄死したという歴史的現実を思うと、暗澹とした気持ちに襲われる。
過去の歴史に、こうした事実が、どれほど多く起こったことであろうか。
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「仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。
仮説は ある意味で論理よりも根源的であり、論理は むしろ そこから出てくる。
論理そのものが一つの仮説であるということさえもできるであろう。
仮説は自己自身から論理を作り出す力をさえ持っている。
論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。
論理も仮説を作り出すものと考えられる限り、
それ自身仮説的なものと考えられねばならぬ」
「すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、
その逆でないということは、深く考えるべきことである。
つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、
仮説はこの形成的な力である」
「認識は模倣でなくて形成である。
精神は芸術家であり、鏡ではない」
「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。
むしろその逆がいっそう真理に近い。
感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、
知性こそ主観的なもの、人格的なものである。
真に主観的な感情は知性的である。
孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」
2015.10.23 (Fri)
『姜尚中が見た“現代の悪”の正体「生まれて初めて悪人は実際に存在すると確信する経験をした」』
週プレNEWS 10月13日(火)6時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151013-00054814-playboyz-soci
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姜 尚中さんへ。
そして、
アヘぞうり、ならびに、右や左の政治屋センセイがた江
「われわれの生活は期待の上に成り立っている」
「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力を持っている。
われわれの行為は絶えずその呪縛の元にある。
道徳の拘束力もそこに基礎を持っている」
「全ての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、
想像力のない合理主義の産物である。
社会の基礎は契約でなく期待である。
社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である」
「政治の過剰は政治的思考の充実を示すものでなく、反対に政治の科学性の没却、政治哲学の貧困を語るものである」
「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家は全く論説しないか、ただ形式的に論説するのみである」
「独断家は甚だ しばしば敗北主義者、知性の敗北主義者である。彼は外見に現はれるほど決して強くはない」
「ギブ・アンド・テイクの原則を、期待の原則としてでなく打算の原則として考えるものが利己主義者である」
「利己主義者は自分では充分合理的な人間であると思っている。
そのことを彼は公言もするし、誇りにさえもしている。
彼は、彼の理知の限界が想像力の欠乏にあることを理解しないのである」
「どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
心の秩序を度外視してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎である」
「秩序は生命あらしめる原理である。
そこにはつねに温かさがなければならぬ。
ひとは温かさによって生命の存在を感知する」
「また秩序は充実させるものでなければならぬ。
単に切り捨てたり取り締まったりするだけで秩序が出来るものではない。
虚無は明らかに秩序とは反対のものである」
「外的秩序は強制によっても作ることが出来る。
しかし心の秩序はそうではない」
「しかし秩序は常に経済的なものである。
最少の費用で最大の効果を上げると言う経済の原則は秩序の原則でもある」
「最少の費用で最大の効果を挙げるという経済の法則が
同時に心の秩序の法則でもあるということは、
この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである」
「生命とは虚無を掻き集める力である。
虚無を掻き集めて作られたものは虚無ではない」
「人格とは秩序である。自由というものも秩序である。
…かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、
主観主義は不十分となり、
いくらか客観的なものを認めなければならなくなるだろう」
「近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。
いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、
その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい」
「近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、
すなわち虚無主義に落ちてゆく危険があった。
これを最も深く理解したのがニーチェであった。
そしてかような虚無主義、内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤である」
「もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らなければならない。
しかるに今日わが国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら
自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することが出来ないのである」
「現代の混乱といわれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。
対立するものが総合されてゆくというよりも むしろ
対立するものが混合されていくいうのが実際に近い。
この混合から新しい形が出てくるであろう」
「混合の弁証法は虚無からの形成でなければならぬ。
カオスからコスモスへの生成を説いた古代人の哲学には深い真理が含まれている。
重要なのはその意味をどこまでも主体的に把握することである」
【続く】
2015.10.23 (Fri)
~
もう一つ、
例の怪しからんQAサイトに、まだ参加し続けていた頃のこと、
