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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.09.13 (Thu)

私個人は、特に日本の芸能界やらゴシップの類には、とんと興味が薄いほうなんだけれど。

最近、ベテラン女優の一人である三田佳子さんの次男さんが、またぞろ問題発覚というので、
むかし、この息子さん問題が初めて発覚したとき、その頃は、三田佳子さんが、女優として最も好調だった時代、うちの両親も まだ元気だった頃で、「三田は何を甘いこと言っとるんだ」と怒っていたことを思い出し、

しかも、私は全く知らなかったのだが、これまで、すでに何度も、
今回で4度目かの発覚ということで、記事に目を通してみたんだけど。

 

うん、要点を言うなら、

覚醒剤などの薬物中毒となると、これを入手するため、他の凶悪な犯罪手段をも辞さなかったり、いわゆる「反社会的組織」との関わりから抜け難いという特徴性ゆえ、三田さんとしても、これを恐れ、イメージが もの言う芸能界で、せっかく築き上げてきた自分のキャリア、しかも、キレイなイメージに、これ以上の致命的影響を蒙ることを避けたかった。

ために、
相変わらず、問題を起こす子息に、分不相応なほどの、要は、けっして、欲しいものに不自由しないですむ額の金銭を渡すなりのことをして、
「とりあえずの飴玉を与え」「甘やかして」
表面だけでも取り繕おうとしていた、ということだったのかもしれない。

もちろん、それは、ほんとうには、息子さんのためでは なかったのだし、はたして、そのとおりの結果が出たとも言えよう。

 

私に言わせれば、たしかに、この息子は、格段に恵まれた境遇で育ったはず、なんだけれど、

それでも、結論としては。

子への真の愛よりも、親の体面つくろい、自己中心性が上まわった。
それが招いた結果。

記事を読んだかぎりでは、私には、そのように思えた。


自分の体面を繕うばかりだったミエ張りな親の本当の姿は、
子どもの行く末の どこかで現れるもんです。

 

 

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Updated   
2018.09.13 (Thu)

体調が激不良だったため、更新そっちのけw

まだ調子は よくないのだが、かれこれ2週間ほどもホッタラカシだったので、そろそろねwwめんどいけどwww

 

いやあ凄かったぜ。。。

こないだ4日の昼頃から、蛍光灯がチカチカし始めたので、ありゃ、雷かしらと思って、いちおう、電源を落とせるものは全部落としてから、閉めきってある窓のほうを何気なく見たら、カーテンが僅かに動いているので、あれ?と思い、カーテンを開いて、窓の外を確認してみたら、すでに、暴風まっただなか。

すぐそこの電線は、切れて垂れ下がってるのかと思えるほど、ぶんぶん揺れてる。

周辺の木々の葉っぱの切れ端やら、ビニール袋なんかが、空中を舞い上がり舞い上がりして漂っている。

葉っぱやビニール袋で済んでたらイイわな。

うちの物干し竿を降ろしておくのを忘れていて、2本のうちの1本は、すでに、ベランダの床に落っこちていた。外側に落っこちてなくてヨカッタ~。ステンレス製だから、危ねえ危ねえ。まあ、さすがに、人っ子一人も通らないし、車の一台も通らない。この大暴風では、たちまち ひっくりかえりそうだもの。

 

そうこうしているうちにも、大暴風は、いよいよ凶暴風となっていき、
サッシの窓が、まるっと持って行かれるんじゃないかと、肝を冷やしているうちに、網戸が外れてしまった。その網戸の角が、これまた、窓ガラスを激しく叩くので、ヒビが いってしまいそうで、思い切って、窓を開け、
とたんに吹き込んでくる激しい雨風のなか、外れた網戸を横に倒し、ついで、もう一本のほうの物干し竿も外れかけてるので、ベランダの床に落としておいた。

これは、ただ事で済みそうにないぞと、もの凄い風圧で、ばふばふ言い続けてるサッシ窓を、両手で押さえつけながら、カーテンの隙間から外を睨みつつ、「タワーマンション」とかいう高層の住居だと、どんなこっちゃやらと思いつつ、1、2時間ほど経過。

