2019.02.07 (Thu)
絶望と孤独のなかで 死んでいった子どもが、また一人。。。
当ブログでは以前も言ったことだけど、
「ヤフゴミん」らのなかで特に目につくアホな主張が、
やれ「親を選んで生まれてきた」とか、
やれ「次に生まれてきたときは」とか、さも見てきたようなことを言う。
しょーーーもないのも通り越して、ひたすら愚かなコメント。
こんなだから、デマも平気で こくわけよ。
親を選んで、って、
じゃあ、そう言うオマエさんは、選んで生まれてきた覚えが、カケラでも あるのか?
おめえみたいな愚物が、たまたま、なんとか人並みの生活できてる、
いまのとこは「まあ、運が良かった」というだけのこと。
えらそうに、他人の人生を、そんな単純に片付けられるもんじゃない。
あるいは、人並み以下の苦しい生活環境を余儀なくされていたりしたら、それでも、すべてが自己責任、自己判断の結果です、と潔く言えるか?たぶん、そうは できまいよ。
それに、自分自身が子どもを持つ側の者が、「子どものほうが、親を選んで生まれてきた」なんてな、ごつごう剥き出しの、それこそ無責任な戯言をホザくな。
見てて不愉快極まる。
うちの親だったら、
「そうそう!自分たちのところが良いからこそ、おまえは選んで生まれてきたんだ」
と、さっそくウヌボレの材料にするのは、火を見るより明らかだ。
もっとも、そういう親ら自身、じゃあ、自分も、生まれるところを選んだのか?と問われると、それは猛然と否定するはずw
そんなもんなんだよ。
基本的に、親というのは、身勝手で脳天気だからこそ、ほいほいと、子を産み落とす。それが現実。
だからこそ、子を負い、責任を負い、子育てによって成長し、人間として成熟しなければ ならないとされる。
未熟だからこそだ。そうじゃないか。
甘ちゃんだからこそ、「すべては自己責任」とか、「次は」などと、あたかも「リセット」可能と思えるんだ。
こういう感覚だと、そりゃあ、他人事、他人まかせにしてしまうわな。
呆れた脳天気だよ。
ま、そういう脳天気のウヌボレやでなければ、安易に子どもを つくることは できないはずなんだけどね、人間としての知性が備わっているのならば。
いいですか。
命は、一回コッキリです。
代えは ない。
だから、取り返しが つかないの。
厳しいもんだよ。
私自身も、家庭内暴力や虐待被害の当事者だったので、年齢を重ねるにつれて、ますます、この類の事件を見聞すると、ほぼ反射的、と言えるくらいに、気分がダウンする傾向が あるので、すぐ反応して、ブログとかに、自分なりの見解を書き込む意欲すら、ここ年々、起きにくいようになっていってるのだが、
例の「ヤフゴミん」らのコメントを見ていると、やっぱり、ここの連中の多くは、わかってない、わからない連中なんだと感じる投稿が多過ぎるほど多いので
(障碍者の問題にせよ、生活保護の問題にせよ、政治や社会一般についての問題にせよ、何でも その傾向。よくも まあ、こんな無知かつ下劣なコメントを、恥ずかしげのカケラもなく投稿できるもんだよ、いくら匿名でも。)、
特に、自分自身で、実態というものを経験していないと、なかなか理解し難いのだろうなと思えることについて触れておく。
まず、
今回の事件で断定することは避けたいものの、やっぱりなあと感じざるを得なかったのは、お役所の、公務員さんの、「事なかれ体質」「他人事で済ませたい性質」といった、昔からの定番の批判。
これは、障碍者自身や、支援等の関係で、障碍者と関わっている人たちの大多数が、よーく知っていることだ。
原因は「人手不足」?なぜ、そうなる?
政治や政策、行政の ありようは無関係か?