宗教の強引な勧誘で悩んでいた人の質問に、回答で書いた覚えのある話。
私の母親が亡くなったあとの出来事なんだけど、
当時、住んでいたマンション近くの個人商店の奥さんが、非常にフレンドリーな、人懐こいタイプの女性で、親密な雰囲気とともに何かと話しかけてくるもんだから、私も気安く応じていて、何かのひょうしに、母が亡くなり、まだ日も浅いことを話したのだと思う。すると、
たちまち、その奥さんが信仰しているという宗教の話になり、
ここらの近所の人たちも誘って入信させたのよとか、おかげで、あそこの娘さんも、良い縁談がとか熱心に言っていたが、べつだんの関心もない私は、ひとまず適当に流しておいた。
いまは もう記憶が曖昧になってるのだが、
なんだか、そうとう変わった宗教形態なんだなという印象だけ残った。
彼女には、子どもさんの一人に、知能に関する、または発達障害を持つ お子さんが いるのだということも聞いた。
しばらく経って、ある日、頼んであったものを引き取りに行ったとき、また話しかけられたのが長くなり、突然、その奥さんは、
私と、私の実家の象徴的「霊魂」?を込めてあるとかいう、位牌みたいなものを、すでに、つくってもらって、祀ってあるよ、と言い出した。
私は、エッと驚き、
それ、どこにあるの?と聞くと、この家のなかにあるよと言うではないか。
そのためにかかったという費用、これは、いたって低額だったようだが、それも支払いを済ませ、持ち帰って、うちに安置してあるからね~と言うのだ。
私は、そういうことなら、とにかく私のとこに引き取りますわと言って、
一旦、その「位牌」めいたものを受けとって帰った。そのあとで、
実家の父に、かくかくしかじか、どうしようと話したところ、父が、もう凄い激怒したわけ。
「よくも勝手にわけのワカランもの拵えやがって!俺が今から行って、抗議して突き返してやる」
と、いきり立つのを宥めたおし、
あらためて、その店に訪ねて行ったら、たまたま、当の奥さんは不在で、お姑さんが代わりに応対してくれた。
そこで、これまでの経緯を説明すると、お姑さんのほうは知らないでいたらしく、
「うちの嫁がですか!勝手に、そんなことしたんですか」
と驚かれて、恐縮しながら、くだんの「位牌」を引き取ってくれたのだが。。。
また しばらく経って、店の前を通りかかったとき、そこの御主人が、私のほうを、なぜか、普段とは違う、いささか、みょうな眼つきで見ていたものだが、
そのあと、その店は、いつの間にか閉店されていて、家族の姿もパッタリ見かけなくなっていたのに気づいた。
くだんの店舗は、先代の時代からの商売らしくて、私が利用していたサービスの注文受け等は、あくまでサイド ビジネスだったのだが、
住居兼用で構えていた、そこそこ大きい建物も、先代さんからの所有だったようだ。
結局、取り壊した その建物が、実は、過去に、あるアクシデントの舞台になったことがあった。
それは、この御一家にとっても、大変な迷惑を蒙ったはずのことだった。
当時、まだ元気だった私の母が主宰していた お教室の生徒さんが関係していたことなので、話は、私の耳にも入ってきたのだが、
人命に関した、かなり忌まわしい出来事だったので、ここに詳しく述べることは憚られる。
奥さんの入信は、あの過去のアクシデントが切っ掛けとなったものか、
あるいは、子どもさんの障害に関する悩みと関係していたのか、
奥底は、他人には分からないことだが。
私には理解しにくいけど、
自覚なき、悪気もない支配欲とでもいうのだろうか、ご本人は、いたって善意のつもりなので、それだけに、すごく困惑した経験の一つだった。
カテゴリ:コラむ フォルダ:憲法問題/靖国問題について
2015.10.23 (Fri)
の続き。
【旧『イザ!』でのブログ エントリー記録より】
シリーズ「靖国神社」(素朴な考察)そのオマケ 2013/04/29 17:07
勉強不足か欺瞞なのか。
「総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と、
これじゃ、まぎれもなく、
公人の肩書きを もって参拝した、と言ってるわけでしょw
それ以上に、
いまの政権を担う安倍さんなんかは、まさしく、
公の肩書で参拝してこそ、というスタンスなんでしょ。
『日本遺族会』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%BA%E6%97%8F%E4%BC
~皇国史観的な立場を維持しつつ、政府との緊密な結びつきを確固たるものとし、さらに政府からの莫大な援助を受けている。~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C
『日本人遺族の合祀への異議』
日本人遺族の中で合祀に賛同していない者もおり、靖国神社に対して霊璽簿から氏名を削除し合祀を取り消すよう求めている。しかし、靖国神社は、いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしないので無意味であると主張し、これに応じていない(A級戦犯に関しても同様)。
※1 思想信条の自由と遺族の祭祀権に対する理解度の低さからこの手の問題が生じている。神社仏閣その他がそれぞれの思想信条に基づいて故人を如何様に顕彰追悼使用が崇敬祭祀使用が何ら遺族の祭祀権を妨げるものではなく、これらにその祭祀儀礼や祭祀行為を取り止めたり差し止めたり取り消しを要求することは、他者の思想信条を妨げる行為であり違憲である。また、遺族が財産権として継承できる故人の祭祀権は、故人の葬儀葬祭に関するものに対してであって、これを侵さない限り遺族が告訴したり損害賠償を求める権利はない。
※2 「宗教法人靖国神社」が云うところの「いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしない。」は、神社神道の実態とはかけ離れた主張であり、「宗教法人靖国神社」が執り行ってきた祭祀事態とも整合性はない。「合祀」とは、御霊を合同で祀るという意味でしかなく、御霊を混ぜることではない。 合祀したからといって御霊が合体したり混ざったりするという概念は、神社祭祀には存在しない。靖国神社も例外ではなく、祭神を3,588柱それぞれに神名を授けて祀っていて、混ぜたり合体させているわけではない。
~
(文字変換が誤っていたりする部分が何ヵ所かあるが、原文ママ。文字強調部分は、当ブログ主による)
この※1に関してなんだけども。
(まあ、早い話が、「勝手にやってなさい」と放置してりゃいいってことなんだろうけど)
もしもだけど、
もしも、自分や自分の身内が、勝手に祀られていたというのが、
いわゆる黒魔術系とか悪魔教みたいな、不名誉なものでも、拒否の権利は一切ないわけかねえ?w
選択権なしねww
以下の話は、個人的な経験で、いつだったか、あるサイトにて、何かの宗教の(多分、キリスト教系)信者だという人が、私のために祈らせてくださいと言うので、素直に、ありがたく承諾したところ、逆に、先方のほうが、そのことを感謝してくれたということもあった。
このように、私自身は本来、ほかの宗教の信者さんの気持ちや意向を、むげに拒否せねばという考えは持っていない。
不純なものでさえなければ、
素朴な、敬虔な気持ちというもの自体は、どの宗教のものであっても、
私は慎んで尊重する。
【続く】