さしもの大暴風も、やや勢いが落ちてきたのと入れ替わりに、
今度は猛烈な雨の横殴り。

それでも、ここいらは、浸水被害までは起こりにくい土地なので、それは あまり心配しなかったが、暴風は どうしようもないわぁ。

それと、地震ね。

先日の、かなり大きかった地震のことも、脳裏を よぎった。

この数日前、私の母校である小学校の横を通ったら、なんだか、いつもと ようすが異なっているので、よく考えたら、あったはずのブロック塀を全部とっぱらってあったわけ。

ということは、
あのブロック塀の事故がキッカケで、こっちでも検査したところが、安全基準を満たせていなかったのだな。怖いなあ。emoji

 

だいたい、今度のような大暴風、私は初めて経験したかというくらい、おっかないレベルだった。

今年は、ほんとに、どうなってるのかと言いたくなる。emoji

 

で、
ピークだと予報されていた午後3時くらいには、むしろ、やや静まりかけていたけれども、
そのあと、停電になっていて、そこからが また難儀の連続。

なんせ、ここって、停電したら、水も止まっちまうなんて、入居してからこっち、今まで知らんかったもん。

やっぱり、「オール電化」だとか、ライフラインを一括りにしてしまうのは、よろしくないなあと思った。
一つ止まったら、みな止まる、ってのはねえ。。。

 

さて、玄関先に出て、周囲を見渡してみたら、案の定、どこの家も、近くに見えてるコンビニも、明かりが点いてない。

階下の通りを見下ろすと、さっき、ブンブン唸ってた電線は、切れるところまで いかなかったようだが、
そのとき、ちょうど、戸外に出てきていた御近所の男性が、くだんの電線を見上げて、やれやれ、しゃあないなあ、という感じで苦笑しておられた。

それで、あー、やっぱり停電なんだな、と思って、室内に入り、まだ多少は明るいうちにと、ブレーカーを確認するために、脚立を持ち出したりで、汗かいて大わらわ。

はたして落ちてたブレーカーを上げる操作を済ませ(但し、避難するとかで、家を出るときは、ブレーカーは落としたままにしないと、いざ通電したときに、倒れた電化製品などが危険なので、要注意)、自分で できることは やったし、あとは、『関電』の対応に任せるしかない。

 

暗いわ、水も出ないわ、何も できんわと、
ここんところの体調不良も あり、しかたなく、ベッドに横になって静かに待つ。

その間、

われわれの生活ってものは、便利なようでいて、なんとも脆いものだなあと、つくづく思った。

 

なんとか、日暮れまでに復旧しないかな、トイレすら入れんじゃないか、と、どうしてもイライラしながら待ってるうちに、最近は、日の入りも早くなってきているので、やがて、とっぷり暮れてしまった。

暗いなかを、あらためて、玄関先に出て、あたりを眺め渡すと、向こうのほうの集合住宅や、ほど近い街灯あたりまで、電気は来てる。それなのに、私宅の周辺、わりと限られた範囲だけ停電になってしまったらしい。

浸水騒ぎもないし、大規模停電でもなさそうだし(その後、実は大規模な停電と知った)、さっさと復旧できんのかよバ関電、とイライラを募らせていると、今度は、ほんとうに、稲光ピカピカ。

あああ、いまごろ お出ましですかいな雷さま、とゲンナリしていると、
突然、照明が点いた。

おお、やっとかめ、と起き上がり、時計を見たら、午後9時半ごろ。

ヘタすると、明日まで復旧する気ないんちゃうかバ関電は、と、気を揉んでいたので、まあ、今夜じゅうに復旧してくれただけ良かったわな、とホッとしたのも つかの間。

お次は、パソコンのモデムを回復させるのに数時間。

 

【部分的追記あり】
初めてパソコンを購入したとき、『ヤフー』に加入して、そのモデムを同時に購入(と言うか、正確にはレンタル)したんだけど、
『Jシン』店員は何を考えてか、うちには必要以上の「12M」とかいうのを勧めてきて買わせ(正確には、当時はレンタルだったが、いまは、実質、顧客側買取制になってるらしい)、あの頃、パソコンにもネットにも、甚だ疎かった私は、購入後、念のため、パソコン スクールの先生に聞いてみたら、○○さんとこなら「8M」くらいで じゅうぶんなのに、なんで「12M」なんか買わせたんだろうね、と言ってたぞ。
こら!「Jシン」のオッサン店員よ。