言わば「内部告発」の かたちを とらざるを得なかった、抵抗が困難な者を守らず、逆に突き出す結果になってしまったような、アンケートのコピーを渡した行為に、「人手不足」を理由には、決して できまい。
中途半端な行為が、かえって、事態を悪化させることは ままある。
私が受けた印象は、今回も、「しょせん、苦労知らずには分かるまいさ」ということ。
政治屋や公務員らが、苦労知らずのオボッチャンお嬢ちゃんのまま、いっちょまえの肩書き付けた「おとなモドキ」だと、庶民は苦労する。その端的な現れが、こういう場面にも噴き出してくるのさ。
私が小学生の、ちょうど、この事件の被害者である少女と同年齢の頃、当時の担任は、大学卒業したばかりの新米の女性教師で、子どもから見ても、見るからに若い お嬢さんタイプで、地元の旧家育ちという話は、子どもたちの耳にも入って来ていて、
当時、うちでは、母親が経営する飲食店の閉店後に、交通事故に遭い、長期入院中だったのだが、クリスマスから年末の季節となり、私は、母親の見舞いの帰りだったかに、幾ばくかの小遣いを もらったので、駅前の目抜き通りの商店街を散策中、この担任教師とバッタリ遭遇したことが あった。
「あらぁ、○○さん」と一言二言、短いコトバを かわしているあいだ、にこやかに、こちらを見ていた、彼女の母親らしき、品の良さげな中年女性と連れ立っていて、二人で買い物を楽しんでいるところだったようだ。
先生は、上質で温かそうなコートに身を包み、とても幸せそうだった。
子どもだった私の目にも、何不自由なさそうな母子連れで、「先生って、ほんとに、お嬢さんなんだ」と感じたものだ。
さて、その頃に、クラスでイジメられっ子の一人と見做されていた立場の男の子が、どういうわけだか、いきなり、学級委員に選出されたことが あった。
ふつう、学級委員というのは、昔も、いまでも、まずは優等生で、リーダーシップが ありそうな子が選ばれるのが相場だと思うけど、
私も、あれれ?と思ったものの、要するに、こういうことも、イジメのネタになり得るからなんだな、ということは察した。
一部の男子らが、やんやと囃し立てていたことからも、それを確信した。
選ばれた当人は、あきらかに当惑していた。
案の定、
それから ほどなくして、何かの問題が もちあがったときに、その男子は、学級委員でありながら!とて、教壇に一人立たされ、クラスじゅうの総攻撃を一身に受けるハメになった。
そのとき、あのクラス担任は、どうしていたかっつうと、
どこか薄笑いを受かべて、他人事のように眺めているばかり。
私は、その光景を黙って見ているうちに、とうとう、たまらなくなって、挙手して発言した。
「わたしたちクラスのほうにも、○○クンを学級委員に選んだ責任は あるし、○○クンを責めるだけでいいとは思えません」とね。
もっとも、私自身は、その男子を学級委員に選んでいたわけじゃないよ。
で、担任の先生は、私の発言を受けて、こう言ったの。
「それは そうやね」
それだけ言って、にやにや笑っていた。。。
その後、学年が上がって、担任も変わったおり、その女教師は、同時に退職したという話を聞いた。
教師を続ける自信が ない、と。
なんでも、そもそもは、校長先生あたりのコネが あったらしいのだが、たった2年ほどの教員生活に懲りて、以後は、花嫁修業に邁進します、ということだったそうな。
この時代、日本は高度成長期の花盛りと言っていい時世、公害問題が もっぱらというくらいで、いまどきのような複雑かつ深刻な心理的問題、「貧困の連鎖」だの「暴力の連鎖」だのといった問題は、あまり、浮上しては いなかった印象が、いま振り返ってみても残っている。
もちろん、実際は、いろいろと あったに違いないけど。
まあ、うちに関しては、いまどきなら、それこそ児相からの偵察が来てもフシギじゃない環境だったことは、先日のエントリーで言ったとおりだけど。
なにしろ、「心理学」というコトバすら、うちの無教養な親なんかは、知らなかったろうし、ましてや、
子どもが、「DV」すなわち両親のあいだで繰り広げる暴力行為を目撃しただけでも、虐待に該当するなんて知見は皆無だったと思う。
ええ、委縮してるかもね、私の脳もw
つくづく、融通が利かないんだなー公務員さんというのは、とも思った。
その、どうしようもない融通の利かなさの原因は、私が、ここで先述したことも、要因の一つだろうし、それこそが、役所の特徴的な体質なのだろう。
「判で押したような」
「杓子定規」
…
「杓子定規」というものは、不公平や不合理を生む。
【続く】
2019.02.07 (Thu)
新元号に「和」の字が人気?