おまけに、ハナから不良品ときてやがった。

だいぶ あとから知ったんだけど、この「モデム」ってやつ、使用を止めたユーザーのとこから回収し、そのなかから使い回しするかたちで、顧客に届けてるそうな。

それでも、取り替えてもらうのもメンドクサイというか、取り替えてもらえるかどうかも知らなかった私は、だましダマシで、こんにちまで使ってきたんだけど、

今度みたいに、停電とか、そうでなくても、掃除や何かのひょうしに動かしたりすると、たちまちにして繋がらなくなるんで、扱いに苦慮し続けてきた。

こちとら、いやがうえにも高いプロバイダー料金はらってるんだからね、不良品なんぞ売りつけるんじゃないよ、『ヤフー』のソン社長。

さんざ、時間の浪費させやがってemoji

 

だいたい、『ヤフコメ』ってのも、気に喰わないんだよ、ここの企業。
汚ねえカネ儲けしくさって。。。

『ヤフコメ』なんか、例の『汚気・愚』と一緒に潰れたらエエねん。
これが また、どっちも、もと朝鮮人が経営というのは偶然かよ?w

 

…最悪な1日だったわい。

『ヤフー』よ、費やした数時間を返せ!emojiemoji

ああ、プロバイダー変えたいよ。。。emoji

 

それはそうと、
『ソフトバンク』『ヤフー』嫌いなユーザー、かなり多いみたいよねw私も、共感して やみませんぞww

 

最近、この えげつない「モデム問題」にサッサとケリつける方法は ないのか、
これ以上の時間と費用のムダはガマンならん!と思って、あれこれ検索して調べてみたら、なんのこっちゃない、ケーブルを取り替えたら解決しそうだと知り、幸い、いたって安価だし、まずは、ケーブルを購入して試してみることにした。

 

 

で、台風翌日のこと。

あのとき、暴風に持って行かれそうな窓を押さえ続けていたせいなのか、全身が酷い筋肉痛。ただでさえ、体調を崩している最中なのに。

 

しんどいのを堪え、のっぴきならない所用のため、外に出てみたら、自転車を置くスペースの屋根が、粉々に吹っ飛んでいた。。。emoji

 

道中、目撃した、異変の かずかず。

通り道のフェンスはバッタリ倒れ伏し、一ヵ所の大きな交差点では信号が機能してないので、おまわりさんが、素朴に手旗で交通整理していた。

帰宅途中に立ち寄ったスーパーマーケットは、ええっ?と思うほどの、品揃えの乏しさ。

 

いいかげん、うちの自転車を買い替えないといけなくなってきてるんだけど、またぞろ替わった管理会社は、暴風のあと、きょうに至るまで、吹き溜まったままのゴミも掃除に来ない、ましてや、自転車置き場の屋根を直す気もサラサラなさそうで、当分は雨ざらし必定だろうから、いま、新しい自転車を買うのも躊躇してしまう。買う余裕も乏しいしな。。。emoji

と思っていたら、
自転車のタイヤがヘタってきたので、足踏み式のミニ空気入れで、前輪から空気を入れ始め、汗かきつつ、今度は後輪に移ったとたん、長年使ってきたミニ空気入れが、突然、壊れた。emoji

その ひょうしに、後輪タイヤがペッチャンコ。

 

あああ、急いで自転車屋へ行かねばならぬ。。。

台風が来た日を最悪として、なおも尾を引く始末。。。

 

それでも、今度は北海道がエライことになった。

こないだは、大阪も、大きな地震は滅多にないと思ってたら、同じくらいのが来てたもんね。それだけに、身につまされる感じ。

フシギなことに、大阪では、あのあと、これといって余震は起きなかったようなのだが。

 

筋肉痛がぁ自転車がぁ、くらいでブーブー言ってちゃいけないわよね。。。

ああ、、、この先、どうなるんだろ、自分の居住地域だけじゃないね、日本全体、いや、世界じゅうが、異変チックだもの。おっかないわあ。

 

『平成』。。。名前負けもイイとこだった。最初から最後まで。

 

 

Updated   
2018.08.30 (Thu)

『女子高生殺害・コンクリート詰め遺体遺棄』事件を めぐる考察

の続き。

 

さて、最も後味悪く感じるのは、

直接には手を下さないで済むことで、まるで他人事のように思っているのであろう大多数の国民だが、実は、われわれ老若男女全員が、ひとえに「国民」であるがゆえ、「死刑という殺人」に加わっているに ほかならないこと。

 

かと言って、あまりにも凶悪な犯罪人を、この社会を支える国民の名において処罰せずには おけないほどの怒りの やり場もない、この深いジレンマ。

 