やめときなはれw
『平成』で、名前負けの恐ろしさというものを実感しただろうにw
『昭和』だって、やっぱり、名前負けの面が大だったろww
次の元号に「和」の字なんぞ入れてしまったら、ただでさえ、再びのキナ臭さ漂う国内外情勢だ、ほんとうに、戦争が勃発しちゃうかもよ?
まあ「ネトウヨ」と、そのミコシを任じているていのアベシらは、そうなってほしいと願っているらしいがねww
子どもや孫に、「お国のためだ、死んで来い」などと、口が裂けても言いたくない、言えない人たちは、そんな事態に陥らないよう、シッカリがんばんなさい。
わたしゃ、子も孫も いないから、他人事みたいに言ってスマンけどね。
ところで、
この3日は『節分』ということで、半額になってた「恵方巻」を食しました。
思うに、私が子どもだった頃、もちろん、それはン十年も前の時代だが、「豆撒き」の季節行事は、一般家庭においても比較的に残っていたので、夜ともなると、じゃあ~始めるか、と、窓を開ければ、寒風に紛れて、ご近所の家々が建ち並ぶ向こうのほうから、
「鬼はぁ外ぉ」
「福はぁ内ぃ」
という掛け声が、途切れ途切れに聞こえてきたものだ。
大きな声で、戸外に向かい叫ぶのも、なんとは なしに気恥ずかしい感じが あるもので、
実家では、幼いうちは私が言わされていたが、その私自身も、お年頃に さしかかったあたりで、兄が在宅しているときは、もっぱら、兄に言わせていた。
こういったことも あるゆえに、特に都市部の密集した住宅街や集合住宅などで、にぎやかしく豆撒きや「鬼やらい」という風習が薄れていき、
かわって台頭してきたかのような、一般家庭における新しい風習が、
「恵方巻」
ということなのかもしれないと思う昨今。
もっとも、この風習自体は昔から、いわゆる花柳界にて行なわれてきたものだとは聞いているが、
なんせ、「歳の恵方」を向いたら、あとは黙りこくったまま、
黒々とした海苔に覆われた、太く長いソレを、ひたすらに咥えて食べきるべしというんでしょ?
「ひいきの旦那の訪れを、今夜も切に願いつつ。。。」
じつは、かなりキワドイ意味を持つものであるという(苦笑)
なので、
じゃあ、男性が、「恵方巻」を、って、どうなの??という疑問を、旧ブログで書いたことがw
近頃では、「恵方巻スイーツ」と称し、太く長いロールケーキ状のデザートなんかも出てきてるが、いくらなんでも、これを、ひたすら黙ったまま、イッキに食べきるのは、そうとうの甘党でなければムリだろと思う。
もっとも、買ったことは ある(笑)
友人・知人の誰かが言っていたかと憶えているのだが、
この、拍子を つけた掛け声を出すのが照れくさいからとて、
小声で、いたって普通に しゃべるときのように、「鬼は外、福は内」と、
あくまで淡々と言って済ませるとかいう人も いたが(もしかしたら、私自身だったか?笑)
ちょっと似た話で、
むかしの実家が特に親しくしていた隣家のオジサン、お正月の朝、うちへ出向いて来て、ひとしきり、あらたまった姿勢で、新年の挨拶の口上を述べるのが、なんだか照れくさいなあと おっしゃったところ、そこんちの娘さん(私は、おねえちゃんと呼んでた)が、
「ほんなら、玄関あけて一言だけ、『謹賀新年!』と言うて帰って来たら いい」
と答えたというので、皆でフキ出したことを思い出す。
来客:
「謹賀新年!」
あるじ:
「臥薪嘗胆!」m(_ _)m
…(笑)
まあ、いまどきは、「あけおめ」で済ませたりもするけどなw
ああ、そうだ、辻元さんの「外国人献金」発覚について少々。
以前、前原さんの辞任騒ぎにまでなったことは、記憶に古くないね。
それなのに、またぞろだそうな。
いずれも、元『民主党』で、現在、党の要職に就いていて、やっぱり在日韓国人から、というパターン。
実のところ、自民党支持者には、昔から、在日韓国人・朝鮮人も多いそうなので、
あれかねー、わざとかねえ?www
そうではないのなら、どんだけ学習能力ないんだろ、在日韓国・朝鮮人ってのは。。。(呆)