だから、凶悪犯罪者の罪悪は、直接の罪状のみで済まず、有形無形にわたり、幾重にも罪深いものなのである。

 

 

私は、「抑止力」ということについては論外のこととしている。

刑が あろうと なかろうと、犯罪は起きるのだから。

 

 

「死刑という殺人」に加担するのを忌避したいために、いっそのこと「死刑廃止」という方向を とるのが正しいことなのか否かは、よくよく考えるべきところだと思う。

 

私個人は、「無期懲役」という刑罰を実施し通せるのであれば、そうすることによって、「死刑」と言えども「殺人」であるとして、これを徹底回避するのもアリだろうと思っているし、「厳罰化」や「死刑」賛成というわけでは勿論ないのだけれど、

とは言え、

思い切って廃止と決めてしまうには、まだまだ複雑な思いが残るし、行政の実務的な面でも、そうそう簡単な話では あり得ないのだから、まずは、廃止を実施している各国の今後を見守るというスタンスだ。いまは、そういう過渡期だと思う。

 

 

「少年法」の問題にしても、昔の「元服」じゃないが、

たしかに、まだ未熟で不安定な年頃では あろうけれど、

身体面の飛躍的向上を得、高度な教育と情報の豊かさのなかで育つ、いまどきのハイティーンを、必ずしも「子ども」とは思えない。

 

私個人の場合は、たしかに、周辺の同年齢と比べたら早熟だったのかもしれないが、小学生のうちから、成人女性と間違われる体格だったし、中学生ともなれば、親たちと奪い合って新聞を丹念に読みこなし、おとなと互角に、思想や政治論を戦わせることも できた。

 

自己中心の醜さに敏感なくらい潔癖なのは、むしろ、若い年齢のうちだ。

 

 

被害者の味わわされた苦痛を償うことは不可能だし、

損なわれてしまった命は、どうやっても、帰ってきや しない。

一言で言って、

回復不可能性」。

取り返しが つかない。これは厳然たる現実なのだ。

 

だが、自分の命の存続が一番大切な者にとっては、とりあえず、「死刑」を免れたことで、ホッとするのが実際のところだろう。

 

どう転んでみても、結局は無反省な凶悪犯罪人をホッとさせてやる必要など あるのか?

 

あらためて言うのだが、

他者の命を、自分可愛さから容易く奪える者にとって最大の恐怖は、

自分の命を奪われることなのだろう。

 

そして、とことん自分中心の性質は、何だかんだと言いつつも心底では飽くまで自分の味方だし、歯牙に掛けた被害者を逆恨みしてでも、自分の肩を持つ。

それが、変形・肥大した自己愛の姿だ。

これを矯正することは可能なのだろうか。

 

真摯な反省に至った以上は、もはや、死刑に処する必要は消えるだろうか。

 

 

いやいや。

そもそも、われわれの誰しもが自分を徹底的に責めきれるものだろうか

 

 

なお、

「家庭が複雑」だの「養育環境の不遇」云々、自身がイジメに遭っていたとか、そんなことは、凶悪犯罪を起こす原因では ない。私に言わせりゃ、ちゃんちゃらオカシい。甘ったれんな!の一言だ。

本当の原因は、そういったことを理由にして、凶悪犯罪を実行してしまう、本人の資質にある。

なのだが、

「資質」というものに、では、どこまで自己責任を問えるかというと、やはり、意外に難しい。

 

だから、分析・分析・分析!なのだ。

そして、

結局のところ、矯正もしくは治療可能なのかどうか。

 

むろんのこと、

表面的演技でもって、「矯正可能」と見做されるのは容認できない。

 

 

矯正も治療も不可能ということであれば、それは、すなわち、

更生の余地なし

ということになってしまう。

 

 

ともあれ、

たとえ「死刑」に処されるとしても、基本的には、本人反省のうえで受容するべきこと。これも、大いにジレンマだ。

 

「刑」「罰」とは何か。

 

 

ところで、

いま、カトリックの坊さんたちの、以前から知られた性的スキャンダルが、またぞろ持ちあがってるらしい。。。

このことも、すでに言ってきたように、もともと悩みが深い、言い換えれば、煩悩が激しいからこそ、何らかの宗教に のめり込むのだろうし、

宗教的戒律でも何でも いいと、キツイ「掟」や「縛り」を求める者というのは、その縛りに依存せざるを得ないほどに、自身の内なる「グラグラ」が危なっかしいからなんだろうかと思うのだけれど、

人ならでは想像してやまない「神」なる概念も、この厳しくも残酷な自然界の「不条理」や「理不尽」を、なんとか納得するための「論理」の一種だもの。

 

のんびりアッサリ、恬淡としてる人には、必要ないことだ。

「敬虔」さというものを失っていなければ、それで じゅうぶんです。

殊更キツイ「縛り」なんか なくても、べつに悪いことも しない。

 

どんなに信心熱心でも、敬虔さを失っている信徒や聖職者に何の意味が あろうか。

有害なだけ。

 

まあ、煩悩が激しいということは、それだけ、生命欲が盛んで、エネルギッシュだということかもしれないし。

エネルギッシュなやつは、ひとたび間違った方向へ転ぶと、タチが悪いこと このうえもない。

そんな、言わば「スサノオ」タイプは、ただ単に、とにかく、世のなかを引っ掻き回すために存在してるのかも()

 

そう言えば、

野心マンマンだった戦争中は、日本国を挙げて、諸外国までを巻き込んで、「国家神道」ってやつを強力に推し進めていたわけで。

いまでは、ほぼ「無宗教」に近いとさえ言われる一般的日本人は、ずいぶんと、おとなしくなったからね()

 

 

ついでに言い添えるが、

「因果応報」だとか、

「何か酷いことを したら、自分に返ってくるぞ」という、

いったい誰に対しての脅しつけなのか、「ヤフコメ」のなかで頻りに言い募る者を見かけるたび、

「それは願望だろ!」

と、私は苦笑するのだが、

あのテの考えかたというのは、

「ひどいこと」を したら、いつかは自分に返ってくる、だからこそ、

いま現在、「ひどいめ」に遭っている者は、かつての本人が、そういう類の酷いことを してきた報いを、今まさに受けている、ということになってしまう、

この論理破綻に気づかないのかと、はなはだ呆れるのである。

 

差別思考の温床でも あるし、いいオトナになっても、こんな稚拙なリクツを言って満足できるのか、さてもオメデタイ思考力だと思う。

 

 

それと、

最近は、いよいよ、主要新聞を始めとした大手マスコミ連中、

死んでるなあー。。。って感じ。

 

つまらん政治と政治屋、つまらんニュース、つまらん国。。。

 

 

それにしても、凶悪、凄惨を極めた事件について論じるのは、ひときわ、気が重いものだな。

 

個人的に、ここ しばらく、急激に体調を崩してしまい、少々喀血までも あったので、当分のあいだ、ブログ更新する気力も ない、、、と思っていたものの、

ますますもって、アタマが よく働かない状態ながらも、上掲の事件について、できるだけ簡潔に述べておこうと思った しだい、だったのだが。。。

けっこう疲れちゃった。

 

 

Updated   
2018.08.30 (Thu)

「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の容疑者が再犯 少年法見直しの議論は海外にも8/27() 18:31配信

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180827-00010007-newsweek-int

 

この記事にも、またぞろ口を突っ込みに来てる『無人島』なんちゃらいうハンネの、こやつの正体を知ってる私にしてみれば、そのパクりの みなもとが、そもそも、どこにあったかということと共に

(『汚気・愚』「カルト連」はパクるしか能が ないw)

鼻白むなんてもんじゃーないのだがw

まあ、こんな愚物のことは どーでもいい。

まともに相手にする価値もない。

 

 

さて、この事件に限らないことだが、

「ネトウヨ」と呼ばわれるほどの低知性連中が、いともカンタンに言ってのける

「死刑!死刑!!」「厳罰化!!」

と喚く程度は まだしも、

「殺処分!!」

という、

何の見るべきところも皆無な言いようの何処に、こうした凶悪犯罪から、われわれの社会と個々の生活を守るべく提案が あるというのだろうか。

 

 

言っておくが、私個人としても、こうした凶悪事件の犯人を、ただ許す気には なれないのだし、ものすごい違和感のほうが先に立って、同情する気にも なれないし、

甘いキレイごとや思想ごときで解決できるはずもない、という考えだ。

 

それと、

「感情ではダメ」という、

いかにも「ネトウヨ」的な軽薄コメントに対する批判側にも、ちとクギ刺しておく。

そもそも、法と言えども、その根底にあるのは、「感情」です。

われわれの社会と個々の生活の維持・安寧を求めるのは、共有的感情から発していることに違いない。

およそ、「論理」というものの みなもとは、感情に発す。

 