しかも、今回の献金者は、焼肉屋のオバちゃんでもなくて、
なんと、弁護士だってさw
まあ、弁護士と言えど、もの知らずも多いのは知ってるけどww
さて、半額でゲットした「恵方巻」を食しつつ、
「豆撒き」のこと、その掛け声のことを思い出していた。
胸のうちで唱えながら、おいしく いただきました、ええ、このように。
「あべは~外!!福は~内!!」
「あべは~外!!」
2019.01.28 (Mon)
先日、youtubeで検索していて、たまたま、『アンコール トム』の猿たちの動画にハマってたという話を述べたけれど、
『この年末・年始に:人は、獣に まさるところなしw』
人類とルーツを共にしているというだけあって、本来の人間社会の原型を見たというべき、勉強になった面は大いに あるものの、
そのうちに、いろいろと、問題が潜んでいることに気づいた。
たとえば、『アンコール トム』の猿たちに密着するように撮影し続けることが、猿たちにとって、ストレスになっているということは、当初から察していたが、
「レスキュー」と称し、瀕死の子猿を連れ出し、獣医に診察・治療させた、ということも、じつは、あれは獣医なんかでは ない、という指摘が、コメント欄に散見された。
ほんとうのところ、一般の視聴者には、ハッキリとは見分けられないことが多い。
それ以上に、私自身も気づいたのは、
Youtubeが、いまや、貧乏人のカネ儲けのツールともなっていること。
あらゆる種類の猿の乳児が、生まれて間もなくから、母親と引き離され、ペットとして入手した人間たちの、まさにyoutubeネタとして利用されているということ。
いくつか閲覧していて、私も胸が痛む思いを した。
人間の手のひらよりも小さな子猿が、本来の彼らの生活習慣に ない、
たとえば、からだを洗われたりすること。
人家のなかで飼う以上、あるていどは、人間の衛生的習慣を押しつけることになっても しかたないのかもしれないが、
それにしても、人間用のシャンプーやソープを、じかに子猿の からだにゴシゴシ擦りつけ、せめて、最後にはキレイな温湯で すすいでやるなら ともかく、
盥なり流し台なりに溜めた湯や水に全身を浸からせたまま、シャンプーやソープの汚れた泡が浮かんでいる、その湯や水を、抵抗する子猿の頭からビチャビチャぴちゃぴちゃ、しつこ~く、いつまでも かけまくって、目や口に入ってるのも構わず、
結局、激しく抵抗し続ける子猿を持て余してか、すすぎ流してやることも全く せずに、汚れた泡が付着したまま、これまたボロッボロの汚らしい布で強く拭きまくって、おわりにしていたり。
たまたま、おとなしい性質の子猿だった場合、厭なのを堪え、じっとしているとなると、それこそ延々、浸からせたままの状態で、撮影している、いつまでも。
ねっ、可愛いでしょー?と言わんばかりのバカな撮影者。
不安やストレスに晒されたあとは、本能的に、母猿に抱きついて、からだを温め、母猿の乳首に吸い付くことで安心と癒しを得るのだろうに、
なぜ、こんな乱暴・狼藉を されるのかサッパリ理解できない乳児の子猿は、さんざん、からだを弄り回されたあげく、湿ったボロ布の上に放置され、しかたなさそうに、自分の小さな指を吸いつつ、がっくりと うなだれて、そのまま眠ってしまった。それは それは、哀しそうな顔を して。
ミルクを飲ませるとなったら、これが また、小さな子猿の口に おさまりきれないほど乳首の大き過ぎる哺乳瓶で、子猿は、見るからに、顎がダルそう。。。
せめて、できるだけ、猿なら猿に適した飼育方法を わきまえているなら まだしも、
なかには、毎日、とっかえひっかえで、人間みたいな服を着せ、からだを洗い、人間の子ども用の、小さな子猿には大き過ぎる歯ブラシで、乱暴に「歯磨き」もどきを やって、
しかも、その子猿の場合、生後まもなくして徹底的に しつけられてきたのか、あらゆる無理なことを強制されていても、ほとんど抵抗せずに、諦めた哀しげな顔を しているのも お構いなく、図に乗った飼い主は、せわしなく指図し、強制し、その間ずっと、耳障りなカン高い声で、やかましく しゃべり続けるので、その中国語じたいが、大キライになりそうになった。いかにも成金趣味まる出しの中国人らしき女性だった。