 

それでも、

やみくもに「死刑」だ「殺処分」だと喚きまくる連中が、判で押した如く添える、

「人権思想のせいで」

あるかのような言いぐさには到底、くみするわけにいかない。

 

なぜなら、われわれの社会と個々の生活を守るため(それこそ、「人権」ゆえ)の示唆や予防的教訓を、なんとしても、そこから得なければ ならぬと考えるからだ。

 

そうすることで、犠牲者に対する、本質的かつ最大の「償い」と しなければ ならないし、

そのことは、ある意味で最も哀れな存在である加害者にとってさえも、「救い」となることだ。

 

 

ところで、

「脳に異常」者らが、あちこち存在した うちの身内であるがw

そのなかの代表格たるw親なんかが指摘していたには、

「生まれつきの性悪」という者は いるんだぞ!

ということ。

 

このことに関して、過去エントリーで、私の母親から聞いた話を紹介したことが あったかと思う。

かつて実際に起きたという、ある子どもが起こした、ささやかにして凶悪な出来事だ。

 

「生まれつきの性悪」

あるいは、

「生まれつき偏って凶暴な性質」。。。

言わば、これも、脳の先天的異常という範疇に入るものなのだろう。

しかし、それも また、「自己愛」「自己保存」といった「本能」的由来を持つに違いない。

 

 

「発達障碍」とか「アスペルガー」などについても言われるように、全て「割合」というものが あるのであって、度合が極端か否か、社会生活上、うまく隠せているか否か、という程度の違いでしかないのかもしれない。

 

いずれにせよ、

程度が甚だしければ、必ずや、周囲の誰かにシワ寄せが いくだろうし、

そのシワ寄せされた者が弱い立場だったら、人知れず、無念の涙を呑むハメに追いやられる。

 

シワ寄せされた者が少数で おさまらず、弱いだけの立場でも なかったら、それは、遠からず、社会全体の問題として取りあげられるに至る。

 

 

異常なほどの自己中心性というものは、とことんまでの自己優先性向が あるわけだから、

自分の欲求のままに やった行為が、人間社会においては「犯罪」や「罪悪」に該当するからとて、これに当てられた刑罰等が、自己反省へと導くものであるかどうかは、はなはだ危うい。

それどころか、

常軌を逸したほどの「自己愛」にとっては、「刑罰」という名の理不尽な「虐待」や「苛め」であるとしか感じられないかもしれない。

 

となると、

「刑罰」が、ますます凶悪化させる、のか。

 

 

かつて、『女子高生殺害・コンクリート詰め遺体遺棄』事件を起こし、このたび また、凶悪事件を起こすに至ったという加害者の一人も、あの最初の事件以降ずっと、すさんだ精神のまま生きてきたのだろうか。

本人の無反省か。

周囲や社会の問題なのか。

 

昔から、「少年院」やなんかに入ったら、出所する頃には、なぜか、もっと悪くなって出てくる、と聞いているけれど。

 

とは言っても、

犯罪や罪悪を、何ら咎めなく放っておいて通るわけが ない。

もともと極度に自己中心な者が、野放しにされて、自発的に反省や抑制するはずもない。

 

こうした異常なまでの自己中心的性分を持つ者に対して、「刑罰」を与えるとは、はたして可能なことなのだろうか。

 

しょせん可能でないからこその「殺処分」なのだよ!という向きにも、よく考えてもらいたいのが、

真っ先に考慮しなければならないことは、

われわれの社会と個々の生活を予防的に守っていかなければ ならないのだということ。

 

そのためには、どうするべきか、ということ。

「殺処分」しても しても、イタチごっこのようなもの、あとからあとから起きてくることを防がなければならないでは ないか。

 

 

これ!と名案のようなものは、私にも ないけど。

ただ、「死刑」だの「殺処分」だのの前に、是非とも やっておくべきことが あると思う。それは、科学的「分析」だ。

 

 

これの真偽は諸説あるようだが、例の『スタンフォード監獄実験』や『ミルグラム実験』を連想させられるところが あり、恐らく、くだんの事件についても、複数人での虐待行為が あったところを みるに、「集団心理」といったものが絡んでいるだろうし、こうなると、個人の異常性だけに とどまらない面も出てくるわけだ。

 

誰しもが、一歩間違うと、加担しかねない、特に、男性性が影響している側面は大きいと思われる。

「ヤフコメ」のなかには、性的なものとの関連性を指摘している投稿も、一つだけ あったが、それは勿論のことで、

加害者が女性の場合で あっても、いわゆる「男性脳」的とでも言うのだろうか、そういう傾向の脳だと、佐世保での『同級生殺害・遺体損壊』事件のようなことを引き起こすのでは ないだろうか。あの事件当時も、私は、どうも、性的な動機が根底に窺えるように思うと指摘しておいた。

 

そして、異様に「子どもっぽいものだ。

 

知的障碍を持つ子どもが、肉体的には一人前の年頃に さしかかり、性的衝動をコントロールできなくて、親や周囲が扱いに困惑するということと、どこか共通した感じもする。

 

 

なにしろ男性というのは総じて子どもっぽい、

というのが、昔からの定評。

おぞましいの一言だが、たとえば、女性器に、いろいろと「異物を挿入」し、被害者の反応を試すなどは、いかにも子どもっぽい「実験」に見えなくもない。

 

そして、人や生きている存在を、あたかも単なる物のように扱う、こうした傾向、

動くものに、思わず、目を奪われて興味を持ったり、視覚から受ける刺激に敏感というのは、どちらかと言えば、男性に多い特徴だろう。

 

(続く)

 

 

Updated   
2018.08.19 (Sun)

「しかも僕らは いったい どうなることであろう」

~レマルク『西部戦線異状なし』より~

……

 

【続・続】世界じゅうの「パウル」たちの続き。

 

最近、瀧本さんと おっしゃる、『トラック島』から、これも命からがらに帰国された体験者の談話も拝読した。

結局、『(万朶)特攻隊』の生き残りの一人だった、故 佐々木氏と同じことを憤っておられた。

 

ただ、体当たり、

ただ餓死、ただ野たれ死に、

いったい何のために、兵士になったのか?と。

 

そして、瀧本氏は、

えらい人は責任とりません!!」

と叫ばれる。

真実の叫び。

まさに、真理。

あの時代も、現代も、変わってや しないんだ。

 

ちなみに、

うちの親父が、なぜ、志願して入隊したか、その動機は?ってえと。

出世したかったから。

 

進学が困難な貧乏家庭の倅でも、勉強させてもらえて収入も期待でき、手っ取り早く確実に出世できるのは、軍人だった、そういう時代。

 

親父個人にとって、
あかんぼうの頃に離された実母も、養母である伯母が亡くなってしまったあとの養家先の義父に対しても、何らの情愛は なく、
しかも、まだ若いから独身。

 

ただ、やっぱり、「臣民」と呼ばれる時代の、ましてや、近衛に所属してるんだから、天皇に対してだけは忠誠を向けるべき対象だったろうけど。

 

「お国のため」とか「家族を守るため」とか、そんなのカンケーねえ!

こういう本音、けっこう多かったかもよ?

 

以前の過去エントリーでも触れたことが あるように、

親父が あかんぼの頃、実母である妹から奪うようにして、その姉(親父の伯母であり、養母)は、千葉の片隅へと連れ去り、子が できない自分の跡継ぎにしてしまったんだけど、これが また、貧乏家だった。

わざわざ、何時間も列車に揺られて、田舎から奪いに来なくても、千葉の地元では、他の妹の子どもらがワンサと群れてるんだから、そのなかから引き取れば よかったのにと指摘すると、親父は、
「あら?!今の今まで、疑問に思ったことなかったわぁ俺」
と、自分で訝っていた。

 

現代で言うところの、運輸官僚から身を起こし、一代で、海運会社を経営してた実父(私から見て実祖父)が、中年期に病没するまでは、「御殿」と呼ばれたほどの父の生家は羽振りが良かった。

で、兄たちは戦死だから、この生家に留まっておれば、親父が、家督を継いだかもしれないのだが、末っ子の弟もいるので、もし、伯母の家の跡取りでなかったら、親父とて、激戦地の前線へ出されてたかもしれない。本人は、そっち希望だったのにと言ってたけどw
まあ、結果的に、「命拾い」したんだわね。

 

 

戦争にまつわる、そして、それに対して抵抗した、いろいろな国の人々についての本や談話記録等を読みながら、学生時代の私は、このように思っていた。

権力者たちの思惑に従い、その利己的な、
(そうでは ないと、たとえ、権力者側が思い込んでいたとしても)