最近、金持ちになった中国人だけじゃない。
インドネシアとか、東南アジアの どこかと思しい、見るからに貧しい人々も、生後間もないと見受ける子猿を入手し、自覚もないのか、さも可愛がってるふりで、虐待しとる。
なんでかというと、
カネ儲けなのよ、スマホとyoutube使って。
何年か前に、
インドで、住居にトイレが ないから、線路沿いの原っぱみたいな場所に出て排泄するしかなく、
特に女性は、襲われる危険に怯えながら用を足す、そんな生活状態の人々のあいだにも、スマホが普及しているという記事を読んで、呆れてしまったことが あった。
まあ、誰が、一番トクしているのか。
そして、
その結果、誰が最も苦しむことになってるのか、っつうことだわ。
あのテの動画を見ていたら、つくづく、人間どもに大バチが当たらないでは済まされまい、と言う憤りを感じざるを得ない。
なので、私は、もう二度と、このテの動画は見ないことにしました。
2019.01.28 (Mon)
この姿勢は、「ミギ」だろうが「ヒダリ」だろうが共通した言動を とる人たちが いるね。
こないだも、私は、
「祈ってくださる」から?それが なに??
という疑問を呈したところだが。
ところで、この記事について。
『ヘイトを撒き散らす危険な「愛国思想」の元凶 「教育勅語=日本人至上主義」と認識すべきだ』前川 喜平 2019/01/27 08:10
最初に ことわっておくが、
私は基本的には、前川氏の側につきたいと思う者では あるのだが、
この記事内容に対しては、もう何年も前から呈してきた疑問を再び示そう。
前川さん、
「同胞」「わが民族」といったコトバは、日本国内における「ネトウヨ「ウヨ」ら以上に、在日朝鮮人たち自身が、昔から特に好んで用いているコトバですよ。
ちなみに、個人的な経験で、数十年も前のことになるが、
むかし、近場のスーパーマーケットに行ったとき、階段の踊り場に設けられている休憩用の椅子に腰掛けていた高校生と思しき女子の二人連れが、やにわに立ちあがり、私に声を かけてきたことが あった。
何だろうと思いきや、
「お金を貸して」
と、いかにも なれなれしく言っているのだった。
通りすがりの私に向かって、いきなり何を言ってるんだと思いつつ、今しがた買い物に使ってしまったので、と即座に断った。
のっぴきならない理由が あるのならば、まずは お店の人に相談するとか、ほかに方法は いくらでも あるだろうに、幼い子どもじゃあるまいにと不審を感じつつ呆れたには、彼女たち、朝鮮学校の生徒だということが あきらかな制服を着ていたのだ。
自分の学校に誇りを持っていたら、あきらかな特徴ある制服を着用した身で、顰蹙を買うような軽率な ふるまいは できないだろうにと思ったことだった。
実際、「朝鮮学校」に通っていた人や卒業生のなかにも、あの学校には大きな問題が幾つも あるということを述べている人たちは存在する。そういう人たちのブログを幾つか閲覧したことが あるし、私個人的な見聞においても、これは、政治的なバイアス等は一切抜きで、芳しからぬ感想を述べていた者も知っている。
さて、まず、「朝鮮学校」というものは、「各種学校」の扱いだよね。
その各種学校のなかで、「朝鮮学校」の扱いだけが異なっていて不当であるということなら、それは問題にすべきだろう。
先日、『朝日新聞』のウェブ記事で、
いわゆる在日三世の立場として、日本で生育し、「朝鮮学校」にて教育を受けてきたという青年の紹介記事を読んだ。もっとも、有料記事だったので、途中までしか読めなかったのだが。
その記事中で、またまた、首を傾げたくなるような箇所が あった。
それは、その青年いわく、
「なんだ、日本人にも良いやつが たくさん いるじゃないか」
と考えを改めた、という発言。
どういうことなのかね?
何国人のなかにも、って、いろいろ いるのはアタリマエじゃないか。
当然のこと、100パーセントで括れるものじゃない。
ましてや、この日本のなかで生育しておりながら、
「日本人は悪いやつばかり」
という印象を持っていたというのなら、
それは、ほんとうに、どういうことなんだろうか。
どんだけ、狭い世界で生きてきたのかなと、いささか呆れました。
そういう教育を施しているわけだ、「朝鮮学校」という所は。
ただ、この青年は、そのことに気づいて、いまは、日本でも朝鮮半島でもない国で起業し、いまのところは順調にやっていけているそうで、結構なことだと喜ばしく思う。
おりしも、「韓国に経済制裁を!!」という主張が、たぶんに「ネトウヨ」と思しき連中が盛んに主張している最近だが、
経済制裁、これを実行すると、実際に困ることになるのは、結局のところ日本側なのだそうだ。
まあ、私でも、それこそ日・韓断交となっても、あくまで個人的に困る気は しないというのが正直なところだしw
ほんとうに困るのは、日本側でも、企業・商売人たちだろ、としか思えなかった。
あと、朝鮮半島で、もしもの緊急事態が起きたときは、「ネトウヨ」らが猛反発するような、在日米軍の動きが、ここぞと開始されるんだろうww
あるいは、例の「北朝鮮拉致問題」が あるけどね。。。
もっとも、冷静に考えてみると、韓国と大いに仲良くしているのだからといって、この「拉致問題」について、何らかの希望的展開が見えてきた あかつきが訪れたとしても、以降、どれほどの期待が できるかは、正直言って、定かでは ないわな。
で、当ブログでは、何年も前から、かねて疑問を呈してきたのが、
日本国内の「ネトウヨ」「ウヨ」なる者らは、例の如く、「極右団体」ひいては暴力団というところが正体なのであるということならば、
「韓国に経済制裁を!!」「いまこそ断交!!」
と叫びまくってる連中は、まさしく、「北朝鮮」系のナントヤラじゃないのか?とwww
「パチンコ」(正確には「メダルチギ」とかいうものらしい)についても、韓国では禁止されているそうな。
でも、日本では認められている。なぜなんだろうね。
私は、そもそも、「高校無償化」自体、現実的な優先事項であるとは考えていない。もちろん、そうできるなら、それに越したことは ないけれど。
やれ税収が予算が足りない!との政府や官僚ら、その他の「識者」らの主張が本当のことなら、さしあたって、家計に余裕ある家庭の子どもの進学まで無償にする緊急性が あるとは思えない。
それよりも、もっと喫緊の課題が あるのだし、そっちを解決してからでも遅くない。
私は、『教育勅語』を持ち上げるような「全体主義」教育やら「皇民教育」なんざ、へどが出る、と言い続けてきた。
「教育を受ける権利」とは言っても、どんな内容の教育でも、とは到底、思えないのよ。
さて、朝鮮学校という所の教育方針に、問題は ないのだろうか。
私には、
祈ってくださる、あ いや、
「守ってくださる金元帥さま」
と、個人崇拝を前面に出して、
現に日本国内で生活している児童・生徒らに、日本人は悪人であるというように思い込ませ、
もちろん、自国の歴史については、どれほどの客観性を担保しているのやら甚だアヤシイ、そのような「洗脳」めいた教育ぶりは、
まさに、かつての「大日本帝国臣民」教育そっくりだと、大いに共通性を見い出すものだ。
何が何でも、やみくもに片方だけを擁護しまくるのも、胡散臭いと思われてしまう。
ひいきの引き倒しは、逆効果。