彼らの目的に合致する「コマ」の一つとして、唯々諾々と死んでいくくらいなら、それへの苛烈な抵抗の果てに、死をも辞さないことのほうをこそ、私は選ぶ、と。

 

こんな気まぐれチャランポランな私でも、いま振り返ると、いかにも若々しい正義感に満ちた思想を持っていた時代が あったんだなあ。

 

学生時代に読んだレマルクの『西部戦線異状なし(報告すべき件なし)』も、その頃に読んでいた。

カミュの『ペスト』その他の幾冊か、同じく、ドストエフスキーの幾冊か、

サン=テグジュペリ『星の王子さま』も。

 

「ペスト」

 

言われてみて、ああ そうだったなと思ったのが、「平成最後の『終戦日』」。

ともあれ、今年の その日は、いつもに増して、「語ること」と「伝えること」に、光が当てられたと思う。

言うまでもなく、どの立場においての体験者たちは皆、日に日に、話せなくなっていく。

これまでは、心理的などの理由から、敢えて、口を噤んでのことだったとして、今後は、その口自体が、動かせなくなっていくことを、念頭に置いておかなければ ならない。

 

残された世代と今後を生きていく世代は、「先人と同じ轍を踏むまい」とするならば、「生きて語ってくれる人」が皆無になったあと、彼らが残していった証言や思いのたけを、いかに伝え渡していけるのか、このことを、一人ひとりが自発的に考え、探り、くふうしていかなくては ならない。

 

私らは、何だかんだ言っても、自分の親の口から直接に聞けた世代だけれども、私らの後の世代は、「また聞き」みたいになってしまう、そういう危惧が、私のようなノンキ者にも、一抹の不安を感じさせてきた。

 

昨今の世間の雰囲気なのか、インターネットにおいてのみ顕著なものに過ぎないのか、そのへん、まだハッキリと見分けられないのだが、
若い頃から漠然と感じていた「戦争を知らない自分たち」という不安が、的中してしまうのか?という恐れが、むくむくと起きあがってきそうな気配は、増加してきているのでは なかろうか、という思いを払拭できるほどの自信は、それほどには ない。

 

 

私が学生時代もしくは20歳代のうちと思うが、新聞の投書欄だったか、一般の人だったか誰の投書か、
いまでは、内容の詳細も忘れてしまって、

戦争を体験した世代の一員である その人が、兵士として戦場を知っていたのか、一般家庭の子どもとしてだったのか、
それも憶えていない、あるいは知らないのだが、

ただ、こんなふうに怒っておられたことを憶えている。

 

些か奇妙な印象のように残っているのは、

その人は、
『戦争を知らない子どもたち』という歌を聴くと、ひどく腹が立つ
のであるらしかったこと。

 

戦争の実体験が全くない世代の一人である私から見れば、分かるような分からないようなリクツで訴えておられると感じた「怒り」では あったけれど、

多分に、そこには一種の羨望や嫉妬のような感情が混じっているようにも思われた。

 

「若過ぎるからと許されないなら」「髪の毛が長いと許されないなら」

「青空が好きで花びらが好きで」「いつでも笑顔の すてきな人なら」

「誰でも一緒に歩いて行こうよ」

「きれいな夕日の輝く小道を」

「ここは お国を何百里」「離れて遠き満州の」

「赤い夕陽に照らされて」

と歌うことも禁じられたという世代から すれば、

なるほど、たしかに甘ったるく感じられただろう、

生まれたときから「平和の歌を口ずさみながら」歩き始められる、当時の「現代の若者」たちに対して。

 

「戦争を知らない子どもたちさ」と、みずからを歌った若者たちも、いまは60歳代後半から70歳代だろうか、りっぱな「高齢者」となっているはずだ。

 

 

「戦争を知らない子どもたち」は、

「戦争を知っている子どもたち」の名をこそ忘れずに覚えていてほしい、と締めくくるべきだったかもしれない。

 

「戦争を知っている子どもたち」

「戦争を知らない子どもたち」

「誰でも一緒に歩いて行こうよ」

 

戦争が始まり、ボクらは生まれた

戦争の さなかで、ボクらは育った

 

おとなになって歩き始める

平和の歌を口ずさみながら

 

ボクらの名前を覚えてほしい

戦争を知ってる子どもたちさ