それは、「ミギ」でも「ヒダリ」でも同じこと。
2019.01.28 (Mon)
なんだかんだ言って、
白人種以外の人種や他民族、異教徒に対する蔑視感情が潜んだままなのか、あるいは、
植民地に対して、決して謝罪しない、という頑強な姿勢は、白人の精神文化であるらしいところの
「責任を本当に とれないからこそ、もはや取り返しが つかない事こそ、謝らない、謝れない」
という考えかたに由来するのか、
よく分からないが、まあ、だいたい、日本も、それらに倣っているらしい。
そのうえ、
日・韓においては、実質・実態、それらにまつわる機微は どうあれ、
「併合」という国家間の法的手続きを踏んでいた、はず。
「そもそもは、日本に原因」
だ・か・ら。
名目上だか実質だか、日本国民でも、よく分からんところは あるが、とにも かくにも国家間で取決めを行い、補償金を支払った。
そもそもの原因は当方・日本側に存したと認めていたからこそだ。
でなければ、払うはずも ないじゃないか。
このことは、「ネトウヨ」「ウヨ」らも、ちゃんと認識すべきことだぞ。
あとは、
韓国自身が、自国民に対して、相応に やるべきことを やってきたのか どうかだ。
その問いから、いつまでも逃げるな。
逃げるために、国内政局のために、日本を利用するな。
「正式な、本当の謝罪というものを受けたことは ない」そうですか。
ずばり言ってしまおう。
そうだとしても、だから なに?
これは、日・韓両国ともに指摘できるが、
一般国民に向けた「ストーリー教育」を施して、政局に利用するな。
安倍政権に至っては、特にそうだ。
政治的に好都合のストーリーを施され、洗脳されていたと知ったあとの国民は、戸惑い、恥ずかしい、惨めな思いを することになる。
ますます、コンプレックスが深まる。
コンプレックスが深い者ほど、頑なになる。
だいたい、「非常識だ」などと、
韓国側自身が、そう言われても しかたないとは微塵も考え致さないらしい。
現大統領の文氏は、彼もまた、法曹界の出身だそうだから、青臭いほどの理念や理屈が先行する面が大きいのかもしれない。
私は、こういうタイプは、けっして嫌いでは ない。
だが、国家として未熟な国、と言われても しかたないような印象も受ける。
「個人の請求権」というものは、それは それとして、民主主義の基本的な おかしがたい理念では ある。
しかしながら、国家間で取決めたことも、重大なことである。
それを履行する国内政治の手腕、説得力も問われてくる。
日・韓ともに、それぞれの問題点は ある。
日本側も、「感情むき出し」韓国よりは、幾分か冷静に見せているようでも、「策士、策に溺れる」を地で行くように見えても、ワキの甘さを残していたようだし、
結局のところ、両国ともに、その時々で、自分につごう良く、見解を変遷させてきている。
現代では、陰に陽に、情報をコントロールしていてさえ、そのへんの一般民でも、高い知性を持ち、その気にさえなれば、どこからか、ほんとうのことを知る手立てが多少なりには ある時代だ。
謝罪するべきを、頑として しない、本当に そうであるなら、そんな不誠実きわまる相手を向こうに回して、「千年でも」むなしく執着し、膠着事態を起こし続けるよりも、
あくまでも事実は事実として示したあとは、わが道を粛々と歩んで行くが良い。
ネガ・ポジみたく酷似している日・韓、
似ているからこそ、腐れ縁夫婦よろしく縺れ合う日本と韓国、この二国には、ほんとうにウンザリしてくる。